ラーセオンの魔術師
51

息が苦しい。
何かに四肢を絡め取られたようにうまく動けなかった。何があったのだったっけ。思い出そうとして頭が痛い。目を開けて、前を見ないといけないのに。
ちらちらとまぶたの裏を光が差す。誰かの足音と声が聞こえてきた。
「ごくろうさま。これでおまえの役目は終わりだよ」
「……なんで、レティシアが」
「わからないほど愚鈍だったのか?」
泣きたいほど冷たいのに、せせら笑う響きだった。わかっているのに目をそらすなんて本当に愚かだと突き放す声だ。
「これでお前はもうマナの神子じゃない。それが望みだったんだろう?」
「それは……」
知っている声が言葉に詰まった。ぐっ、と息をのむ音が聞こえる。私は瞼を開けられないまま、ただ胸元に硬いものが当てられるのを感じていた。
とたんに何かが流れ込んでくる。この感覚は知っている――私のものではない感情が襲ってくる感覚。これは、エクスフィアに触れたときと同じ――。
「ぁ、ぐ、あ……っ!」
触れた場所から侵食されていく感覚。マナの流れを私は鋭敏に感じ取っていた。それでも指一本も動かせなくてもどかしい。勝手に身体が作りかえられていく。
「やはり……体内のマナの順応も早いみたいだね。これならすぐに天使化できるな」
「……」
「姉さまの復活も……千年王国の実現も、もうすぐだ。楽しみだ、ねえ?」
喋っている声が聞こえたけど、その意味を理解する余裕はなかった。流れ込む感情の波にさらわれて溺れてしまいそうになる。
いや、私の意識はもう飲み込まれていた。

――どうして、私なの?
声が聞こえる。頭の奥に響いてくるような声。逃れることも、目を逸らすことも許されない。だってこれは私の体内に入り込んだ記憶なのだ。
――どうして、私がマナの神子なの?どうして、私だけがこんなにつらい思いをしなくちゃいけないの?
ああ、と気がついた。これは再生の神子の記憶だ。ゼロスと同じ赤い髪の女性が、コレットと同じ金髪の少女が、胸に赤く煌めく輝石を着けて祈っている。この場所は……精霊の神殿だ。
マーテル復活のためだけに作られた器。二つの世界を維持するために反転させられるマナの流れ。クルシスの輝石が侵食していくごとに彼女たちは苦しみ、正気を失っていく。
そして最後に辿り着いた救いの塔で、誰一人マーテルに適合しなかった骸は棺に入れられるのだ。
それが何度繰り返されたのだろう。怨嗟の声が私を苛んでいく。暗闇の中で、どうして、と問いかけられ続ける。
――お前ひとりが犠牲になれば、世界は救われるのだ。
そう言われ続けた少女たち。そしてその骸の上に成り立つテセアラの繁栄。世界を無感情に運営するクルシスの天使たち。この世界は明らかに歪んでいる。
「母上!」
誰かの声が聞こえて私は振り向いた。これは、記憶だ。先ほどの神子たちの記憶よりもずっと鮮やかで、網膜に赤が眩しくて目を細めた。
「見てください、雪です!」
大雪にはしゃぐ子ども。その光景はただ微笑ましいものだった。けれど私は息を呑んだ。子どものいる場所に見覚えがあったから。
ここは――メルトキオの、ワイルダー邸だ。雪景色は見たことがなかったけれど、知っていた。その庭に積もった新雪に子どもがはしゃいで足跡を残して、母親と思しき女性はそれを見守っていた。
やがて子どもと女性が一緒に雪だるまを作りはじめる。私は流れていく記憶を黙って見守るしかなかった。鼻を赤くしてはしゃぐ子どもが誰か気がついていた。これは、きっと。
マナの流れが変わる。雪だるまが崩れる。そして――真白い雪が赤く染まって子どもに降り注いだ。
「母上……?」
ぐらり、と女性の体が傾ぐ。倒れながらそのひとは子どもの肩を掴んで、そして血がしたたる唇で呪詛のように言葉を吐いた。
「おまえなんか……生まなければ……よかったのに……」
「……え?」
茫然としている子どもをよそに女性は雪の上に倒れ込んで、そして別の大人の声が聞こえてきた。おそらく屋敷の警備だろう。「奥様が……!」「坊ちゃまは無事か?!」「犯人は……!」「取り押さえた!すぐに衛兵を……」大人たちの声が飛び交う。そんな中、子どもはただうつろな瞳をして母親を見下ろしていた。
歯を食いしばる。これは――これが、ゼロスの記憶なのか。彼の感情が流れ込んでくるのを感じる。
どうして母親は死んだのか。自分のせいだ、母は自分を守って死んだのだ。神子を産むためだけに、神託のせいで好きでもない男と結婚させられた母親は、その男が別の女との間にもうけた子どもを神子にするために殺されそうになった自分をかばって死んだのだ。それならなぜ、自分が生まれたのか。自分のせいで母親は死んだ。自分が生まれたせいで、妹は神子になれなかった。
――自分が神子でなければ、すべて正しいかたちに収まるのに。
違うと叫びたかった。けれどそれが子どもの彼に届くことはない。
世界を管理するために犠牲になった再生の神子たち。器を生むために人生をゆがめられたひとびと。どちらも犠牲者で、どちらも悲しいだけだ。間違っている。罪のない子どもがこんなことを言われるなんて、絶対に。

「でも、それももうすぐ終わるんだ」
子どもが顔を上げる。私を見た瞳はうつろなままだった。
「コレットの体を使ってマーテルは復活する。あんたの力を使って無機生命体だけの千年王国は成就する。神子たちの犠牲が実るんだよ」
「それは……違う。私は……」
「じゃあ!」
金髪の少女が声をあげた。透き通るような青い瞳の少女だった。
「何のために私は死んだの?何のために、ここまで二つの世界を生きながらえさせたの?」
「何のために私は苦しんだの?何のために、私は好きでもない男の子を産んだの?」
「私が死んだ意味なんてなかったの?」
「私が生まれた意味なんてなかったの?」
赤い髪の女性が、金髪の少女が、棺に納められた少女たちの遺体が、私を責める。手が伸びて足を掴まれる。身体が絡め取られる。身動きなんてできなくて、押しつぶされそうだった。
「俺は神子なんてなりたくなかったんだよ」
子どもが私を見下ろして言う。私の胸に付けられた赤い輝石を、目を細めて見ていた。
「それがなくなれば、俺はもう神子なんかじゃない。自由の身だ」
そうか、神子の証さえなくなれば。
クルシスの輝石を、私が引き受ければ。
もう、ゼロスは神子として苦しまなくていい。
となりにいられないのなら、せめて、


- ナノ -