明日を願うバク

 夢の中、そう、これは夢の中だ。
 猛暑だ酷暑だ、熱帯夜だというニュースが世間で騒がれるほど、今年の夏は暑い。寝ても覚めても、いつでもあつい。
 コンクリートの街並みに囲まれて早数年。
 実家に帰るにも、帰れない日々が続いている中で、この懐かしい風景を見るのは映像か記憶の中でしかありえない。
 さわさわと、夜風に揺れる背の高い葦。
 川のせせらぎと、満天の星空。大きな月、方々を飛び交う蛍。
 都会とはまた違った、田舎の明るい夜だ。

 懐かしい。涙が出るほど懐かしい夜だ。

 郷愁にかられることなんてなかった自分にとって、この光景はなによりも不思議で、懐かしくて、優しいものに思えた。
 夢の中だというのに、頬を撫でる風が随分と涼しいものに覚えるから不思議だ。

 視覚から、この映像からくるものから、脳が勘違いしているのかもしらない。
 自分でもよくわからない遠いところでそんなことを思う。
 草の匂いも、サンダル履きの足元を濡らす露も、なにもかも幼少期に経験した記憶がある。
 それリアルに再現しているのだから、夢というのもあなどれない。

「良いところですねえ」

 穏やかな、声が聞こえた。
 自分だけの空間かと思いきや、聞き覚えのない他人の声。

 振り返れば、小高い丘の上。
 大きな樹の下に人影が見えた。

 樹の影にいるせいでその姿形まではっきりとしない。
 表情も良く見えないのに、笑っている。そう感じたのは随分と楽しそうなその口調のせいだろう。

 ここが非現実の世界と認めているからだろうか。
 なんの警戒心もなく、その丘の上に足を向ける。

 一歩、一歩とその人物との距離を縮めるたびに足元を蛍が舞い、宙でゆっくりと明滅する。

「……おまえ、誰?」

 樹の幹に凭れるようにして立ていたのは、背の高い男だった。
 浅黒い肌に、白いTシャツと黒のジーンズ。
 憎たらしいほどイケメンなのがなんだか憎たらしい。
 せっかく心地の良い夢を邪魔されたから、という個人的な感情もあるが。

「ひどいな。毎日会っているのに忘れるなんて」
「それはないな。人の顔を覚えるのは得意なんだ、お前の顔も名前も記憶にないぞ」

 これでも人と接する職業なのだから、人の顔を名前を覚えるのには自信がある。
 こんなきれいな顔立ちの男なら知り合いの知り合いでも、印象深いはずだ。
 しかも男の言葉を信じるなら「毎日会っている」のなら、もっと簡単に名前が出てきてもいいものを。

「まあ、忘れていて仕方ないんですけどね」

 肩を竦め、寂しそうに男は呟く。
 そのリアクションに無性に腹が立つ。なんなんだ、おめぇ。

「ちょっと、イラッとしたでしょ」
「は? そんなこと」
「なんなんだ、おめぇ、って思ったでしょ?」

 ふふ、と小さく笑った男は楽しそうに続ける。「だって、いつもそう言ってるから」と。

「名前だって知ってるよ」
「……そんなわけ、」
「ハセガワ、マサヤ、でしょう?」

 にこり、と顔に似合わず幼く笑った男は宙に俺の名前を書いて見せる。
 長谷川 将也、と正確に。

「……そんなんで、信じられるかよ」
「でも、毎日ここで会ってるんだよ。こんなに蛍が飛んでるのは初めて見るけど」
「俺はこの光景、久々だぞ?」
「うん、今のマサヤさんはそうかもしれないね」
「はぁ?」

 にこにこと笑う男は樹の根元に腰を下ろすと俺にも座れ、とばかりにその隣を叩く。
 不審な男の話など信じるはずがない。
 普段通りの思考であれば警戒しているのに、なぜかその手の示す方に従ってしまう。
 
「……何者なんだよ、お前」
「う〜ん、名前ってもんは僕にはないのだけど」

 もう一度、最初の質問を投げかけると、その男は困ったように笑う。

「昨日のマサヤさんは、僕のことをバクって呼んだかな。他にも夢魔とか夢喰い野郎とか、明日屋ってのもありましたね」
「明日屋?」

 自分で付けたことすら記憶にない。
 明日屋なんて言葉も、初めて耳にする言葉だ。

「何でそんな名前って思ってるでしょ? 昨日のマサヤさんも、そんな顔をしてましたよ」

 俺の反応を楽しんでいるのか、彼は子どものように笑いながら足元の小枝を拾って地面になにかを書く。
 縦長の四角と、その中に小さな丸。その図には覚えがある。

「……ドア?」
「そう、明日に行くためのドア。僕はその門番」

 ああ、だから「明日」という言葉が付くのか。

「これはね、誰もが寝ている間に通るものなんだけど、ただじゃ通れないんだよ。まるで明日を売ってるみたいだから『明日屋』」
「なるほどねえ。で、俺は明日のために君に何かを差し出さなくちゃならないのか。……俺の夢なのに? 結構こすい商売してんだな」
「だって、当たり前に明日が来るわけじゃないんだよ」

 健康に生きている間は到底そんなことを思わないのだろうけど。
 確かに、彼の言う通りかもしれない。
 無為に生きた今日は、誰かの願った明日。そんな言葉が脳裏を過る。

「……で、俺は何を払えば明日の朝日を拝めるんだよ」

「夢」
「は? 野球選手になりたいとか石油を発掘して石油王になりたいとか、そういうの?」
「なりたいんですか……」
「例えだよ!」

 社会人になって、一日いっぱい、目の前の仕事を片付けることに必死すぎて「なにかをしたい」って欲求とはなかなか縁がない。
 それを求められたところで、今俺が彼に出せるものはなにもない。
 イコール、俺の明日は来ない、それ即ち、死。……ということになるのではないか。

「やばくね、俺」
「違うよ、そっちの夢じゃなくて今、マサヤさんが見てるのですよ」
「……これ?」
「そう、これ!」
「フューチャーじゃなくて」
「ドリームの方!」

 俺の言葉に被せるようにして明日屋でバクで夢喰い男は嬉しそうに告げる。
 きっと、この言葉のやりとりはいつものことなのだろう。

「ああ、それでいいのか。でも、俺、夢なんて見ていたか?」

 布団に入って、すぐにこの光景に辿り着いた気がする。
 忘れているだけかもしれないが、それでも記憶しているのは、「夢を見ている」と感じたのは今、彼と語らうこの瞬間だけだ。
 今、こうして俺が悩んでいる間も彼は穏やかな顔で見つめてくる。
 これもいつものこと、と。
 見透かしやがって、このバク野郎。

「……差し出す夢がなければ、今見ているのを渡せばいいのか」
「そう、正解」

 夢で明日屋に会うというのなら、この夢を支払ってしまえばいい。
 払った夢はきっと自分の記憶からはきれいに抜けてしまうのだろう。
 だから俺は、毎日会っているという彼との夢の記憶がないのは、そのせいだ。

「デキレースみてえなもんじゃねえか」
「ついでに一日の嫌なことも忘れるように手助けしてるんだからいいでしょう」
「それは脳の働きってやつだろ?」
「そこはファンタジーと解釈してくださいよ。ロマンがないなあ」
「現実主義って言ってくれよ」
「現実主義者は僕の存在なんて信じませんよ」
「それもそうか」

 肩を竦めて笑った男は、立ち上がり尻の土ぼこりを払うと手を差し伸べてくる。

「それじゃあ、行きますか」
「どこに?」
「明日に、ですよ。今日も買うのでしょう?」

 何を。
 言われなくても分かる、彼が売るのはたったひとつだけだ。

 ふよふよと舞う蛍を捕まえようとするも手を振り回しているようにしか見えない彼の動作は、やはり見た目よりもずっと子どものように見える。
 結局捕まえられなかったのか、諦めた男は俺の手を取ると樹の周りを半周。先程まで語らっていた樹の裏側には、大人が屈んでやっと通れるくらいの低い扉が埋め込まれていた。

「これが、お前が守ってるっていう扉か?」
「そう、マサヤさんの明日です」
「……低いんだな」
「これが調度良いサイズになるまで長生きしてくださいっていう、僕なりのメッセージですよ」
「そりゃあ、ありがとよ、よぼよぼのジジイになるまで夢を売れってか」
「ええ。そうです、ほんとはお土産に蛍を持たせたかったんですけど」

 なんせ、不器用なもので。男は笑う。
 果たして、夢の蛍は現実に持ち帰れるものなのだろうか。
 その蛍だって今日の支払いに回されるのではないか。


「……なあ、ちょっと聞いても良いか。お前には何遍と繰り返した質問かもしれないが」
「ええ、どうぞ」
「俺が明日を得る代わりに売られたお前はどうなるんだよ?」

 お前の明日は、存在するのか。
 どこからが今日で、どこからが明日なのか。
 明日への扉を潜る瞬間に「今」という日はなくなってしまうのなら。その扉をくぐらなかった「明日屋」はどこにいくのか。
 毎日会っている、と彼は言うが記憶のない俺には彼が「昨日の彼」と同じなのか。それを確かめる術がない。
 掴んだ明日屋の手の感触は、昨日と一緒か。温度はどうだろう。
 せっかく感触が残っているのに、比べる対象が存在するのに存在しない。

「そこは、貴方が知らなくてもいいことですよ」
「なんだ、その言い方」
「マサヤさんにとって、僕は『はじめまして』の存在ですから」

 気にしなくて良いんです、と。
 最初に見せた、寂しい笑顔で彼は言う。

「そんな寂しい面して、言うことか」
「少なくとも、今日、貴方が明日を選べば僕はまたマサヤさんに会えます。明日も、明後日も、おじいさんになるまで明日を買ってくれれば貴方に会えますから」
「……寂しくないのか」
「寂しくは、ない、と思います。そういうこと言われると虚しくなってくるのでやめませんか」 
「……じゃあ、夢の支払いはどうやるんだ?」
「基本的に触れていれば意志一つでどうにでもなるんですけど、」

 なんせ夢の中なもので。おどけたように言っていた男の顔は、次の瞬間には真顔になり眼前にまで迫る。
 その勢いに頭を引こうとするも、首の根っこを掴まれ、唇を押し付けられた。
 強く、強く。ただ、唇に封をするように。

「……っ、しつこいわ!」
「うっ!」

 夢の中だというのに、息苦しさを感じて思わずその横っ面を叩いてしまった。
 目にうっすら涙を浮かべている姿が可哀相に見えるのは、情がわいたからではない。そんなこと、ありえない。
 キスをするならもっと色気のあるものを、と考えてしまったのは夢の中だからだ。そうだ、そうに違いない。

「いいじゃないですか、意地悪されたんだからこれくらいのサービスがあったって」
「お前、結構図太く生きてるんだな」
「ええ、貴方の前でだけね」
「……心配して損したわ。で、明日のお代は払われたわけ?」
「ええ、朝起きるころにはスッキリだと思いますよ」
「そうか」

 きっとお前の記憶はきれいさっぱり消えているんだろうな。
 小さな鍵穴にきれいな細工の施された鍵を差し込み、回す手元を見ながら思った言葉は、言わないでおいた。

「マサヤさん」
「なんだ?」
「一回だけ、我儘言ってもいいですか。本当はこういうの、ルール違反なんでしょうけど」
「言ってみろよ」

 自分から提案した癖に渋る男の言葉を促すと、彼は俺の右腕を取る。
 手首よりも少し肘寄りのそこに顔を近づけた男は、先程の勢いとは全く逆の。ゆったりとした動作で小さく、吸い付いた。
 それも、痕が残るほど、強く。

「なんの真似だよ」
「虫に刺されたんですよ」
「お前バクだろ」
「一応、形状は哺乳類です」
「なら、バクでいいじゃねえか」
「ひどいです、僕はこんなにもあなたのことを想っているのに!」

 開け放たれたドアの向こう側は真っ暗で何も見えない。
 明日があるのか、ないのか。それすらも分からないが。
 付けられたばかりの腕の印が、明日も残るのか消えるのか。
 今、分かることといえば「今日の自分」が「今日の彼」に会えることはないということだけだ。
 
「おい、明日屋」
「はい、なんでしょう」
「良い夢を」
「僕にとって貴方との夢はごちそうですよ」
「そりゃあ、お粗末さまでした」

 ごちそうさまでした。
 優しい口調と同じくらい優しい指先が背中をとん、と押す。
 暗闇の前に立っていたはずなのに、気が付けば足元に広がっていた。
 夜の闇はどこかに消えて、ただの真っ暗が続く。

 落ちているのか浮いているのか立っているのかすらも分からない。

 ただただ、薄くなる意識の中で。
 暗闇と同化する中で、無意識に右の手首を掴んでいた。
 まるで、誰かの真似をするかのように。






 けたたましいアラームと共に、一日が始まる。
 暑苦しい、日本の夏。
 とくに今年の暑さは異常だ。
 毎年更新されるこの暑さは、どうにかならないのだろうか。
 地球ごと冷蔵庫に入れてくれと、切に願う。

 のろのろとベッドから起き上がり、ぼうっとしていたところに感じた違和感。

「あれ、虫さされ」

 右の腕に、蚊が血を吸った痕跡がひとつ。
 ぷくり、と痒みを伴って存在していた。
 今年は未だに刺されていなかったのに、悔しいとばかりにバリバリと腕を掻き、洗面所へと向かった。

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