リピカの箱庭
26

ドレスを身にまとい、教会の荘厳な広間に立つ。導師エベノスとの会見はあっさりと終わった。私は決められた文言を述べればいいだけで、それ以上は期待されていないのだから。
ただ気になったのは導師と共にいた赤ん坊だった。まだ立って歩くこともおぼつかない年齢のその幼子は、次代の導師と預言で定められているらしい。つまり――導師イオン、オリジナルだ。
預言に支配された世界で、そんなことを詠まれてしまうなんてなんて残酷なのだろうと思う。更にはその死期まで彼は宣告されてしまうのだ。絶望してしまっても無理はないと思う。
そんなことを考えていたのが分かったのか、ピオニー殿下に小声で尋ねられる。
「次代導師が気になるのか?」
「……そうですね」
抗えないと思ってしまうことがどんなに虚しいか。引鉄に指をかけたのはヴァン・グランツだけではなかった。最後に引いたのが彼だっただけだ。
「――預言はなぜ正しいのかご存知ですか」
そう言ってピオニー殿下を見上げると、殿下は面食らったように私を見ていた。そんなことを訊くものがいるとは想像もしていなかったような顔だ。
「どういう意味だ?」
教科書通りの答えが欲しいわけではないのだろうと殿下が問い返す。私は視線を逸らして微笑んだ。
「殿下もきっと、じきにお分かりになります」
「卿はすでに知っているのだな」
私は答えなかったが、沈黙が答えだった。ちょうど他の人が殿下に近づいてきたのを見て一礼して身を翻す。会見中は教団側も硬い雰囲気だったが、それを終えて会食が始まる段になると貴族のパーティーと大差なくなっていた。権力を持つ人たちの欲は変わらないということか。
とはいえドレスなんか着ているのはマルクト側の人だけだし、私は目立つのが嫌で中庭に抜け出した。子供だから疲れたとか言い訳すればいいかと思ってベンチに腰掛ける。実際に堅苦しい雰囲気に気分は悪くなっていた。
空を見上げると月が見える。ほとんど消えかけの三日月と、美しい星空に息を吐いた。夜風が冷たくて、指先から冷えていくのが分かる。
「――戻られぬのですか」
後ろから誰かの足音がした。かけられた声は、あのころよりも幾分か低い。きっと、一度幻のような彼に出会っていなければこんな平静を保ってはいられなかっただろう。
「気分が――優れないのです」
「では、お休みいただける場所へご案内いたします」
私の前に回ってきて、ようやく顔を真っ直ぐに見上げられる。暗がりの中でもはっきりと分かる優しい瞳は私が知っているままのヴァンデスデルカだった。
だから、差し出された手を取った。
「ありがとう。ヴァンデスデルカ」
エスコートされている間は互いに無言だったけれど、沈黙は優しいものだった。案内されたのは広間の近くの一室で、私にドアを開いて招き入れたヴァンデスデルカは後ろ手で扉を閉めた。
「何かお飲み物をお持ちしますか?」
「いいえ。ヴァンデスデルカ――こっちに来てください」
ヴァンデスデルカは一つ頷いてソファに座った私の前に跪いた。自分の手が震えているのがわかる。相変わらず私よりも一回りも二回りも大きな手は温かい。
「ヴァンデスデルカ、本当にあなたなのですね」
「はい。レティシアお嬢さま」
「ほんとうに、」
声が喉の奥に詰まる。ヴァンデスデルカはそんな私に微笑んでみせた。
「レティシアさまがいらっしゃるとお聞きして、お姿を一目でも拝見できればと思いここまで来てしまいました」
声をかけるつもりはなかったのだとヴァンデスデルカは言う。でも、私を放っておけなかったのか、それとも――。その真意は分からない。
「……あなたは、神託の盾騎士団に?」
「その通りです。まだ士官学校に所属する身ですが」
「戻ってきてはくれないのですか」
反射的にそう尋ねていた。ヴァンデスデルカの手を強く握ってしまう。ただ一つの、最後の希望にすがるように彼の青い瞳を覗き込んだ。
「フェンデ家の当主として、戻ってきてはくれないのですか。私と共にあってはくれないのですか」
彼の苦しみは私と分かち合えるものだ。預言に毒された世界が憎くて、絶望しか残っていないこの世界を作り替えなければ滅びるだけだと知っている。そして私は、ヴァンデスデルカが願って作り出そうとした世界は――筋書き通りならきっと実現しないことも知っている。
「それはできません」
でも、だからこそ、ヴァンデスデルカが私の言葉に頷いてくれないことも分かっていた。
「ヴァンデスデルカ……」
「今の私はヴァン・グランツです、ガルディオス伯爵」
その言葉が刃のように刺さる。もう戻れないのだと、現実を突きつけられるようだった。
「どうしてです。どうして、ヴァンデスデルカ。私が無力だったからですか。あなたを救えなかったから」
「いいえ、私はあなたに救われています。誰よりもあなたに」
だったらなぜ、という気持ちは言葉にならない。ただの慰めではないかと胸の底では思ってしまっていた。私は結局ホドで何を成すこともできず、そして今も目の前の彼が決めた心を覆すこともできない。
「心配なさらないでください、レティシアさま。いつか必ずあなたの元へ参ります。あなたはそれすら知っているのかもしれませんが」
なにかを見通すようにヴァンデスデルカは言った。そう、私が知っていることを彼は聞き出そうとはしなかった。ヴァンデスデルカがホドが滅ぼすことを詠んだ預言も、この惑星の消滅預言も、そしてそれ以上のことを私が知っている可能性を考えていてもなお彼は私を使おうとしない。背筋が凍る思いがする。私が夢想した心地の良い誘惑は何一つとしてなかった。
――そこにはただ、確固たる意志があるだけだった。
「それにフェンデ家には我が妹、メシュティアリカがおります。まだ幼子ですが、長じればガルディオス家の剣となりましょう」
「……そう、ですか」
私は茫然とそう言うしかなかった。ヴァンデスデルカは私の手を取って甲に口づける。そんなことさえするのに、共に行けないなんてなんて哀しいのだろう。
ヴァンデスデルカは立ち上がる。丁寧に礼をして去ろうとする彼の背中に向けて、私は震える唇をどうにか開いた。
「ヴァンデスデルカ、」
扉を押し開こうとした彼は背を向けたまま立ち止まった。ソファに手を置いて、立ち上がった私は縋るように言葉を告げた。
「決して――死んではなりません」
彼は薄く唇で微笑む。その微笑みは冷酷にも見えた。
「仰せの通りに。レティシア様」
ドアが閉まる。
私はソファに倒れ込んで、声にならない呻きを上げた。


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