ラーセオンの魔術師
26

鼓動がうるさい。ユアンを見ると思い出すのは恐怖だった。敵わない、と知ってしまったときの恐怖。
だけど今は違うはずだ。あのときの私とは違う。私はぐっと拳を握りしめて彼を見た。
「天使というのは、随分と暇なのですね」
「そういうわけではない。お前を見つけたのはたまたまだ。もう私の仕事ではないからな」
私の仕事ではない?どういうことだろうと思っていると顔に出ていたのかユアンが応えた。
「……神託を果たすまでは私の仕事だが、お前が逃げ出したのは神子と騎士団の落ち度だ。私が尻拭いなどする必要はない」
「そうですか。では、たまたま私を見つけたから、ついでに連れ戻そうとでも?」
言いながら私はそうじゃないだろうなと思っていた。おそらく、さっきの牢に見張りがいなかったのはユアンの仕業だ。そんなことができるのならこの闘技場の牢ではなくワイルダー邸か教会に私を連れていくことだってできたはずだ。
「いいや。神子の配偶者などどうでもいい。だが――お前はなかなか面白い能力を持っているらしいな」
「……私を研究院にでも連れていくつもりですか?それともディザイアンの基地?エンジェルス計画とやらに加担する気はさらさらありませんが」
「エンジェルス計画、か。随分嗅ぎ回っているようだな」
ユアンがフッと嘲るような笑みを浮かべる。
「知っているのだろう?伝承を継ぐ者よ」
一瞬驚いてしまったが、調べるのは不可能ではないだろう。というか私の場合は名乗っているのだから分かりやすいとも言える。渓谷に語り部がいることを知っているのなら自明ですらあった。
「……ええ、知っています。だから無駄だと諦めろとでも言うつもりですか」
この世界を作る、それほどの力を持つものに逆らうのは無駄だ。ユアンもその一人で、ユグドラシルに賛同する者のはず――だった。
「それこそ、言っても無駄なのだろう」
その言葉に瞬いてしまう。どういうことだ?ユアンからは殺気も感じない。言葉にする意味がないからここで始末する、そんなふうな言葉ではないなかった。
「……あなたは何を考えているんです」
何かピースがはまりそうだった。もどかしい。同時に恐ろしくもあった。
知ってしまうことは、後には戻れないということだ。
「お前の知りたいことはなんなのだ。何故わざわざ危険を冒して研究院に忍び込んだ。エンジェルス計画など、神子には関係ないだろう」
そんな恐怖を知ってか知らずか、ユアンは私の質問に質問で返してきた。私はぐっと出かけた言葉を飲み込んで、目をそらした。
「神子は関係ありませんから。……あなたが教えてくれるというのですか。要の紋を作れるドワーフのことを」
「ドワーフ、か。なるほど……」
ユアンはしばらく考えるように沈黙したあと、おもむろに口を開いた。
「教えても構わぬが、条件がある」
「……なんですか」
「我々に協力すること、だ」
「クルシスに?違いますよね」
半ば確信を持って言う。この人は、わざわざ私と問答をしてまで取引を持ちかけてきたこの天使はクルシスと違う思惑を持っている。それがなんなのかはわからない。
そして、私の能力にそこまで価値があるのか――それが一番理解できないことだった。
「あなたは何を考えているんです」
「おおよそ、お前の思っている通りだろう」
「では協力はできません」
手の内を明かさない人を信用はできない。私はユアンを睨むとその横を通り過ぎた。そうやって近づいてもユアンが手を出してくることはない。
「後悔するぞ。レティシア・ラーセオン」
「……私は自分の意思以外で動きませんから」
もう一つ向こうのドアに手をかける。外をうかがうことをも忘れて私はドアを勢いよく開けた。

そこからは窓もあったので簡単に脱出できた。メルトキオの街は出歩いたことがないので全く詳しくないが、とりあえず落ち着ける場所に行こう。城とは正反対の方に進みながら今後のことを考える。
メルトキオのある大陸には二つの精霊の神殿があったはずだ。闇の神殿と、地の神殿。地の神殿は山の向こうにあったはずなので、とりあえずは闇の神殿に行こう。もともと魔術と精霊の関係にも興味を持っていたのだったが、今は魔力の底上げが必要だ。あそこはマナに満ちているから、魔力の充填にはもってこいだろう。
髪の色を赤に変えて、荷物からローブを引っ張り出す。荷物は魔術で作り出した空間の中に入れていたのが不幸中の幸いだった。アイテムボックスというほど便利なものではないが容量はそこそこだ。ちなみに欠点は、ものを入れたらつながってる先の空間が広すぎて迷子になってしまうというところ。この点に関しては紐につなげた荷物を空間の中に垂らすという方式を取ることで一応解決はしている。つまり紐が切れたら荷物はたぶん取り出せない。今のところ見つける方法は編み出せていないので。
とまあその辺の事情はおいといて、着替えたいけど着替える場所がないのでローブで制服を隠して物資の補充をする。カジノで稼いだお金がそこそこあるのでまだ困らなくて助かる。アルタミラに行くならまた稼ぎたいなあとか思いつつ荷物を袋にぽいぽいと詰め込んで、その袋は空間に垂らしておいた。
で、少し迷ったけど宿に泊まることにした。脱走直後って逆に警備が厳しくなりそうだし、ほとぼりが冷めるまでメルトキオでぶらぶらしてよう。ユアンもあの様子では追ってこないだろう。
髪の色も違うし、いざとなったらステルスすれば逃げられると思うし。アルタミラから休みなしでここまできたので疲れたというのもある。
メルトキオの宿を取ってベッドに倒れ込むと私はあっという間に眠ってしまった。


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