リピカの箱庭
08

四歳の誕生日が過ぎて、Xデーが近づくにつれて私は情緒が不安定になっていくのを自覚していた。お父さまには二人きりのチャンスがあるたびに戦争が近いことを伝えようとしていたが、だんだんとあしらいが雑になっていくのを感じていた。ペールギュント――ヴァンデスデルカのフェンデ家ともう一つ、ガルディオス家に仕える騎士にも告げてみたが無駄だった。真面目に聞いてはくれるけど、心配するなとなだめられるだけだ。
「レティシアのあれにも困ったものだ。預言でないなら、妄言と言わざるを得ないな」
「お嬢様は情勢が不安定なのを感じ取っておられるのかもしれませんな」
「そうだな。だが、フォミクリーの研究の話などどこから聞きつけたのか……」
お父さまがペールギュントとそんな話をしているのを私はこっそりと聞いていた。妄言、か。私の行動が不気味に映るのも仕方ないかもしれない。
賢いが、情緒がおかしいこども。そう思われているのだろう。私の知っている未来が本当に訪れるのか、自分でさえわからなくなっていた。
「レティ?」
自分をなくしそうなときに決まって私の手を握ってくれるのはガイラルディアだった。温かい手に、それだけで安心する。ガイラルディアに戦争のことはあれ以来告げていない。理解しないだろうし、理解しないままに不安にさせる必要もない。
「ガイ……」
私はガイラルディアの額に自分の額をくっつけた。ガイラルディアだけは生きてくれるはず。それだけが確かで、救いだった。他のみんながいなくなってもガイラルディアだけは、私のそばにいなくたっていつかは戻ってきてくれる。
どこにもいかないでと言いたかったけど、私だって死ぬかもしれない。ひたひたと迫る恐怖に震える私の背中をガイラルディアが撫でてくれた。
「レティ、なかないで」
「うん……」
「おれがいるから。レティ、だいじょうぶだよ」
ガイラルディアはそうやって毎晩私を慰めてくれた。ガイラルディアに依存しすぎるのはよくないとわかっていても、その優しさに甘えてしまう。そして慰めていることをガイラルディアは誰にも言わないでくれていた。

それでも私の不安定さは日に日に増して、マリィベルお姉さまにも心配されつつあった。ヴァンデスデルカもなにかと気にかけてくれていたが、最近はあまり姿を見ない。なんだか嫌な予感がする。
「もしかして……」
もう、ヴァンデスデルカはフォミクリーの実験に巻き込まれてしまったのだろうか。お父さまに確認する気にはなれなかった。相手にしてくれないことは想像に難くなかったから。
そう思いついてしまうと居ても立っても居られなくなって、私は立ち上がった。ガイラルディアはお姉さまと勉強をしているし、何より危険すぎてついて来てとは言えない。一人こっそりと屋敷を抜け出す。
前に見たおかげで研究施設の場所は分かっていた。子どもの足では時間がかかってしまったが、どうにか辿りついた建物を見つからないようにこっそり見上げる。待ってみてもヴァンデスデルカは出てこないし、やはり中にいるのではないか。
どこから忍び込もう、と考えているとガサガサと物音がして体がこわばる。恐る恐る視線をやると――そこにいたのはチーグルだった。
「みゅう?みゅう、みゅみゅ!」
「……もしかして、あのときの?」
「みゅう!」
言ってることはさっぱりだが、たぶんそうなのだろう。もしかしたら怪我をしていたのは研究施設から逃げ出したからとか?私はしゃがんでチーグルと目を合わせる。
「もうひとりのこはどうしたんですか?」
「みゅう、みゅうみゅ」
「またつかまっちゃったとか?」
「みゅう〜」
しょんぼりしているのを見るに、そういうことなのだろう。私はチーグルを抱え上げた。
「わたしもです。ヴァンデスデルカが、なかにいるの」
「みゅ、みゅみゅ」
「たすけにいきますか?」
「みゅう!」
チーグルは私の腕から抜け出すと、とてとてと建物の裏に回っていく。ついて来いと言われているようで、私はその後を追った。
「みゅう、みゅ」
「なるほど。はいきこうですね」
身長が足りなくて手が届かない――が、チーグルがいるとなると話は別だ。
「なげますからふたをはずしてください。あなたがおちたらキャッチします」
「みゅう!」
そんなわけでチーグルを投げ上げて排気口の蓋を外してもらう。そのまま器用に中に入っていったチーグルが見下ろしてくるので、私はその辺で拾った太い木の枝を壁に立てかけた。
「これくらいなら……、よっ!」
枝に足をかけて飛び上がる。一発で排気口まで届いてよかった。体重が軽いから成せた荒技だな、と倒れた枝を見て思う。
排気口は狭くて、子どもでよかったなと思いながら中を進む。中は複雑だったけど、チーグルの案内のおかげでヴァンデスデルカのいる場所までは迷わずに行けた。
ヴァンデスデルカは椅子に座ってぐったりとしていた。そんなヴァンデスデルカの様子を見てから白衣の人たちは部屋を出ていく。同じ部屋には他にもチーグル含む実験動物が檻に入れられていて、ヴァンデスデルカも動物扱いなのかと思うとはらわたが煮えくりかえるようだった。
天井の蓋を外してもヴァンデスデルカは反応しない。私は思い切って飛び降りた。衝撃が来るが思ったほどじゃない。
「っ!いたた……」
「……、レティシアさま!?」
「ヴァンデスデルカ、こえがおおきいです!」
しー、と唇に指を当てる。上からチーグルの声がしたので飛び降りたのをキャッチして床におろしてやった。
「レティシアさま、なぜここに」
「ヴァンデスデルカがいるからです」
「なぜそのことを……、いや、それはどうでもいい。旦那さまはご存知なのですか?」
「むだんです。おとうさまはいってもきいてくれませんでした」
排気口からやってきた人間が侵入者以外の何だというんだろう。ヴァンデスデルカは額に手を当てて深いため息を吐いた。
「みゅう!」
チーグルに呼ばれて一度ヴァンデスデルカに背を向ける。檻の中にいるチーグルを出してやらないと。
こんなこともあろうかと用意していた針金で鍵を開けてやる。後ろでヴァンデスデルカが「どこでそんな……」と驚きと呆れをないまぜにした声で呟いていた。
「ヴァンデスデルカ、チーグルたちをうえにいれてあげてください」
私では手が届かないのでヴァンデスデルカにお願いする。しぶしぶといったふうに、椅子の上に乗ったヴァンデスデルカはチーグル二匹を抱き上げてくれた。
「みゅう、みゅ」
「みゅう!」
「さきににげてください」
「みゅう……」
「だいじょうぶですよ」
チーグルたちは迷ったようだったが、やがて排気口の奥に消えていった。無事に逃げられることを祈ろう。
「レティシアさま、あなたもお戻りください。あなたが来るようなところではない」
椅子から降りたヴァンデスデルカがまっすぐこちらを見て言ってくる。チーグルたちの脱出を助けてくれたのは、私がそれを目的としてここまで来たからだと思っていたからだろうか。
「いやです。ヴァンデスデルカがこんなところにいるひつようなんてありません。いっしょにかえりましょう」
ヴァンデスデルカの手を取る。彼はひどく困惑したように私を見た。
「レティシアさま……、わがままを言わないでください。今なら誰にも見つからずに戻れます」
「いやだといいました。ヴァンデスデルカはここにいたいのですか」
「それは……」
「ヴァンデスデルカ」
わかってる。本当は、ヴァンデスデルカが何に困惑してるかなんてわかっていた。私が一人こんなところにやってきて、逃げようだなんて言ったところで何の解決にもならない。お父さまが決めなければヴァンデスデルカは実験体のままだ。
それでも嫌だった。私は知ってしまっているから、苦しんでいる彼を知らないふりなんてできなかった。
ヴァンデスデルカの言うとおり、わがままだ。自己満足に過ぎない。それでも、と思ってしまう。まだ幼い彼の苦しんでいる心につけ込もうとしてしまう。
「ごめんなさい、ヴァンデスデルカ。でも、おねがいです。いやなの。ヴァンデスデルカがくるしいのはいや」
「……ありがとうございます、レティシアさま。ヴァンデスデルカは幸せ者です。あなたにそこまで思っていただけて」
「わかってるの、わたし、なにもできない……!」
知ってたって力のない私には何もできない。できることをしたって結果が出せなければ意味がない。
「にげて、ヴァンデスデルカ。とおくににげてください。でないとあなたは――」
ガチャン、とドアが開いた。このタイミングで人が入ってくるなんて。「何者だ!」と私を見た研究員らしき人物が声を荒げる。
「どこから入り込んだんだ、このガキ!」
「やめろ!」
手が伸びてくるのをヴァンデスデルカがとっさに庇ってくれる。私は研究員を睨みつけた。
「ひざまずきなさい、ドレイン・マジック!」
「なっ!」
がくっと膝をついた研究員を見てヴァンデスデルカも驚いた顔をする。私が譜術を実戦で使えるとは思ってなかったのかもしれない。
そこで隙をついて逃げられたらよかったのだが、騒ぎを聞きつけた他の研究員たちもやってきてしまった。しかもそんなに強い譜術ではないので敵の復活も早い。
「気をつけろ!譜術を使うぞ!」
「っ、めをそむけなさい!フォトン!」
光を炸裂させる。眩む視界の中ヴァンデスデルカの手を取って逃げようとしたが、立ちはだかる研究員に腕を掴まれてしまった。
「逃すか!」
「いっ、はなしなさい!」
「やめろ!その方を誰だと心得る!」
ヴァンデスデルカは自分も他の研究員に捕らえられながら必死にこちらに手を伸ばしてくる。その手が届くことはなかった。
「レティシアさま!」
取り押さえられて息が苦しい。ろくに返事ができなくて、謝りたいのに謝れなかった。
「なんだ、貴族のお嬢様か?」
「お嬢様がこんなところに忍び込んでくるかよ」
「とにかく博士にお伝えしなくては」
ヴァンデスデルカの泣きそうな顔がうつる。結局、私は何もできなかったんだ。


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