まだ風は冷たく肌寒いが、暦は春。別れの季節である。
 散々泣いて笑って騒ぎまくっているうちに、すっかり人のいなくなった中庭を走り抜ける。今日ばかりはどこの部活も練習はなく、いつも騒がしい校内も静かである。
 なにも卒業式の翌日に締め切りを設けなくてもいいのに――と、内心で文句を言いながら、数日前から出ており十分に猶予のあった課題を恨む。帰り際、力に言われるまですっかり忘れていた。てっきり教室に置いてあると思ったが、机の中には置きっぱなしの教科書やいつのものか分からないプリントだけで、課題の欠片も見つからなかった。となればおそらく部室だ。
 ダッシュで行けば先に帰ったチームメイトたちにも追いつけるかもしれない。階段も飛ぶように駆け上がり、部室のドアを開ける。目当ての課題プリントは自分のロッカーですぐに見つかった。それをリュックに突っ込んで、再びドアを開ける。

「きゃっ!」
「お、ア!?」

 静かな部室棟に誰かいるとは思わず、勢いよく飛び出すと、ドアの向こうで悲鳴が聞こえた。ぶつかったような手応えはなかったが、明らかに女性の声だったので慌ててドアを引き、隙間から顔をのぞかせる。

「あれ、田中くんじゃん」
「エッ、あ! なまえさん、」

 ドアから一歩離れたところにいたのは、男子バスケ部のマネージャーだったなまえさんだった。コート借りたり、備品借りたり、貸したり、ちょこちょこと接点があった先輩である。
 うちの先輩たち同様今日卒業式だった先輩が何でこんなところに、と思ったが、その手にプレゼントらしき紙袋を抱えているのを見て合点がいく。

「バレー部も追い出し会してたの?」
「いや、それはまた別の日に……っつってもやってたことあんま変わんねぇスけど……」

 予想通り、バスケ部は今日先輩たちの追いだし会をしていたらしい。俺たちはまた別の日にする予定だが、それと同じくらいの時間をかけて騒いでいたのだからたいして違いはないかもしれない。
 今度は控えめにドアを開くと、なまえさんが一歩下がってくれた。そこでさらにもう少しだけ開き、体を横向きに通せば、なまえさんは口元に手を当てて笑ったので、俺は首を傾げる。そんなに変な動きだっただろうか。

「泣いてたでしょ?」
「エッ」

 おかしかったのは俺の目の赤さだったらしい。ごまかそうにも自分の意志でどうにかできるものではないので、少し目線を下げてなまえさんの視線から逃げる。あまり効果はないと思うけど、じっと見られて見つめ返せるような度胸はねぇ。なまえさんが「田中くんは先輩思いだねぇ」なんて感心したように言うから余計だ。事実でも、こんな風に改まって指摘されると恥ずかしい。
 俺が返せずにいるとなまえさんが「そうだ!」と思いついたように声を上げる。視線を戻すと、まっすぐに俺を見つめたままのなまえさんと目が合った。

「 潔子たちはもう帰った?」
「……と、思いマスケド」

 潔子さんも、大地さんもスガさんも旭さんも、卒業生たちはそれぞれクラス会やらなんやらあるらしく、俺たちより先に帰って行った。なまえさんはそういうのないのだろうか――と、考えたところで、まだお祝いの言葉を言っていなかったことを思い出す。「ご卒業オメデトウゴザイマス」と頭を下げると、なまえさんも俺を真似て「アリガトウゴザイマス」と返してくれた。
 当たり前だけど、三年生たちとは今日を堺にほとんど会うことがなくなる。部活で濃密に関わってた先輩たちはもちろん、なまえさんのような知り合いだって、もう会えなくなるのだ。素直に寂しく思う。
 目の充血を恥ずかしがっている場合ではない。せっかく会えたのだから、ちゃんとした言葉を贈ろう。鼻をすすってもう一度なまえさんに向き合うと、俺より先になまえさんが俺の名前を呼んだ。

「ねぇ、まだ潔子のこと好きなの?」
「はい!?」

 人が感傷に浸っていたところに、いきなり何を言い出したんだ!?
 驚きのあまりひん瞳をひん剥いた。カッと顔も熱くなる。また何かからかうつもりなのか。勘弁してくれと言おうと思ったが、さっきまで笑っていたなまえさんが真剣な表情で俺を見ていたので言葉に詰まる。あまり見たことない表情に、ドキリと胸も跳ねた。
 何故知っているのかなんて聞かない。これまでに散々分かりやすく叫んでいたのは俺だ。だけど、なまえさんの発する雰囲気のせいなのか、うまく言葉が出てこない。なまえさんはそんな俺の様子を見て、短く息を吐いて肩に入っていた力を抜いた。

「私県内の大学進学するんだ」
「え、あ、そ、そうなんスか」
「うん。だからいつでも会えるよ」
「え?」
「会いに来て良い?」

 なまえさんがにじり寄るように距離を詰めて来るたび、俺も足を引いて距離を取る。何逃げてんだって自分でも情けねぇと思うけど、何かやべぇもんに飲み込まれそうで、防衛本能が勝ってしまった。

「田中くんが潔子に本気だったのは知ってるよ。卒業したからって簡単に諦められないだろうことも想像できる」

 だけどついにはあと一歩下がれば階段というところまで来てしまい、これ以上逃げられなくなった。息を飲む。視線からも逃げられない。

「でもそろそろ私のことも見て欲しい」

 落ちないように手すりを掴んだら、その上になまえさんの手が重なった。冷たくて、細くて、柔らかい指が俺の手の甲を掴む。
 心臓がうるさい。なのになまえさんの声だけはやたら耳に響く。
 俺は馬鹿だけど、さすがになまえさんが言おうとしていることは分かった。だからこそ動揺して、逃げ腰になってしまっている。
 だって見たことがなかった……と言うとおかしな話だが、そういう意味では潔子さん以外見ていなかったから。

「か、考えたことなかったッス……」
「うん。だから、これからでいいよ」

 なまえさんの手が離れる。手の甲が外気に触れている状態なんていつものことなのに、妙に寒く感じるのは何故だろう。

「諦めようと思ったのに、まさか今日こんなとこで会うと思わないじゃん」
「え、」
「もうこれは諦めるなってことだと思って、頑張ることにする!」

 俺から離れた手で拳を作ったなまえさんは、ひとまず連絡先を教えてほしいとスマホを取り出した。急かされるままに連絡先を交換し、なまえさんは満足気に笑う。

「これからもよろしくね、田中くん!」

 先輩たちと散々別れの言葉を交した今日の日に、まさかそんな言葉を言われるなんて。

「こ、こちら、こそッス……」

 俺は潔子さんが好きだ。それはなまえさんだって分かっている。
 すぐに応えられるわけではないのに、どうして断れなかったのか――考えなくても分かるはずの答えに、頭を悩ませる日々が始まった。



始まりの日
斎藤様 / HOT DOG!

**後書

テーマを「卒業」と聞いたときから、田中ならやはり潔子さんへの想いからの卒業かなぁとお話を考えました。男気のある彼なので、そう簡単に諦めないとは思いますが、なんとか食い込んでいきたいものです!ね!
この度は素敵な企画に参加させていただきありがとうございました。
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