深海に月
05

「レティシア、もう寝ましょう」
「んー、すこし、ちょっとだけ……」
エステルの部屋で頁をめくっていると困ったようなため息が降ってきた。今いいところだから、とあやふやな口調で言ったと思ったけど、部屋のドアが開く音で自分でも聞こえなかった。
「ラピード?ラピード!どこ行くんです?」
ああ、ラピードがドアを開けたんだ。そう思ったのと同時にわたしは本から顔を上げた。エステルがちょうど部屋を出て行ってしまって、あ、と声が漏れる。どうしたんだろう。
どうしよう。ここはエステルの部屋だから、勝手に居座るのはよくないかもしれない。それに集中力が途切れてわたしもラピードがどこに行ったのか気になってしまった。
本にしおりをはさんでそっと外を伺う。エステルが角を曲がっていくのが見えたので慌てて追いかけた。お城が広いということをすっかり忘れてしまっていた。
角を曲がっていくつか廊下を走って、気がついたらエステルを見失ってしまっていた。たぶん、方向的には外に出たんだと思うんだけど……。と、きょろきょろとあたりを見回していると騎士の人に声をかけられてしまった。びくりと肩が自分でも大げさだと思うくらいに跳ねる。
「お前、いや、あなたはエステリーゼ様の……。どうなさいましたか?」
「エステル、みた、です?」
「エステリーゼ様をお探しで?こちらにはいらっしゃいませんでしたが」
「理解したです」
「あ!」
騎士団の人はどうにも苦手だ。エステルを見ていないと言っていたのでそそくさと踵を返して走る。後ろで困惑しているような気配がしたけど知らないふりだ。
「レティシア様。こんな時間にどちらへ?」
そうしてどうにか城の門まで辿り着いて、こそこそと外に出ようとしたらまた騎士の人が話しかけてきた。跳ねる心臓をおさえて顔を逸らす。
「エステルきた、です?」
「ええ、先ほどいらっしゃいました。何かございましたか?」
「エステル、お手伝いするです。行く、します」
「しかし……」
「仕事です」
きっぱりと言い切ってさっさと門を出てしまう。さて、ラピードとエステルはどこに行っちゃったのかな。暗い外はなんだか怖い。街はいつもぼんやりと明るかったからこんなに暗い中を歩くのははじめてかもしれなかった。
空があるのもなんだか不便だなあと思いつつとりあえず下町のほうへ向かってみる。わたしが行ったことがあるのはそこらへんだけなので、エステルがいなかったら諦めて戻ろう。迷子になったら大変だもん。
「お嬢ちゃん、こんな時間にどこへいくんだい?」
と、急に声をかけられてまたびっくりしてしまった。もしかして、わたしは騎士の人というより大人の男の人が苦手なのかもしれない。大柄な、なんだかガラの悪い人が二人ニヤニヤ見下ろしてくるのにわたしは後ずさった。
「わたし、さがしてる、人……」
「手伝ってやろうか?」
「いや、いやです」
「そう言わずに」
腕を掴まれそうになったのでとっさに身をひるがえした。そのまま路地に逃げ込むと後ろから追いかけてくる気配がして、怖くて足がもつれそうだった。
「おいおい、逃げんなよ。手伝ってやるって言ってんのによ」
何か言ってるのが聞こえたけど何も聞き取れない。こわい。フレン、と心の中でつぶやいたけどフレンがこんなところにいるわけなかった。お城とは正反対の方向に逃げてるのは自分でもわかってる。
そうして狭い場所を駆け抜けて、たどり着いた先は袋小路だった。あ、と声が漏れて足が止まる。どこか、どこか隠れる場所、逃げられる場所は――。
「ようやく追い詰めたぜ」
「油断するなよ、魔導器持ってやがる」
「やれやれ、貴族ってのはよ」
そうしてる間に男の人たちが追いついてきて、じりじりと距離が詰められる。どうしよう、どうすれば。
「ワウ!」
「ああ?犬?」
わたしと男の人たちの間に建物の屋根の上から影が飛び降りてくる。――ラピードだ。わたしは目を丸くして彼を見た。ラピードは刀を口に咥えて、目にも留まらない速さで男の人たちに切り掛かっていった。
「うおっ!?」
「なんだこの犬っ、あ、ぐああっ!」
あっという間にラピードは男の人たちをやっつけてしまって、逃げていく彼らを見て鼻を鳴らした。うそ、ラピード……もしかして、ものすごく強い?
「ら、ラピード」
おそるおそる声をかけるとちらりと視線を向けられた。わたしはその視線に安心してしまって、膝から力が抜けてその場に座り込んだ。
「ウウ」
「ラピード……、感謝、えと、ありがとう」
「ワン!」
ちょっと近づいてきてくれたラピードは、大したことではないと言わんばかりに尻尾を振った。はあ、助かった。ほんとに、怖かった……。ぶるりと身震いして自分を抱きしめる。
いつまでも安心して座り込んでいるわけにはいかない。というかラピードを追いかけて行ったはずのエステルはどこに行ってしまったんだろう。わたしが立ち上がるとラピードはついてこいというふうにゆっくりと歩き出した。
ラピードは入り組んだ路地もよく知ってるらしく、出たのは下町の奥だった。そこから噴水のほうにいくと二人の男女が腰掛けていた。一人はエステルで、もう一人は――。
「ラピード、またお前どこ行ってたんだ?……って、そっちは……」
長い、黒い髪の男の人。ラピードは悠々とその人のもとへ歩いて行くけど、わたしは思わず足を止めてしまった。
「レティシア?!どうしてここに」
「エステル」
エステルが驚いた様子で駆け寄ってくる。わたしは何と言うべきか迷って、少し考えてから口を開いた。
「追いかける、した。迷った、ラピード助けてくれた、です」
「そうだったんですね。でも、危ないです。一人でこんな夜に……」
「それはエステルも一緒だろ」
黒髪の人が肩をすくめる。わたしはエステルの陰に隠れるようにしてその人を見上げた。知らない人だけれど、特徴は一致する。
「……ユーリさん?」
「お?オレのこと知ってんのか。……もしかしてエステルの妹とか?」
「妹……。そうです!妹、みたいな感じです。ね、レティシア」
そうなのかな。でも髪の毛の色は一緒だし、「力」を持ってるのも同じだ。ヨーデルはわたしと親戚みたいなもの、と言っていたのでそんな感じなのかもしれない。
「レティシア、じゃあレティだな」
「?」
「ユーリっていつもこうなんです。私をエステル、って呼んだのもユーリが最初なんですよ」
「だって長いだろ。で、レティはエステルを追いかけてここにきたってことでいいのか?」
ユーリさんの言葉に頷く。ユーリさんはエステルと顔を見合わせるともう一度わたしに視線を移した。
「もう用は済んだからな。よっし、じゃあ城……の近くまで送ってってやる」
「ええ?だからユーリは今日はもう休んで……」
「そう言いなさんな。夜遅くこんなところまで呼びだしたのはオレなんだからさ」
エステルはすこし迷うようなそぶりを見せてから「じゃあ……」と頷いた。なんとなく、ユーリさんといられるのがうれしいのかなと思う。エステルは結構落ち着いてるひとだと思ってたけど、なんだか私といるときと雰囲気がちょっと違った。もしかして、落ち着いてたんじゃなくて落ち込んでたのかもしれない。
「じゃ、また明日」
別れ際にユーリさんがそう言ったのに、エステルはすごくうれしそうな顔をしたから。


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