思えば昔から、卒業式やお別れ会など、どうしたって感動して、思い出が溢れて、皆が泣いてしまうような、そんな場所が苦手だった。そこで感情のまま、他人に涙を見せてしまうことが、とてつもなく嫌なことだと感じていた。
別に泣いている子を馬鹿にするとか、そんなつもりは毛頭ない。寧ろ羨ましいとさえ思っていた。
嫌悪ではなく居心地が悪い。「寂しい」って口にすることや、素直に泣いたりすることで、自分の中の本当の気持ちを、自覚するのが怖いだけ。つんと澄ました顔をしている自分が、情けなくって、可愛くなくって、いつだってがっかりする。
けれど一度溢れてしまった水が、二度と盆には戻らないように、芽生えてしまった気持ちに蓋は出来ない。
私はどこまでも臆病で、自分の本当の気持ちと向き合うことに、ずっとずっと脅えていた。



卒業式が終わり、校庭には卒業生も在校生も入り乱れて、沢山の人でごった返している。とは言うものの、スーツに身を包んだ保護者らしき人々の姿はまばらで、先程からすれ違うのは生徒ばかり。
きっと中には名残を惜しむ間もなく、保護者の方と既に一緒に帰ってしまった卒業生も、先輩との個人的な交流が殆ど無く、式が終わるや否や下校した在校生だっているだろうから、実際の式への参加人数から考えると、もう大分少なくなっているのかもしれない。
それでも一か所に沢山の人が集まってわやわやと過ごしている為か、いつもよりとても多くの人がいる様に感じた。
私がそんな人ごみの中を、少し早足で校舎に向かって歩いていると、卒業生──今日は胸元に淡い水色の花を付けているので、誰がそうなのか一目で解る──と在校生のグループの一つに目が留まった。
そこには先輩と抱き合う、と言うよりは巨木に蝉がとまっているみたいにしがみ付いて、そのまま目が溶けてしまうんじゃないかって位、大粒の涙を流して泣いている日向翔陽君の姿があった。
日向君は同じ一年生だけれど、クラスメイトではない。けれど私のような他人の名前と顔にとてつもなく疎く、交友関係の狭い人間でも知っている位、烏野高校の一年生の中で彼を全く知らないという人はいないと言える程の存在だ。
トレードマーク──本人がどう思っているかは知らないけれど──のオレンジ色の髪と同じくらい明るい性格の彼は、友人も多く普段からとても良く目立っていたし、昔は強豪と呼ばれながらも近頃低迷していたバレー部の、全国大会出場! という大躍進の立役者の一人で、春高が終わって三学期が始まった頃には、一年生の中では勿論、烏野高校の中でも、なかなかの有名人になっていた。
とは言え、私が彼を知っている一番大きな理由は、私のクラスメイト、しかも数少ない男友達──私はそう思っているけれど、向こうも同じように感じてくれているかどうかは自信がない──が男子バレー部だからというところにあるのだけれど。
「全国大会」というものを、少しでも意識するような部活であれば、ごく当たり前のことかもしれないけれど、本当に毎日毎日、それこそ飽きる位に、朝から晩まで同じメンバーと顔を合わせて練習をする。日々チームは進化して、全く同じ日なんて決してない。練習試合や公式試合があったり、たまには休む日もあったり。
それでも、そんな事も全部ひっくるめて、その「毎日」は当然のように彼らの前にあり続けたものだ。
けれど明日からはそれが当たり前ではなくなってしまう。勿論そのことを解っているから、あんな風に今日までの日々を惜しんで泣いているのだろう。けれど皆も今のこの時だって、真実の意味では自覚しきれていなくて、きっと明日以降に、きちんと実感を伴って気付くのだ。
それは部活だけのことじゃない。人の減った下足室や、いつもは買えなかった人気のパンが、意外にすんなり買えてしまう購買部、三年生がいた教室の窓をいくら見上げても閉じたままカーテンが揺れることはない。いろんなタイミングで思い知ることになる。
大好きだった時間や場所が、一見同じ様に見えていても、昨日の続きでは決してなく、確実に変化してしまっていることに、ようやっと気がつくのだ。
そして自分が暫く、その場に立ち尽くしたまま、呆けた様に日向君を見ていたことに思い至ってハッとなる。
人の泣き顔を他所からずっと見ているなんて、失礼にも程があるだろう。申し訳なくて、誤魔化すように少し視線を動かせば、見知った顔が目に入る。クラスメイトの山口君だ。
やはり思っていた通り、男子バレー部の集まりだったようで、彼以外にも日本代表のユース選抜の──これも人伝手の情報なので、そうらしいという具合だが──三組の影山君や五組の谷内さん、他は二年の先輩らしき人がその周囲を囲んでいる。
泣きじゃくる一年生たちを──影山君は泣いていない様だったけれど──宥めている落ち着いた感じの人や、日向君たちと同じくらい、もしかしたらそれ以上に号泣している人、みんなそれぞれに卒業生との別れの時を過ごしていて、その中心にいる四人の胸に花を付けた卒業生たちは、少し困ったような、嬉しいような、堪えるような、なんとも言えない笑顔を浮かべながら、後輩たちに言葉を返していた。
男子バレー部は三年生が少ないと聞いていたけれど、その分きっと一人一人との関わりが密で仲が良いのだろうと思った。三人いる男子の卒業生の内、二番目に背が大きい人──バレー部の中では特別背が高いわけではないのかもしれないけれど、すごく貫禄があって落ち着いているように見える。夏の壮行会の時に、壇上で挨拶をしているところを見た記憶があるから、きっと彼が部長なのだろう──に髪をくしゃくしゃと撫でられている山口君が、ふとこちらを向いて、思い切り目が合った。
先程の日向君への失礼に引き続き、俗にガン見と言われるレベルで見ていたことを反省するものの、今更目を逸らすわけにもいかず、軽く会釈をする。彼も日向君程ではないにしろ、目を真っ赤にしていて、少し気まずそうに顔を赤らめながらも、ペコリと頭を下げ返してくれた。
山口君は本当にいい子だ。高校生男子がクラスメイトの女子に泣き顔見られるなんて、私がその立場だとしたら、気まずいわ恥ずかしいわで、例えその状況に無理があるとしても、気づかないフリをするかいっそ無視を決め込むだろう。ちょっと、いやかなり感激した。
そして気がついてしまった。山口君の隣にもその集団の中にも月島君がいないことを。
きょろきょろと男子バレー部の集まっている辺りを見回すけれど、やはり姿はない。一九〇センチあるとのことだから、見落とすわけがない。
私のその様子にピンと来たのか、山口君はバレー部の輪をそっと外れて、数メートル離れた場所にいた私の方へと駆け寄って来てくれた。
「苗字さん」
「あっ……山口君、ごめんね。じっと見てて」
「ううん、あっでも恥ずかしいとこ見せちゃったな。苗字さんは部活の先輩のところには行かないの?」
「さっきまで皆と一緒にいたんだけど、教室に忘れ物しちゃって、休憩がてら抜けてきたの」
「そっか。あの、さ。勘違いだったらごめんね。ツッキーのこと探してた?」
「探していたって言うよりは、いないなぁと思ってた」
 山口君は何か考え込むように、唇に指を当てて下を向いてしまう。身長差があるので下を向いたままで丁度視線が合う。歯切れの悪い彼の様子が多少不可解ではあったけれど大人しく山口君の反応を待った。すぐに山口君は「よし」と何か決意したように片手で小さくガッツポーズを取り、再び話を続ける。
「そう、なんだ。あの、ね……ツッキーさ、寒いから上着取って来るって、ちょっと前に教室に戻ったんだよね。でもそれだけにしたら少し遅いし、気になっているんだけど」
「あっ、じゃあもし教室にまだ月島君がいるようだったら、声かけておくね」
私がそう答えると、山口君は予想よりもはるかに嬉しそうに「ありがとう」と笑うと、また先輩たちの所へ戻っていく。余程帰りが遅いことが心配だったのだろう。本当に月島君思いなのだな。
毎日のように教室で見かける「ツッキー!」「うるさい山口!」という二人の掛け合いを思い出すと微笑ましくて、思わずふふと笑いを漏らしてしまう。おっといけない。知らない人が今の私を見たら、とてつもなく変な人だと思われてしまうだろう。
山口君のおかげで、少しほんわかとした気持ちを抱きながら、私も移動を再開した。



校舎の廊下を進み教室に近づくと、扉に掲げられた一年四組の札が目に入って、思わず足が止まる。
ここを自分の教室と呼べるのもあと少しの時間しか残されていない。ほんの二週間も経てば春休みに入って、卒業生の代わりに新入生を迎えて、私たちも二年生に進級する。希望する進路によっては、クラス替えもあるかもしれない。それはつまり、月島君とクラスメイトでなくなってしまうかもしれないということ。
頭を過った可能性に、突然胸がきゅうと痛む。すると既に一年、毎日通って慣れ親しんでいるはずの自分の教室が、何だか居心地が悪く感じて、扉に手を掛けるのを躊躇ってしまった。
月島くんとは、ここ烏野高校に入学してから知り合ったクラスメイト、ただそれだけ。入学してから、ゴールデンウィークを終えたころ、初めて席替えをした時に、たまたま隣の席になった。その程度の接点だ。
でもこのおかげで、少しだけ話す機会が増えて、隣の席で無くなった今でも、朝の挨拶くらいはする。それに授業でグループが一緒になったりすれば、必要な会話はもちろんだが、他愛ものない雑談だって少しくらいは出来るような、それくらいには親交を結んでいるつもりだ。
本当にその程度の繋がりでしかないけれど、月島君がクラスの女の子と会話すること自体が珍しい為、彼から挨拶されるだけでも、周りにびっくりされることもある。そのことがほんの少しだけ、彼の特別みたいで嬉しかった。
柔らかそうな色素の薄い短い髪と、眼鏡をしているので目立たないけれど、蜂蜜みたいな色の瞳が綺麗な男の子。物静かで殆ど喋らない反面、気を許した相手には案外毒舌なところもある。いつもクールで冷めた目をしているけれど、好きなものや大事なものを見るときは、その瞳が蕩けることを知っている。
小さく深呼吸をして、そして教室の扉を開ける。室内を見回すと、山口君が話していた通り、月島君はいた。窓際の後ろから二番目。先々月から、そこが月島君の席になった。
彼は自分の席に座って腕を枕にしながら、人より長い背を丸めて、うつ伏せになっている。冬の終わりを告げる穏やかな日差しに、キラキラと髪が煌めいている。校庭の喧騒も遠く其処だけとても静かな時間が流れているようで、声をかけるのが躊躇われた。
どうやら私には気が付いていないようだと、音を立てない様に教室の扉を閉めて、ゆっくりと彼に近づく。月島君の前に立つと、小さな呼吸の音が聞こえて、眠っているのが解った。
光に透けて淡く発光しているようにも見える彼の髪は、人工的なものではなく地毛だと聞いている。その証拠に傷んでいる様子は微塵も感じられない。
「柔らかそう」
触ってみたい──ふと湧いた感情が私の心を占めると、反射的にそっと手が伸びた。
その反面、いやいや! そんなもの凄く親しいわけでもない他人様の髪を、しかも寝ている隙に触るとか、どう考えてもおかしいでしょう! と脳内の自分からキレのいいつっこみが入って、触れる寸前で手が止まる。
この気持ちの根っこにある、言わば正体とも言えるものが何なのか、私は多分薄々気がついている。
けれど自分の中に在る感情に一度でも名前を付けてしまったら、もう引き返すなんて出来ないことも知っている。報われない、どうしようもない想いなんて悲しいだけだ。
本当にその人と離れるのが嫌で、泣いてしまうくらいに悲しいのなら、追いかければ、傍に居たいと伝えれば良いのだということは解っている。
けれど私はずるい。これ以上距離を詰めなければ、特別な感情を持たずにいれば、別段悲しむこともなく、一時の感傷を持つだけで済むのではないか。そんな逃避の手段ばかり、ずっとずっと考えてきた。
触れてしまえば、自分にも彼にも、言い逃れが出来ない事は解っている、けれど──。
初めて触れた月島君の前髪は、想像していたよりずっとふわふわで、子猫の毛の様だった。指で梳くよう軽く上に持ち上げると、閉じられた瞼が覗く。白い肌から薄らと瞼の血管が透けて見える。
こんなにも近くで、こんなにも長い間、彼のことを見るのは初めてだった。
白い肌は陶器の様につるんとして滑らかであるし、小さな顔に納められたパーツ一つ一つが整っていて、そしてバランスもいい。そういえば入学当初は良く女の子が騒いでいた。そんなことも随分と前の事の様に感じる。
懐かしさにぼんやりと、そのまま暫くたっただろうか、髪と同じ色の長い睫毛が気だるげに持ち上がって、射抜くような瞳と目が合った。
寝ていると思って油断していたから、咄嗟に手を引くことも出来ない。
これは、やばい。ポエミーに言い逃れできないとか言っている場合ではなかった。この状況を上手く誤魔化すとか、それは無理ゲーが過ぎるという話ではないだろうか。どうしよう。
「何してるの?」
 静かだけれど、聞き取りやすい月島君の声がして、ハッと我に返る。慌てて手を引いて胸に寄せ、もう一方の手で、抑えるように握り込んだ。
触れていた方の手が異常に熱い。
「ご、ごご……ごごごご」
脳内がパンクして上手く言葉が出てこない。月島君は体をゆっくりと起こして、改めて私の方を見た。その表情は不躾な私の行動に怒っている様子でもなく、とても穏やかだ。
「ご、ごめんなさい! つい、出来心で」
思いっきり頭を下げると、突き出たお尻が後ろにあった──つまりは月島君の前の人の席──椅子に勢いよくぶつかってしまった。ガタンと大きな音がして、それにもびっくりして肩が跳ねる。
一切動揺が隠せないまま、月島君と哀れにもヒップアタックをお見舞いされた椅子とを交互に振り返っていたら、月島君がもう限界という様子で、ふっと大きく吹き出した。
「何、それ、ふふ、慌て過ぎデショ。ふっ、は、はぁ。別に……いいよ」
くつくつくつ、と下を向いて、お腹を押さえながら噛み殺すように笑う。えっ、そんな、そんなになの? その反応に驚いたものの、とりあえず怒っていないことに安堵した。しかし思い切り間抜けな姿を見せてしまった事を思い出して、恥ずかしさのあまり、手だけではなく顔まで熱くなってきた気がする。
「ねぇ苗字さん」
私が赤くなっているだろう顔を隠すように手で抑えていると、一頻り笑って満足したのかいつもの調子を取り戻した月島君が口を開いた。
「何で君がここにいるの?」
「えっ、あっ……、えっと。部活の先輩に渡そうと思っていたプレゼントがあるんだけど、教室に置いたままだったから……取りに来たの」
「……ふうん」
 少し間が空いて、興味が無さそうな相槌。そこでまさかの会話終了である。
えっ、やっぱり怒ってる? というか聞いてきたのは月島君なんだけれど! と思うところはあるが、如何せん後ろめたい気持ちがあるだけに、圧倒的に私の立場は弱く、抗議することなんて出来るわけがない。
気まずい沈黙に耐えかねて、私は無理やり会話を続けようと試みる。
「あの、月島くんはどうしたの?」
「ちょっと疲れたから避難」
意外にもすんなりと返事をしてくれて、どうやらやはり、怒っている訳ではないらしい。気まぐれな猫のようだ。
座れば? という月島君の言葉に甘えて──別に月島君の席じゃないけれど──月島君の前の椅子を引き、横向きに腰かける。彼の方に顔を向けると思ったよりも近い距離感に、少しドキッとした。
私の体勢が整った事を確認すると、月島君はまた話し出す。
「日向や先輩たちが、わんわん泣いて絡むし」
「あぁ、すごそうだったね」
思い返して呟けば、でしょ? と嘆息交じりに月島君が言う。確かにあの一瞬を見ただけでも、部内の仲が良さそうで、みんなが何度も号泣して別れを惜しんでいる様子が想像できる。私みたいなムードに浸りきれない人間だと、「このくだり、何回目?」と内心つっこんでしまうやつだ。
それに月島君はクールな割に、末っ子感が凄く出ているので、あの先輩たち──後輩や部活が大好きでしょうがない感じ──に滅茶苦茶に絡まれていそうだ。そして構い倒された猫ように目が虚ろになりながらも、限界のギリギリまで耐えている──存外猫は情が深いのだ──月島君の様子が容易に想像できて、ほとほと困っていそうな本人には申し訳ないけれど、「可愛い」と知らず頬が緩んだ。
「何か腹立つこと考えてるデショ」
「えっ、そんなことないよ」
 白々しく誤魔化せば、ふいと目を逸らされて、少し不貞腐れた月島君の横顔が目に入る。こういうところが末っ子という感じがする。先輩たちが構いたがる気持ちがとても良く解るし、本人も何だかんだ本気で嫌がっている訳じゃないのが伝わってくる。
「あの、さ」
「何?」
勢いで声を掛けたものの、物凄くおせっかいなことを言いかけた自分に気が付いて「ううん、やっぱりなんでもない」と慌てて首を振った。
「何なの? 言いかけたなら言いなよ」
「怒らない?」
「ものによる」
ほら、早く。少し苛立ちを含んだ声で急かす月島君の顔を、ちらりと見て小さく息を吐いた。きっとこれは言っても言わなくても怒られる奴だ。だとしたら何も考えずに言ってしまった方がすっきりする気がする。あー、もう南無三!
体ごと月島君の正面を向いて、しっかりと彼を見る。彼は目線だけを私の方に向けて、続きを言うのを待ってくれているようだ。
「あのね! 月島君が先輩たちのこと大好きなの、ちゃんと伝わってると思うよ」
 彼は伏し目がちの瞼を大きく見開いて吃驚した様な表情を見せた。けれどそれだけで、月島くんからは何も返事はない。口を薄く開き何か言おうとして、けれどまた唇を閉ざしてしまう。
「…バカじゃない」
暫くの沈黙の後、漸くそれだけ呟くと、ふい、とまた横を向いてしまう。やっぱりそうだ。さっきも横顔を見て気が付いた。月島君の目元は少しだけ赤くなっていて、涙の痕がまだ微かに残っている。
きっと彼は否定するだろうけれど、それでも断言できる。部活の先輩や仲間たちと過ごした時間は、月島君にとってきっと大切で掛け替えのないものだったのだ。人目を避けて涙を流すほどに。
けれどそれも、今日終わってしまった。そしてあと二週間、たったの二週間で私の大好きだった優しい時間も終わってしまう。
照れると少し幼くなる横顔も、今も怠そうに顎を乗せている、男の人にしたら華奢な手も、私は──。
「あっ」
突然声を上げた私に、月島君が吃驚した表情でこちらを向く。何? と訝しげな彼に、私の精一杯の笑顔を返す。駄目だ。これ以上ここにいたら、もっと要らないことを言ってしまう気がする。
「私もそろそろ、部の皆の所に戻ろうかな。感動お涙タイムも落ち着いただろうし」
自分でも笑ってしまいそうになる位わざとらしくて、大根役者にも程がある。けれど、月島君は何も言わなかった。そりゃそうだ。別にたまたま私がここに来たから、彼も喋ってくれていたに過ぎない。だから私がいなくなっても彼は何も困らない。自分で言っていて、ちょっと寂しい。
「苗字さんの部活って……確か、サッカー部のマネージャーだっけ」
しかし少しの間があった後、このまま立ち去っても問題ないだろうと言う私の予想に反して、月島君が会話を続けようとする。そこにも驚いたけれど、それよりも彼が私の部活を知っていたことに内心もの凄く驚いている。以前話をしたことがあったのかもしれないけれど、覚えられていたなんて。
「何それ、変な顔」
「うっ、元々だし」
吃驚したせいか、口が空いて間抜けな顔を晒してしまった。自覚しているから、わざわざ突っ込んでくれなくても結構ですよ。
「そうだよ。三年生に幼馴染がいて、その繋がりでね」
帰宅部のつもりで入学した私には、運動部のマネージャーをしているという状況は、全くの予想外の出来事だった。
入学当初、帰宅部希望であることを幼馴染みに告げると、明くる日から土下座でもする勢いで頼み込まれて、あれよあれよと言う間に仮入部をすることになった。気がつけばゴールデンウィークが終わる頃には、正式なマネージャーになっていたから、これも縁だったのだなと今では思っている。
きっかけはそんなものだけれど、今となっては大切な私の居場所の一つだ。
「ふうん、幼馴染ね」
 あれ、気のせいかな? 声のトーンがまたちょっと低くなっている気がする。サッカー部に嫌な記憶でもあるのだろうか?
 月島君は基本的に静かだけれど、言葉にしないだけで目や雰囲気にプレッシャーがある。バレー部でもブロックの司令塔なのだ! と山口君が自分の事の様に嬉しそうに話していたけれど、こんなところでまで、圧を出さなくてもいいと思う。
「な、何だかんだ凄くお世話になったから、プレゼントでも渡そうと思って。そうだ、私それを取りに戻って来たんだった」
 気まずさを隠すように月島君から視線を外して、二列向こうの自分の席を見れば、机の横にかかっている茶色い紙袋が見える。
「クッキー焼いたの。結構上手にできたんだ」
「へぇ」
「プレゼント渡すついでに卒業式恒例のアレ、貰えるか頼んでみようと思って。他の子に貰われちゃったらショックだし、私いい加減もど……」
いよいよ居た堪れなくなって、早口でまくしたてる様にしながら、バタバタと席を離れようとする私の言葉は途中で切れてしまう。
なぜなら口にしようとしていたことが全て、頭の中から飛んでいくほどの衝撃的な出来事が起きたからだ。いやいやまだ勘違いの可能性を捨てきれない。現在の状況を確認しようと、恐る恐る視線を下に向ける。うーん、やっぱり勘違いなんかじゃなかった。
立ち上がろうとした私の手首には、月島君の細くて長い指が絡んでいた。
「月島、くん?」
声を掛けてみるが彼は無言のまま、さらにぐっと私の手首を強く握って、大きな瞳でまっすぐこちらを見つめている。
「あのさ」
「ひぇ」
時間にすれば一瞬で、けれど私にとったら体感三〇分はありそうな沈黙の後、月島君が口を開いた。私の口からは変な声が出て、気が動転しているのがバレバレだ。
「あっ、え、な、何かな?」
逃げると思われているのか何なのか。何故か握られたままの手は一向に離される気配はない。逃げないから話をきくから、とりあえず手を解放してもらえないだろうか。だってこんな状態では、ドキドキして早すぎる脈拍が彼に伝わってしまう。
「自分で言うのもなんだけど僕の第二ボタン、卒業する頃には結構な倍率になってると思うんだよね」
突然何の話だろうか。唐突過ぎる彼の言葉にぐちゃぐちゃだった思考が逆にクリアになる。というか何を言っていらっしゃるのだろうか? 今ですら既になかなかの倍率になっていると思われますが。
その証拠に色んなクラスの女の子が、月島君のプライベートについて山口君に探りをいれたり、バレー部の練習を覗きに行ったりしていると専らの噂だ。噂なので真偽のほどは解らないけれど、少なくとも前者に限っては山口君本人から聞いたので、間違い無いはず。
「他の子に貰われるかもってことは、別に付き合っているとかじゃないんデショ?」
「?」
「まだあと二年あるから、今すぐに僕のボタンをあげるのは無理だけど、今から予約しておくのオススメする」
余りの驚きに声が出ない。えっ! どういうこと? 第二ボタン? どっからそんな話が出てきたの? 頭を総動員して彼との会話を反芻する。
良く解らないけれど月島君は私が、誰かに第二ボタンを貰いに行くつもりだと思っている。付き合っているって言う件は彼氏かどうかってことだよね? つまり月島君は、私が誰か男の先輩にボタンを貰いにいくつもりだって思っているということだろうか。
「あの…」
「何?」
自分の導き出した解答を確認するべく、恐る恐る彼に声を掛ける。
「私が貰いに行くつもりなのって、女の先輩だよ」
「は?」
月島君が遠くのものを見るみたいに、目を細く眇める。
「はぁぁぁぁあ?」
そして彼にしては珍しい大声を上げると、白い頬が見る見る赤くなっていった。
「幼馴染って女の子だもん。その子がサッカー部でマネージャーやってたの。ほら、女子高とかだと女子の先輩のボタンとかリボンとかスカーフとか貰いに行ったりするじゃない? えっと、知らない……デスヨネ」
「知らない共学だし」
パーフェクト正論。ごもっともです。しかし、とりあえず月島君の誤解が何なのか解って良かった。でもそうだよね、「男子サッカー部の先輩」だもの、男の人だって思うよね。
「メチャクチャカッコ悪い」
ゴン──と大きな音がして、見ると、月島君のおでこが思いっきり机と仲良くなっていた。教室が静かな分凄い大きな音がしたけれど、大丈夫かな。
というかこんなに動揺している彼はとても珍しい。寧ろ初めて見た。月島君は机に顔を伏せたまま動かない。けれど私の手首は相変わらず握ったまま、ぎゅうと痛い程で、とてもじゃないけれど離してくれそうにない。
どうすることもできなくて、私はさっきの月島君が言った言葉の意味を反芻する。そして自分の至った答えの余りにも自意識過剰っぷりに、今度は私が机に頭を打ち着けたい位に恥ずかしくなった。
けれど、彼の誤解も含めて、物凄くこれ以上ないレベルで自惚れた考えをしてもいいならば、これはつまり。
「やきもち?」
考えていたことを、思わずそのまま口にしてしまっていた。それはとても小さく、思わず漏れた程度の声量だっただろうけれど、この今の距離感で彼に聞こえていない筈がない。案の定「ほんと最悪」と地を這うような月島君の声が帰って来た。
「ご、ごめんなさい! 自意識過剰がすぎました」
すぐさま謝罪すると、殊更大きなため息が彼から零れた。
こ、怖い、これは滅茶苦茶怒っている。いや、無理もない。勘違い甚だしいこと言って本当に申し訳ない。私がこれはいよいよ土下座するしかないのでは? と覚悟したところで、月島君がゆっくりと顔を上げた。
般若も泣くほど恐ろしい顔をしているのでは無かろうかと言う予想に反して、不機嫌と言うよりは拗ねたような、むすっとした表情と、そして赤くなった額。やはり思いっきり打ち付けていたらしい。この状況にも関わらず、それがとても可愛く感じてしまった。
「何?」
「う、なんでもないよ」
この思考がバレバレな感じ本当に怖い。私はそんなにも顔に出るタイプだっただろうか。笑顔で何とか誤魔化せば、月島君は再び大きなため息を吐いた。
その時、月島君の手が緩んで少しほっとする。しかし解けかと思った指はするりと私の手のひらを這うと、私の指に絡みついた。
これはどういうことだろうか? つまり現象を端的に説明するならば、手を繋いでいると言えるのではないだろうか。
「うっ、あ、月島…くん、その」
「さっきの、忘れてくれるなら、ちゃんと言うけど」
私の動揺など一切無視で、彼はぼそりと小さな声で私に提案を持ちかける。しかし主語が無ければ指示するところも解らないので、動揺しきってぐちゃぐちゃの私の思考では、理解が追い付かない。
「言うって、何を?」
「君の予想が当たっているかどうか」
聞きたい? そう意地悪そうな声音で言った月島君の顔は、もう照れたり幼なさを感じさせたりするようなものではなくて、いつもの含みを持った、にやりと不敵な笑み。
山口くんなら、きっとこの表情の意味が解るのだろうけど、生憎ただのクラスメイト止まりの私にはまだわからない。
もっと近づかなければ解らない。
「ねぇ、苗字さんさ」
私が答えない事に苛立つでもなく、月島君はそう言えば、と私に尋ねる。
「どうしてこんなに手が冷たいの?」
「えっ、そう? そうでもないと思うんだけと」
これまた意外な質問に、そうかな? と首を傾げれば、彼は不思議な顔をして、少し考えこむ様に目を伏せた。私は特に冷え症でもないし、別段手先が冷たいと言われるようなことも無いから、普通だと思う。
暫くして月島君ははっとした表情を見せた。何か思い至ったようだが、私には何のことだかわからない。けれどさっきよりも少し耳が赤い。色が白い彼だからすぐ解る。
「月島くんは熱い、ね」
私が冷たいと言うよりは、そう彼が少し熱いのだ。どちらかと言えば体温が低そうな印象があるのは月島君の方だ。だからこれは少し意外。
「ちょっと黙りなよ。で、どうするの?」
「先に脱線したのは月島くんだよ」
そうだったっけ? 意地悪そうな言い方と裏腹に、楽しげに笑みを浮かべながら彼は私の手を握っている方とは逆の手で、そっと自分の机を撫でた。
「卒業式も終わったし、もうすぐここも僕の席じゃなくなるんだね」
「そうだね」
「そこ」
次に私の座っている椅子を指差して
「今、君がいるところ。そこも僕の席だった」
知っている、そしてその隣の席は私の席だった。
「二年になって、もしクラスが離れるようなことになっても、席替えなんて「偶然」に頼らなくても、君の隣にいられる関係になりたいんだけど」
どうかな? と今日初めて見せた柔らかい笑みを浮かべて、少し首を傾げる。
私は理解することに必死で、上手く返事ができないで、ただ何度もこくこくと首を縦に振る。そしてやっと落ち着いて見た月島のはちみつ色の瞳は夕日が反射して、今にもとろけて落ちそうなくらい優しげなものだった



「それ、渡しに行くんデショ、僕も後が煩そうだから一回戻るし、いこ」
そして二人で教室から出ようと、私はプレゼントの紙袋と、月島君は薄いパーカーを手に取った。
 扉の傍まで近づくと、そこまで無言だった月島君が立ち止まり、私の方を振り返る。
「あのさ、手始めに名前呼ぶところから始めようと思うんだけど」
名前? というのはつまり月島君が私のファーストネームを呼ぶということかな?
「いい?」
訊ねてくる彼に、ちょっと刺激が強すぎるかもと提案を辞すると、思いっきりイラついた舌打ちが頭上から聞こえてきた。すみません。
「なまえ」
私の遠慮も関係なく月島君が私呼ぶ。初めて呼ばれる私の名前。慣れ親しんでいるはずのものなのに、違和感しかなくてドキドキしてしまう。お父さん以外の男の人の声で呼ばれるのなんて、小学生ぶりかもしれない。くすぐったく感じながら首を上に向けて、彼の顔を見る。きっと私の反応を見てからかうような意地悪な表情をしているに違いない。
そう思って見た月島君の表情はびっくりするくらい優しげで、そして耳まで真っ赤になっていた。その顔はずる過ぎる。
「な、何でしょう?」
「なんで敬語なの? まぁいっか」
もう一回ね、と今度は月島君が少し屈んで、私の耳元に口を寄せる。
「ねぇなまえ、好きだよ」
その甘く優しい声で、私は今日、初めてぼろぼろと涙を溢した。



触れた体温 微熱
さくら様 / @skr_ddd

**後書

とても素敵な企画に参加させていただきありがとうござました。
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