リピカの箱庭
05

この世界――オールドラントの暦がもとの世界と違うのに気がついたのは結構経ってからだった。そもそも幼児はカレンダーを見る機会がないのだ。誕生日を祝うときに日付を確認するくらいのものである。
暦が違うと言ったけど、正確には惑星の公転周期が違うのだろう。一年はもとの感覚の倍であり、不思議なことにそれに伴って人間の成長や老化も倍時間がかかるのだ。つまりホド戦争勃発まで思ったよりも時間があるということで。たまに知恵熱を出しながら譜術の本を読み解く作業を進めていた。
私が譜術の勉強をし始めて一番喜んだのは父だった。マルクトでは譜術の研究が盛んだから、首都グランコクマに留学するのもいいなんて気が早いことを言っていた。貴族なんてそんなものだろうか。
「レティ、またねつだしたの?」
「んー」
難しい理論を読んで頭がパンクしそうになると決まって熱が出てしまうこの子どもの体というのは厄介だ。おかげさまで度々熱を出す私は病弱認定されかけてしまっている。大事にしないためにベッドでおとなしくしているとガイラルディアは退屈そうに頬杖をついた。
「ふじゅつなんてやめればいいのに」
「おもしろいよ。ガイはふじゅつのべんきょうしないの?」
「わかんないもん」
つまらなさそうにガイラルディアが言う。確かに理論的な部分は幼い子どもにはわからないだろう。実際勉強していると言っても私も本を眺めているだけだと周りには思われているし。しかしこれでガイラルディアが譜術嫌いになったら悲しい。
「えっとね、じゃあね」
音素の扱いについてはなんとなく分かってきたので一つ譜術のようなものを見せてみよう。威力のない、簡単なものがいい。
「るーるーるー」
詠唱が思いつかないのでヴァンデスデルカの真似をして適当に歌いながら空中に光の音素を集める。明るい部屋の中でもきらきらと舞う光にガイラルディアは目を輝かせた。
「わあ!きれい!」
「えへへ」
「レティ、すごいねえ……」
ガイラルディアは感心したように言う。彼が喜んでいるのがもっと見たくて私は調子に乗っていた。
「るるるー」
合わせる音素の周波数を変えてみると色がふんわりと変わっていく。色とりどりの光ぐるぐると舞わせてみた。
「いろがかわった!」
「くっせつりつをかえるんだよ」
「へー」
「はい、おしまい」
パン、と手を叩いて音素を霧散させる。ガイラルディアはしばらく空中を見つめていたが、やがて私に視線を戻した。
「でも、まものはやっつけられないよね?」
「そうだねえ」
「やっぱりレティはおれがまもるからね」
ここでそんなド派手な攻撃譜術を使うわけにはいかないという意味で言ったんだけど、ガイラルディアには伝わらなかったらしい。まあいいか、剣の修行の励みになるなら別に。剣の練習には私もついて行ってはいるものの、ガイラルディアのほうが飲み込みがいいのが現状だ。
ガイラルディアの瞳は子どもらしく澄んでいる。剣を扱えるようになる意味だって深く考えてはないだろう。それでも将来、ガイラルディアには必要な技術だ。
「……もし」
私はつい口を滑らせてしまっていた。ガイラルディアのきれいな瞳を覗き込む。
「もし、ホドのみんながころされたらガイはどうする?」
「え?」
「おかあさまもおねえさまも、おとうさまもみんなころされていなくなったらどうする?」
ガイラルディアは質問の意図がわからないというように瞬いた。いや、実際この年齢の子どもは人の死、ましてや戦争のことなんて分からないだろう。
「……レティもいなくなるの?おれがまもってもだめなの?」
不安そうにガイラルディアが尋ねてくる。小さな手が私の手をきつく握った。
「やだよお。レティ、いっしょがいいよぉ」
「うん……ごめん、ガイ」
「レティ、なかないで」
泣いてるのはガイラルディアの方なのに、そんなふうに言って私の額に自分のそれをこつんと当ててくる。私は瞳を閉じた。ガイラルディアの手をきつく握り返す。
「わたしも、ガイといっしょがいいよ……」
死にたくなんかない。みんなを死なせたくなんかない。ガイラルディアが生き残ると分かっていることだけが救いだった。

泣き疲れてそのまま寝てしまっていたらしい。目を覚ましたときにガイラルディアは見当たらなかった。かわりに私を見下ろしていた人に瞬いてしまう。
「おとうさま……?」
「レティシア、目が覚めたかい。熱は下がったかな」
「はい」
お父さまが私の様子を見に来てくれていたのは意外だった。貴族の当主は多忙らしく、食事のときくらいしか顔を合わせたことがなかったからだ。
しかしこれはチャンスなのではないか。普段二人きりで話すチャンスなどない。私はシーツをぎゅっと握ってお父さまを見上げた。
「おとうさま。……あといちねんとはんとしごにキムラスカがせめてきます」
「何?」
急な言葉にお父さまは驚いたように眉を上げる。私は畳みかけるように言葉を続けた。
「フォミクリーのけんきゅうは、わざわいとなります。おとうさま、どうかごけつだんください」
「それは預言か?まさか、第七音譜術士の才能が……」
「すこあではないのです。でも、ほんとうのことです。このままではみんなしんでしまいます」
お父さまは考え込むように唸った。そして私の頭に大きな手のひらをぽんと置く。その表情に預言でないと言ったのは失敗だったか、と後悔した。でも私は多分第七音素は扱えないし。攻撃以外の用途として試してみたけどどうも上手く行かなかったのだ。
「レティシア、安心しなさい。お父さまがおまえたちを守るから」
「ちがうのです!おとうさま……!」
「本でキムラスカのことを読んだのだろう?おまえは賢い子だからな。だが、お母さまの前で言うんじゃないぞ」
結局お父さまの反応はお母さまのそれと似たようなものだった。あやされてうとうとしてしまう子どもの体が憎い。だれも私の言葉を真と受け取ってくれないのがもどかしい。そりゃそうだ、預言でもない幼児の戯言に左右されていては執政などままならないだろう。
でも今の私にはこうやって訴えるしか手段がない。もしかしたら、ホド戦争がもっと近づいたら情勢で信憑性が増すのかもしれない。そう願いながら部屋を出るお父さまの背中を見送るしかなかった。


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