リピカの箱庭
25

ダアトでマルクトの使節団が宿泊しているのは迎賓用の屋敷である。私もそこに宿泊しているわけだけれど、一国の皇子が泊まっているだけあって今は警備が厳しい。つまり出るのは比較的容易でも、侵入は難しいということである。
屋敷の門から少し離れたところで立ち止まったジェイド・カーティスは、私を振り返ると眉間にしわを寄せて見下ろしてきた。
「ところで、あなたは誰にも告げずに抜け出してきたということでよろしいですね?」
「……そうですが」
「つまり、戻る手立てを準備していると?」
そんなことはすっかり忘れていた私は当然侵入する手段なんて考えていなかった。自分の屋敷くらいならともかく、神託の盾騎士団やマルクト軍人が警備しているような屋敷に侵入するスキルなんて持ち合わせていない。ぐ、と言葉に詰まって目を逸らした。
「持っていないのですか。……仕方ありませんね」
突っかかろうにも彼に非は全くない。ダアトに来て浮かれていた私が完全に悪かったし、迎賓館の警備について考えが甘すぎた。身分を明かせば入れるだろうけれど、抜け出したことがバレるのは極力避けたい。押し黙る私に頭上からこれ見よがしなため息が降ってくる。
「では服装を整えてください。私についてきてもらいます」
「……あなたは入れるのですか?」
「入れなければ言いませんよ」
その通りだ。そしてやっぱり、彼がダアトを訪れたのはただ巡礼のためだけではないのだろう。そうでなくては軍人といえど簡単に迎賓館に入れるとは思えない。
借りを作るのは癪だが、ここまで来て反発したって何にもならない。私は言われた通り身だしなみを整えて再びジェイド・カーティスの後を追った。案の定門番の神託の盾騎士団兵に呼び止められたが、すぐにマルクト兵士が呼ばれてスムーズに進入することができた。
「これはカーティス大尉。殿下からお聞きしております」
「ご苦労」
「こちらの少年は?」
「家の使用人です」
なんでもないことのようにカーティス大尉(今は大尉だったのか)が言うので私もごく普通に軽く会釈をした。怪しまれることもなくそのまま中に入れたので、私は内心胸をなでおろした。使用人扱いされたことは、うん、気にしていない。
さて、入れたからにはもうさっさと部屋に戻ってしまったほうがいいだろう。そうカーティス大尉に声をかけようとしたところで先に誰かの声がした。
「ようジェイド。早かったな」
「想定外の拾い物をしましてね」
「ほう?」
なんてツイてないんだろう。私は泰然と歩いてくるピオニー殿下に思わずカーティス大尉の背後に隠れてしまった。ピオニー殿下の笑みが深くなった気がして嫌な予感がする。
「それじゃあ二人とも、俺の部屋に来い」
私は関係ないのではないかと反論する元気もない。疲れていたのでさっさと部屋に帰りたかったが、殿下の部屋に向かうしか選択肢はなかった。

殿下の部屋といっても通されたのは応接室のような場所だった。メイドや兵士をすべて部屋の外に出してから、殿下はゆったりとソファに腰かけて笑みを絶やさずにこちらを見つめてくる。なんというか、面白がっているような雰囲気に少しむっとしてしまった。
「疲れているかと思ったが、元気だったようだな?レティシア」
「……ええ」
「そう拗ねるな。後でこういうときにバレない脱出方法を教えてやる」
「殿下。手がかかる人間を増やすのはやめてください」
「はは、今度はお前にもバレないようにしてやると言ったんだ」
「なおタチが悪い」
カーティス大尉は肩をすくめたが、すぐに切り替えて「それで」と封筒を取り出した。
「さっさと報告を済ませたいのですが」
「構わん。サフィールの件はガルディオス伯爵にも話してあるからな」
「……」
どうやらカーティス大尉は先にダアトに来てネイス博士についての調査を行っていたらしい。カーティス大尉は何か言いたげにピオニー殿下を睨んだが、何も言わずテーブルに封筒の中身を滑らせた。地図に細かい文字が書きこんである。
「これがサフィールの足跡です。今は第三地区の宿に宿泊しているようですね」
「接触したか?」
「相変わらず逃げ足だけは早かったですよ」
「お前でもダメだったか」
「今のアレに私と話そうという気はないでしょう」
面倒臭い、とカーティス大尉は綺麗な舌打ちを一つしてソファに沈み込んだ。おや、と思う。思っていたよりも彼はネイス博士のことを気にかけているようだった。
「で?ガルディオス伯爵に説得させるとでも言うんですかあなたは」
「お前や俺に無理なら他の者に頼むしかないだろう」
「――この娘をこれ以上、この件に関わらせるな。ピオニー」
ひどく硬い声色で彼が何を言ったのか、一瞬理解できなかった。思わずカーティス大尉を見上げる。彼とは視線が合わなかったが、ピリピリとした雰囲気は痛いほど肌に刺さった。
「何故だ?」
「部外者だろう」
「だが、適任だ」
「フォミクリーについて掘り返すのに適任だと?笑わせるな」
大きな声ではなかったが、まるで怒鳴るようだった。困惑するしかない私をよそに、ピオニー殿下は淡々と言葉を返す。静かに怒りを露わにするカーティス大尉とはある意味対照的だった。
「これが最善の手だ。無理矢理連れ戻したところでサフィールは懲りないだろうからな」
「言って聞かない馬鹿は牢にでもつないでおけばいい」
「ジェイド。それは最悪の場合だ」
なぜそこまでカーティス大尉は私を関わらせまいとするのか、そのことについてピオニー殿下は突っ込まない。暗黙の了解とでもいうべきものが漂っていた。私はどうにも居心地が悪くて、二人から視線を逸らした。私のいないところでやってほしい。
「そもそも、だ。レティシアは引き受けてくれたぞ」
「それはお前の命令だからだろう」
「そうなのか?ガルディオス伯爵」
急に話を振られては答えるしかない。私は視線を戻して渋々答えた。
「いいえ、取り引きをしたからです」
「ピオニー、こんな子供に何を――」
「カーティス大尉」
私は立ち上がって、それでも私より高い位置にある彼の顔を見上げた。剣の柄に手をかける。
「あなたに、それを言う権利があると?」
私は子供だが、伯爵位にある子供だ。なぜこんな子供がその立場にあるのか忘れたわけではあるまい。カーティス大尉は同じように立ち上がって、そして膝をついた。
「……過ぎた事を申しました」
「許します」
今さっき助けられたばかりなのだ。多少は寛容にならねば彼の心遣いに報いることはできない。私は手を下ろすとピオニー殿下を振り向いた。
「殿下。どうなさるのです」
「俺の考えは変わらん。卿には協力してもらうつもりだ」
「かしこまりました」
「仔細は後ほど伝える。時間を取らせてすまなかったな。下がっていいぞ」
今、カーティス大尉が反対しているままでは打ち合わせなどできないということだろう。私は一礼してさっさと部屋を出ることにした。
重いドアを開けようとしたところで後ろから手が伸びてくる。カーティス大尉が扉を押し開いて私を見下ろしていた。
「……」
何も言わない彼に、私も何かを告げることはない。その赤い瞳にどんな感情が宿っているのか、目を逸らした私に知るすべはなかった。


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