二話
あれからも光也は元気だ。元気な振りをしている。
「シズさん、シズさん! 美味い猫の糞買ってきたっすよ!」
「はいお前ちょっと来ーい!」
静馬はかりんとう振り乱して店へ顔を出した光也の襟首引っ掴んで置くへと引きずっていった。
表では常連客がおかしそうに笑い声を上げている。
「お前な、いくら今日が休日だからってそのノリはねえだろうよ」
「だ、だめでしたか」
「猫の糞がな!! かりんとう、いいか、これはかりんとう」
「かりんとう……猫の糞にしか見えねえんだけどなあ……ほら、大仏の鼻くそだってあるじゃないっすか」
静馬は本気で光也の頭を引っ叩いてやろうかと思った。
今日の光也は休日だ。許されるのでは? 店主が客を暴行。アウトだ。
静馬の並々ならぬ自制心を知らず、光也は「おやつ入れに置いとくっすねー」と平然とした様子でかりんとうを戸棚にしまう。
「お前、せっかくの休日なんだから客として来いよ」
「常連客がお土産持ってくるなんてあるあるじゃないっすかー」
にっかり笑うその顔は以前と同じもののように見えて違う。
光也の空元気に静馬はいい加減指摘すべきなのかもしれないと思いつつ、適時を見いだせないでいる。
どうすれば、この青年を一番傷つけないでいられる?
恋というのは対等なものだ。そうあるべきだ。
ならば、静馬の思考は傲慢だろう。
けれど、けれども、静馬にとって光也はまだ幼さを残す青年なのだ。
年齢は成人しているだろう。酒の味も煙草も知っているだろう。そういうことじゃない。そうじゃないのだ。
どう足掻いても静馬は光也の恩人である。
そのひとから突き放されたと感じるような思いを、静馬は光也にさせたくないのだ。
絶望を知ったあの青年は、またヤクザと関わるような友人たちのなかに身を置いてしまうだろうから。
静馬は大人なのだ。
光也よりも遥かに大人なのだ。
故に、考えてやらねばならない。考えなくてはならない。
ただ、感情に振り回されることは、許されないのだ。
静馬が好きだ。
その感情は膨らむばかりで、膨らんではち切れんばかりで苦しい。
薄く繊細になった感情の表皮はふとした瞬間に弾けてしまいそうで、光也は必死に抑え込む日々を送っていた。
それなのに、店じまいで片付けをしているとき、ものを取ろうとした手が静馬の手とぶつかった。
熱い湯にでも触れたように引いた手と、一気に熱を持った顔。ぼやけた視界は涙の所為か。
バレる、知られてしまう。
襲いかかった恐怖はしかし、静馬の反応によって上塗りされることになる。
「しまった」とでも言いたげな、気まずそうな顔。
光也は覚る。
知っていたのだ。
静馬は光也の感情を。知っていて、知らない振りをしていてくれていたのだ。
途端、光也は恥ずかしくて、情けなくて、涙が溢れてきた。
「光也……」
「すん、ませ……っ」
気遣わしげな声さえいまは光也の胸を抉る。
静馬のことだ、自分がこんな風に傷つかないようにと考えてくれていたのだろう。そう考えなきゃいけないほど、静馬にとって自分はこどもだったのだと、光也は自分が恥ずかしいのだ。
でも、でもでも、だけど。
「……好きっす……好き、なんす……シズさんが、静馬さんが、好き……」
どんな女相手にだってこんな拙い言葉を吐いたことはない。
どんな相手にだってこんなに精一杯の感情を込めて伝えたことはない。
「シズさんにとって俺はガキで、シズさんはただでさえ大変なもん背負ってて……それなのにこんな…………っごめんなさい」
ごめんなさい、ごめんなさい。心から。
「好きになってごめんなさい」
光也はもう、静馬の反応を見ることもできず、ただ走ってテッセンから出ていくことしかできなかった。
振り返ることも、戻ることもできない。
逃げるように、いいや、正しく逃げることしかできなかったのだ。
テッセンに一人残された静馬は前髪をぐしゃりとかき上げる。
こんな筈じゃ、こんなつもりじゃなかった。
「それは、謝っていい感情じゃ……謝らなきゃいけないようなもんじゃないだろうが……っ」
最悪だ、と呟く声はもちろん自分に向けたもの。
しかし、事態は更に最悪なほうへ、深刻なほうへ向かう。
その日から光也はテッセンへと出勤せず、連絡もつかなくなったのだ。
警察も考えたが、光也と静馬の関係性は「赤の他人」であった。
雇用契約の際に緊急連絡先を確認しているが、宛になるとは思えなかった。
それでも一応掛けてみれば繋がらない。
てきとうな番号を書いたらしいと察し、静馬は乱暴に通話を切る。
無事であればいい。
無事でさえあればいい。
「俺はまだ、なんにも言ってない、伝えてないだろうが……!」
馬鹿な考えを起こしてくれるなと祈るような気持ちで、静馬は光也が帰ってくるのを待った。
それでも帰らぬ光也に憔悴を覚えた頃、久しぶりに四季が来店した。
静馬の顔色に驚いた様子であったが、四季自身もどこかやつれた様子でお互い様と思ったのかなにも言わず定位置となった止まり木へと掛ける。
「マスター、エスプレッソを」
「はいよ」
「念入りに頼む」
「なんだよ、それ」
「──最後なんだぞ」
静馬は四季を見やる。
四季は人形のようにきれいなばかりの笑みを浮かべ「内緒だぞ」と言いながら続ける。
「高槻会理事長がほぼ決まった」
淡々とした声音には喜びなど欠片も見いだせない。誇りなど一片もない。
「……若すぎないか」
「逆に、だ。ヤクザ社会の高齢化が問題視された結果だぞ。あと、金」
肩を上下させた四季に「そうか」と頷き、静馬はエスプレッソを淹れる。
四季の前をデミタスを置いたとき、静馬の手は四季によってやんわりと掴まれた。
平素であれば振り払っていた手を静馬は拒まない。
「マスター……静馬──あいしてたぞ」
「……ばかだな、お前」
それが、四季との最後の会話。
以降、四季はゴシップ誌のなかでだけ観る存在となり、テッセンへ現れることは二度となかった。
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