リピカの箱庭
19

生体フォミクリー研究が禁止されたとシミオンから聞いたのは、ピオニー殿下が次期皇帝として表に出るようになってからしばらく経った頃だった。ケテルブルクから居を移してジェイド・カーティスの説得も進んだのかもしれない。いずれにせよ、私が関わりようのなかったことだ。軍事的に有用なフォミクリー研究の放棄には皇族であるピオニー殿下の尽力が必要不可欠だっただろうから。
屋敷にあるフォミクリー関連の書籍はとりあえず地下室に隠しておくことにした。変わったのはそれくらいで、私に何かの通知が来たわけではない。本当に何が変わったのだろう。何か変わったのだろうか。
そんな無為な考えは舞い込んできた手紙に霧散することになった。
「お嬢様っ、た、大変です!」
手紙を持ってきたのはロザリンドだった。すこしそそっかしいところはあるけれど、落ち着いている人なのでバタバタと書斎に駆け込んできたのがすでに異常事態だった。
「どうしましたか、ロザリンド」
「あっ、ああ!なんという……でも、これは……」
「ロザリンド、落ち着きなさい」
騒ぎを聞きつけてやってきたエドヴァルドがロザリンドを宥める。息を切らしていたロザリンドは顔を真っ赤にしたまま眉を下げて持っていた紙を握りしめた。
「セ……セシル様がマルクトに亡命なさりたい、いえ、もうキムラスカを発ったと……!」
「はい?」
思わずそう聞き返していた。セシル伯爵家というとお母さまの実家である。そして伯爵家はホド戦争でキムラスカを裏切ったとして領地を没収され没落した。お母さまが――ファブレ公爵に協力しなかった、から。
国賊とまで呼ばれるようになったセシル家の者がマルクトに亡命する。ありえなくはないけれど、こちらとしては頭が痛い事案だ。
何が問題かというと、まず私でなくロザリンドを通してることだ。ロザリンドはお母さまのメイドの娘なのでキムラスカ出身で、お母さまの実家であるセシル家とのつながりがあるのは当然だ。私としてはキムラスカの親戚や知り合いと関わっていたことを責める気はない。
「ロザリンド。手紙を見せなさい」
「か、かしこまりました」
顔を青くしながらロザリンドが手紙を差し出してくる。くしゃくしゃになってしまったそれを受け取って文面を確認する。どうやら差出人はロザリンドの従姉のようだった。セシル家に仕えるメイドだ。
手紙にはセシル家の長男が出奔してしまい、お母さまの弟であるセシル家当主が気を病んでしまったこと、残った長女を同じ目に遭わせるわけにはいかないとセシル伯爵夫人とその長女がこちらに亡命を決めてもうキムラスカを発ったという旨が記されていた。ガルディオス伯爵に寛大な措置をロザリンドから頼んでほしい、と締めくくられている。
読み終わった手紙をエドヴァルドに渡し、彼が読み終わるまでロザリンドは顔面蒼白で今にも倒れそうに震えていた。眉間に深い皺を刻んだエドヴァルドが手紙から私に視線を移す。
「追い返すしかありますまい」
「そ、そんな……」
きっぱりと言い切ったエドヴァルドにロザリンドはいよいよ膝をついてしまった。私の前だというのに立ち上がる気力すらなさそうだった。
「お嬢様、私はとんでもないことを……どうか、どうかお赦しを」
「ロザリンド、あなたは悪くありません。それに追い返すこともできません」
二人が同時に私を見る。本当に困ったことになってしまった。だが、起こってしまったことは対処しなければならない。これは――ガルディオス伯爵代理である私が今ここにいるから起きたことなのだから。
「敵国の者を迎え入れるというのですか……!」
「そうです。よいですか、エドヴァルド。セシル家とガルディオス家の姻戚関係は事実です。マルクトに入る以上、こちらで対処せねばなりません」
「ですが」
「放置したほうが面倒なのです。何をするかわかりませんから」
問題の二つ目は、私が何の手配もしていないのに彼女らが入国できてしまうであろうことだ。当然だがマルクトの国境を没落したとはいえキムラスカ貴族が簡単に通れるわけがない。一般市民に身をやつしていれば不可能でははないが、それよりも他の人間が旅券を手配して与えたと考えた方が自然だ。
では、一体誰が。
考え得るのはただ一人だ。
「こちらは罠を作って待っていればよいのです。引っかかればそれでよし、そうでないならなおさら叔母様やジョゼットお姉様を迎えるのに問題はありません」
「……レティシア様。それは」
「ええ、キムラスカの人間であってもです。ですが、準備が整うまでは内密に」
エドヴァルドはなおも食い下がろうとしたので、ひとまずロザリンドを部屋に返しておく。いくらか顔色を取り戻したロザリンドは深々と頭を下げて退室していった。エドヴァルドもロザリンドを責めたいわけではないのだろう。彼女を心配そうに見送っていた。
さて、話を戻そう。エドヴァルドをはじめとするホドの住民たちのキムラスカに対する心証が最悪なのは私も承知している。それでもなお、仮に裏がないとしても、セシル家の人間を受け入れるのは単純に、私情だった。
「エドヴァルド、あなたはジョゼットお姉様に会ったことはありますか?」
「……はい。もちろん、兄君にも」
ジョゼット・セシル。ゲームでは少将となっていた人物だ。セシル少将はガイ・セシルの生存に憎悪の感情を露わにすることはなかった。彼女の家の没落の原因が、お母さまにあるとも考えられる立場なのに。そう、お母さまを、ガルディオス家を恨んでもおかしくないひとなのに。
ジョゼットお姉様に会ったのは一度きりで、当然互いに幼かったけれど私はジョゼットお姉様が好きだった。反対に、叔母様にはあまりいい印象はない。セシル家に嫁いだその人は、マルクトの貴族と結婚したお母さまが好きではなかったのかもしれない。
「ジョゼットお姉様は……国に見捨てられた人です。私はジョゼットお姉様が哀れだと思うのです」
「……はい」
「分かっています、エドヴァルド。決してキムラスカ貴族のジョゼット・セシルをそのまま迎えることはしません。ですから、最終的に彼女たちをどう判断するかはあなたに任せます」
それならば、私は少なくともエドヴァルドの反感を買わずには済む。私の立場上、民を敵に回すのはまずい。私は同情の上で生きる貴族で、私にとって一番大切なのはガイラルディアだ。それを裏切ることはできない。
「お嬢様のお心のままに」
「ありがとう」
頭を下げるエドヴァルドに声をかける。とりあえず、二人を迎え入れる準備は必要だ。それを改めて頼もうとしたところで、ドアがノックされた。
「誰だ」
「エヴァンジェリンでございます。ホドグラドから使者が参られております」
ホドグラドから?私は立ち上がって、エドヴァルドにドアを開けてもらう。エヴァンジェリン――ホドから一緒に来たメイドの一人はちらりと視線を寄越してから一礼した。
「応接室にお通ししております」
「エドヴァルド、着いてきなさい」
「かしこまりました」
何の用件だろう。色々考えを巡らせつつ応接室に向かう。待っていたのは、若い騎士のひとりだった。ひどく緊張した様子でソファに座っている。
「王城から使者が参られてまして、こちらの書状を伯爵にと」
そう言って渡された書状に嫌な予感しかしない。そして案の定、呼び出しの書状だった。


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