直結型神経5〈先輩後輩あや←みゆ〉




 あやめはその青年の姿を幻かと思った。

「やあ、白雪あやめ」

 偶然というには出来すぎている。
 あやめが一人都市部へ出かけたときに出くわすには、あまりにも作為的な登場であった。

「織部優……一体なんの用」
「わたしの権利を行使しに来たよ」

 青年は、織部優はあやめの言葉を遮って、常の穏やかな笑みを深める。
 きろり、と優の紅茶色の目に過った光。
 震脚。
 活歩。
 文字通り一瞬で詰められた距離、放たれたのは八極拳が得意とする技、裡門頂肘。
 突き上げられた肘は重たくあやめを抉り、その身を浮かせた。
 本能的に追撃を警戒するが、優は悠然と腕を伸ばしてあやめの胸ぐらを掴むと、その身が転ばぬように無理やり引き上げた。
 周囲の人間は無関心で、一瞬驚いた様子を見せるも足を止めることなく通り過ぎていく。

「げほっ、ぐ……てめぇ……っ」
「すまないね。偶然の出会いに喜び駆け寄ったら、肘が当たってしまったよ」
「……えげつないこと知ってんじゃねぇか、お坊ちゃん」

 優の態とらしい説明口調には、あやめも覚えがある。散々使った常套手段だ。
 優は初めて聞く言語で話しかけられたように戸惑いを表情に浮かべると、どこへ置けばもっともきれいに映えるか熟知しきった仕草で頬へ手を当てる。

「えげつない? お前ほどじゃあないよ」
「俺がなんだって?」
「お前、わたしの弟をいじめたね」

 あやめは目を見開いた。
 理由は分からない、原因も不明のまま美由を傷つけたことだけは理解して苦悩していた数日。
 けれど、まさか優が出てくるとは思わなかった。
 逆に言えば、優が出てくるほどのことだとも思っていなかった。自身の認識の浅さにあやめは今更吐き気がする。
 優はそんなあやめを嘲るように唇を歪めて唾棄した。

「これだからお前みたいな独り善がりのセックスしかできない竿頼りのテクなし遅漏野郎は嫌なんだよ。腰振ってりゃ相手も喜ぶと思ってる勘違いおちんぽ様思考の猿が」

 きれいな顔からは信じられないほどの下品な言葉の羅列。
 引き攣るあやめの顔が気に入らないとばかりに更に飛び出す言葉の弾丸は確実にあやめの自尊心を削り、余裕を奪っていく。

「なんだいその顔、言い返せるものなら言い返してごらん! お前の短小フニャチンでわたしのイイところへ届くというのならやってみろ!!」
「お前はいい加減黙れッ」

 あやめが優の胸ぐらを掴もうとすれば、その手は容易に弾かれた。

「ふん、結局は力押しかい、情けない。そんなんじゃわたしはちっともイケないね!」
「お前はなにが言いたいんだよ」
「言いたいことなんて掃いて捨てるほどあるさ。その前にお前を徹底的に貶めてやりたいね! いじめて、傷つけて、泣かせて、崩れ落ちる様を見下ろしてやろうじゃないか──お前がしたみたいにね!!」

 あやめは全身から力が抜けそうになった。
 優が言っていることがなにを指しているのか理解してしまった。いいや、最初から優は言っていた。罵倒に流されかけたのは愚かな自分だ。

「美由は、なんで……」

 優の表情が侮蔑に歪むのを見て、あやめは必死に取り縋る。

「教えてくれ! 分からない……考えても、どれだけ考えても分かんねぇんだよ……!」

 自分が美由になにをしてしまったのか、あやめは考えた。考えて考えて、答えは出ない。
 美由は冷めた人間だ。それでもあやめの傍にいてくれた。
 離れてほしくない。これからも、これから先も傍にいてほしい。
 それが自分の所為で叶わないというのなら、せめて誠意を示したい。力を尽くしたい。
 そのために知りたい。
 自分は美由になにをしてしまったのか、あやめは知りたい。

「お前はわたしの弟を化け物かなにかだとでも思っているのかい」

 ぞっとするほど冷たい顔で吐き捨て、優はあやめに背を向けた。
 伸ばしかけた手は下ろされた。答えではなくとも助言であることを、あやめは察したので。
 雑踏に紛れていく背中を見送り、あやめは邪魔そうに向けられる視線も顧みずその場にしゃがみ込む。

「化け物なんて思ったこと……」



「兄さん、出かけていたの?」

 部屋から顔を出した美由に微笑み、優は腰を引き寄せて目元に頬に口元に唇を寄せる。
 擽ったそうに瞼を伏せる美由は優の過剰な触れ合いに慣れており、これが他の人間であれば触れようとした瞬間にその手を払い落としていただろう。もっとも、家族以外では一人、例外がいるのだろうか。

「ねえ、美由」
「なあに、兄さん」
「わたしとセックスしようか」

 美由が青い目を丸くした。

「辛いことは忘れさせてあげるし、気持ちいいことしか与えない。心地よさに耽溺して、有象無象を思考から消しておしまいよ」

 美由の頬を撫でて、そのまま首筋をなぞれば美由の唇が震えた。
 優の言葉に嘘がないことを美由は分かっている。

「嫌よ」

 だからこそ、美由は首を振る。

「『これ』はあたしのものだわ。兄さんにはあげない」

 優の胸へ手を置いて一歩距離を取る美由に、優は嬉しそうに笑い声を上げる。

「ああ、お前は美しいね。うつくしくて、可愛いわたしの弟」
「兄さん?」
「覚えておいで」

 美由の痩躯を抱きしめて、優は弟の耳元に囁く。

「お前をいじめていいのはわたしだけだよ」

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