「え、苗字先生やめちゃうんですか?」
 日向の驚きが体育館に響いた。放課後、いつものように体育館に集まった烏野男子バレー部員たちは、副顧問である苗字の報告に目を丸くさせた。ざわつく生徒たちを前に彼女は微笑み、こう言うのだった。
「三月まで、よろしくね。」
 なんの捻りもない、純粋な言葉。驚きや戸惑いに差はあれど、副顧問の言葉に彼らは元気よく答える。ただ一人を除いては。



 東北の桜はまだ寒そうにかたく身を閉じていて、私がこの学校を去るまでには咲いてくれそうにない。県立烏野高校。ここは私の母校であり、社会科教諭としての最後の職場だった。縁とは案外深くまでつなげてくれるもので、私はまたこの学校で卒業する。窓枠から漏れる生徒たちの笑い声が心地よい。ふと、レモンシャーベットのような日の光に薬指に嵌めた銀が光るのに気づく。まだ慣れないそれをしばらく見つめてから、また業務に戻った。
 私の卒業式のときの記憶がぽつぽつと思い浮かんでは脳内を漂っている。親しい友人とはアドレス帳上でのつながりもあったし、実家から高校までの距離も近くて、いまいち卒業する実感が湧かなかった。階段の踊り場の大鏡に、着慣れた制服の胸元に造花が揺れるのがうつる。その花を付けているのは私なのに、どこか他人事のようにそれを見ていた。今日で高校生活が終わるということが、信じられなかったのである。大学に通うようになって課題や実習に追われるようになって漸く終わったのだと実感が湧いてきたくらいだ。

*

 引継ぎ資料の作成に一段落ついて帰路に就く。見上げたカシスオレンジ色の空にどこかの家の夕飯がにおう。視界の端に通学路の木々が揺れる。私はあと何回この道を歩いていけるのだろう。ぼんやりと白線の上をなぞるように歩く。落ちたらワニ。高校の時にふざけてよくこうして友達と帰ったな。運動靴でも低いヒールでもまっすぐ歩くのは難しい。ぐら、ふら、踏み外さないように慎重に。ワニ。落ちたら、ワニ。
「苗字先生、」
「うわ」
 突然の声に驚いて、落ちてしまった。そして恥ずかしいところを見られてしまった。
「月島くん…、あれ?今日も部活じゃ?」
「ええ、まあ。」
「帰り道、こっちだっけ?」
「はい。」
 そっか。これ以上続ける言葉が見つからず、二人でまた歩き出した。男子生徒と二人きりで並んで帰るのは少しマズいんだけど。どうか姉弟に見えますように。顔が知られていませんように。
「辞めるって、もう教師を辞めるってことですか?」
 しばしの沈黙を破ったのは月島くんだった。そうだよ、去年結婚したでしょ?向こうが転勤することになっちゃって。残念だけど、と笑えばそっぽを向かれてしまった。
「月島くんはさ、高校楽しい?」
「……なんですか、藪から棒に。」
 それから、懐かしい話をした。生徒である彼に聞かせるような話ではないけれど、卒業式に心残りがあること。短い、なんでもない話を彼はじっと聞いてくれた。
「さっき、残念って言ったけど。教師を辞めることに未練はないと思ってる自分もいるの。ずっと教師を目指してきたから、私はこれから何ができるんだろうって、思うよ。」
 不意に口から出た言葉に、私がはっとした。生徒の前でこぼれた強がりだろうか。いや、でも。思考がめまぐるしい私の隣の彼は黙ったままだった。僕、こっちなんで。彼が角で立ち止まり、また部活に顔を出すねと約束した。それから、と眼鏡の奥の瞳がまっすぐ私をとらえた。
「ご卒業、おめでとうございます。」
「……うん、ありがとうございます。」
 春の夜が私たちに微笑んでいる。



離任式の前日談
ぐめん様 / @gmen0730
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