リピカの箱庭
幕間02

アンドレ・シミオンはマルクト帝国に生まれたごく普通の一般市民だった。大学を卒業して軍の研究所に入ったのは預言を頼りにしてのことだった。天才ともてはやされるケテルブルク出身の博士二人には遠く及ばないものの、大学の成績は上から数えた方が早く、軍属になるのに苦労はしなかったし、なってからもそう大変なことはなかった。研究所の雰囲気は心地よかったとすら思える。研究対象が動物であれ魔物であれ、はたまた人間であろうと関係なかった。軍属になった以上は上からの命令が絶対だ。成果が出ればそれでいい。戦争に勝つためという大義が免罪符になっていた。
シミオンがそのことの異常性に気がついたのは軍を辞めてからだった。
ホドのフォミクリー研究所に配属されたシミオンはある子どもに出会った。研究所に侵入したその子どもは、譜術を扱うという意味で普通ではなかった。けれどシミオンにとってその子どもが特別だったのは、別の理由があった。
幼い少女は貴族だった。生まれが、だけではない。その立ち振る舞いは平民とは一線を画していた。だからシミオンの胸にその子どもの言葉は染み付いて離れなかった。
「ここからひきあげなさい。ホドをほろぼすことはゆるしません」
舌足らずの幼い声に威を乗せた言葉はアンバランスで、同時に預言のように神秘的だった。その後子どもと接する際に緊張してしまったほどだ。
そして、その子どもの言葉は少なくともシミオンを動かすには十分だった。家族の元に、グランコクマに戻ったほうがいい。その言葉にしたがってシミオンは軍を辞めた。ホド戦争が勃発する二ヶ月ほど前のことだった。
故郷に戻り、しばらく経ったのちにシミオンの耳にも噂は届いていた。ホドの生き残りの伯爵家の娘。戦火に巻き込まれ逃げ出してきた民たちに心を砕くその子どもはシミオンの見た貴族らしい彼女そのものだった。高慢さではなく、高貴さがその行いから滲んでいる。停戦が結ばれてから難民街がガルディオス伯爵の管轄下となったのもある意味当然だった。
そんな彼女はシミオンにとってはまさに天上人だった。皇帝のような、いや、始祖ユリアのような存在だ。だから会いにゆこうなどとも思っていなったのだったが。
出会いが必然ならば、再会も必然だったのだと思う。
王立大学の図書館に足を運んだシミオンはいつものように譜術の資料が豊富な一角で背表紙を眺めていた。軍を辞めてからは家庭教師をして食いつないでいたが、譜術への興味が尽きたわけではない。常に新しい知識をアップデートするのはシミオンにとっては義務とも言えた。
何冊か本を選んで、閲覧室へ向かう。勉強をしている学生も多く、ひそひそと会話が交わされていたが耳障りなほどではなかった。ぐるりと見渡して、空いてる席がないか確認しようとしたシミオンの目に留まったのは幼い少女だった。
王立大学の図書館を利用するには許可証が必要であり、さらに言えば使用料を払う必要もある。そんな場所にまだ計算も覚束なさそうな年齢の子どもがいるとは珍しいと感想を抱いたシミオンは、ふと本から顔を上げた少女と目が合った瞬間に背筋がピンと伸びるのを感じた。
その少女こそが、レティシア・ガラン・ガルディオスだった。
何度か目を瞬かせた少女はにこりと微笑んでみせた。向かいに座る女性が怪訝な顔をしたが、シミオンは気づかずにふらふらと引き寄せられるようにレティシアに近づいた。
「こんにちは」
「お、お久しぶりです」
声をかけられて挙動不審になりながら返す。頭の中でぐるぐると考えていた言葉は一つも出てこなかった。そんなシミオンを意に介せずレティシアは「今時間はありますか?」と尋ねてくる。
「は、はい!」
「少し聞きたいことがあるのです。付き合ってもらえますか?」
「もちろんです!」
上ずった声で答えるとレティシアはシミオンに座るように促した。声の大きさを調節できず目立ってしまっていることにも気がつかずにシミオンはぎこちない動きて着席する。そこでレティシアの手元にある本にようやく意識がいった。
ジェイド・バルフォア博士の執筆した本だ。フォミクリーを研究していたシミオンには馴染みが深い。レティシアのような年頃の子どもが読む本ではなかったが、そんなことはもはや気にならなかった。
レティシアは単純に本の内容でわからないことを尋ねたかったらしい。シミオンは必死に持てる知識を総動員してレティシアの疑問に答えた。家庭教師の経験があってよかったと心から思う。噛み砕いて説明することがこんなに重要だと、研究所時代は全く思っていなかったからだ。
「とてもわかりやすいです。教えるのがうまいですね」
「恐縮です。お嬢様こそ、理解が素晴らしい」
「お世辞はよいですよ、ええと……」
「シミオン軍曹……元軍曹です。お好きにお呼びください」
名乗ってすらいなかった失態を、レティシアは気にしていないようで「では、シミオン」と頷いた。
「よければ今後もあなたに教えてもらいたいのですが」
「……は、」
「私に雇われませんか?」
頭が真っ白になる。思い返しても驚きが大きすぎてなんと返したか記憶が定かではなかったが、ノータイムで頷いたことだけは覚えていた。

レティシアと共にいたのはガルディオス家のメイドだったらしい。翌日に指定された時間にガルディオス伯爵邸に向かったシミオンを出迎えたのはそのメイドだった。ついでに、執事のような男もいた。
「あなたがアンドレ・シミオンか」
警戒していることを隠さずに男がシミオンを眺める。緊張しながらもシミオンはどこか余裕を持っていた。レティシアと話すときのほうがよっぽど緊張するし、かつての上司であったバルフォア博士の方がきっと手強かった。
「いったいどこで、レティシア様と知り合ったのだ」
「ホドの研究所で、です。私はフォミクリー研究に従事していましたから」
「……あのときか。ではなぜ軍籍を離れた?」
「お嬢様に声をかけていただいたからです」
「は?」
「グランコクマに戻るべきだとお嬢様は仰せられました。それに従ったまでのことです」
「なに?……やはり、お嬢様はご存知で……」
男はシミオンの言葉に眉根を寄せたが、呟いた言葉は聞き取れなかった。けれど納得はしたようでそれ以上尋ねてくることはなかった。
代わりに差し出されたのは契約書で、シミオンは書かれた金額に口角を引きつらせながらサインした。貴族の家庭教師がこんなに儲かるものだったとは。それともレティシアが特別なのかはわからなかったがともかくしばらくは困りそうになかった。
「茶を飲んだらレティシア様の書斎に案内させる」
男は――エドヴァルドという執事はそう言って応接室を出て行き、残されたのはシミオンとメイドだけだった。ようやく一息ついたシミオンは高価そうな陶器のカップに口をつける。香りの高い紅茶は今までに飲んだことのないくらいおいしかった。


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