溶け出した陽だまりは

 白いシャツから黒のスラックスへ。順番に袖を通し、最後にズボンと同色のギャルソンエプロンを巻いてからシャツの袖を捲る。
 本来であれば完全にオフであるはずだった今日は、バイト先からの一本の電話によって阻止された。
 今日はいるはずだったバイトが、風邪で休むことになったから急遽代打として出てくれと言う旨のもの。
 デートの予定を入れていたわけではないが、拘束時間五時間とはいえ休みを妨害されたのには変わりない。
 あの軟弱者め、と休んだバイト仲間を恨めしく思いながらもタイムカードを専用の機械へと通した。
「やあ、相模君。お休みのところ悪いね」
「いえ、バイト代は俺の方に入るんで構わないですよ」
 休日出勤はいやだけど、タイムカードを押してしまったら後は自分の責任だ。
 朝食の席で「面倒でも責任は全うしろよ」と軽く喝を入れて貰ったから気合は十分だ。
 少なくとも、この職場も店主であるこの人のことも嫌いではない。
 落ち着いた、クラシックが似合う店の内装も大人になった気になれるこの制服も気に入っている。
 髭の似合う店長は、少しだけ変わり者で「マスター」と呼ばれることを好む人だった。
 芸術家肌である彼の言葉も、時々差し入れに来る奥さんの口癖も俺には新鮮。ヒロエさんとはまた違った感動がある。
「相模君は見た目に反してシビアだよね」
「愛も大事ですが、お金も大事ですよね」
 愛だけあっても食ってはいけない。
 穏やかな老後は若いうちに蓄えてこそだ。
 開店前の店内を掃除をしながら店長にそのことを話すと彼は「守銭奴ですね」ときれいに整えられた顎鬚を撫でながら笑った。


 開店直後は疎らだった人の出入りも、お昼時を境に徐々に増えていく。
 知る人ぞ知る、なこの店も土曜祝日となればそれなりに人も入るものだ。
 カウンターから出来上がったコーヒーやフードを持って狭い店内を行ったり来たり。
 その間、忙しさを感じさせてはいけないというのがこの店のルールだった。
 声を荒げないこと、笑わなくても良いけど穏やかな表情であること。マスターと呼ぶこと、というのがこの店の三箇条。
 他の店ではまずないであろうその条件も、物珍しくて好きではあった。
 精神的な修行を強いられているような気分になりつつ、勤務を終えたのは午後三時。
 夜にはバーに様変わりするこの店は、午後六時までは一旦休憩と称してシャッターを下ろす。
 夜のバイト君が来るまでは店長もスタッフルームでお昼寝タイムだ。
 お休みと告げて毛布を被る店長に「お疲れさんでした」と告げてカウベルを鳴らして店を出た。
 年末年始は何かと忙しい。坊さんもあっちにこっちにと忙しないが、俺の財布の中も入れ替わりが激しくなる。
 次から次へと浮かんでくる欲求をなんとか振り切って、寄り道もせずにまっすぐあのボロアパートに帰る。
 鉄骨の階段を足取りも荒く駆け上がり、202号室の扉を開ける。
 ただいま、と声を上げてもいつもの「おかえり」の声はない。
 鍵も掛けずに出掛けたのかと足元に視線を落とす。仕事用の革靴も、普段履き用のスニーカーも変わりなくそこにある。出掛けたというわけではなさそうだ。
 職業柄か挨拶を大切にしているヒロエさんにしては珍しいな、と思いつつ部屋の奥に進むと、その疑問はあっという間に解消された。
 扉を開けて、目の前に飛び込んできた光景に思わず頬が緩んでしまった。
 バルコニーに繋がる窓のから差し込む陽光。それが作り出した陽だまりの中、読みかけだったのであろう本を腹の上に乗せて昼寝をする男が一人。
 日向に加えて電気ストーブのおかげで暖かな部屋は、確かに心地がいい。
 本を読んでいるうちに寝てしまいたくなる気持ちも分からなくもない。
 一定の間隔で上下する腹の動きと穏やかな寝顔に此方の眠気も誘われる。
 そういえば、昨日はヒロエさんとゲームをしていて寝るのが遅かったのだ。寝不足はお肌の大敵よ、と同じ講義を取る女子に言われたのを思い出す。
 まだ午後三時を過ぎた頃。
 お昼ご飯も食べて、調度心地よい睡魔が襲う時間帯。
 持ち帰った課題は殆ど済ませてあるし、明日は日曜だ。
 少しくらい、いいよね。
 自分に甘い結論を出して、ヒロエさんの腹を枕にして俺も陽だまりの中に横になる。
「う……」
 ちょっと苦しかたのであろう、少しだけ呻き声を上げたヒロエさんに「ごめん」と声を掛ける。するとその声を聞き入れたとばかりに眉間に寄った皺は緩やかに平らになっていく。
 強すぎない冬の日差しは、寝不足と肉体労働後の身体には心地よい。
 とろとろと襲いくる睡魔に身を任せる直前に吸い込んだ空気は、卵焼きのように暖かく美味しそうな匂いがした。



 トン、と硬い音が響いて目が覚めた。
 目を覚ました時には窓にはカーテンが掛かっていて、天井の蛍光灯が皓々と眩しい光を注いでいた。
 時刻を確認すると、午後六時三十分。もうすぐ夕飯の時間だった。
「おう、起きたか」
「……おはよう」
 身体を起こすと、肩から毛布がずり落ちた。これを掛けてくれた人は、もう一品出来上がった料理と箸をテーブルの上に並べてながら「おはよう、おかえり」と数時間越しの返事をくれた。
 ささくれ一つない、その綺麗な指先から作られた今日のメインは生春巻き。サーモンとアボカド、牛肉とキムチ、むきエビにレタスや大葉と三種類もあるそれが、きれいな切り口のままお行儀よく大皿の上に並んでいた。
 そのうちのひとつを抓み食い。下味も付けられている牛肉とキムチにご飯が欲しくなる。
「お前、また抓み食いして」
「美味しい。美味い」
「おう、口に合ってなによりだ」
 次々と並べられる本日の晩御飯。
 俺が寝ている間に作られたご飯は、まずが前述の三種類の生春巻き。
 レタスチャーハンと酸辣湯スープ。野菜たっぷりの焼きビーフンと、ほうれん草の磯香和えといった面々。
 ちなみにデザートはコンビニの杏仁豆腐。別途購入のクコの実まで添えてあるのだから、ほんのちょっとだがヒロエさんなりの手間が窺える。
「中華で揃えてくるのも珍しいね」
「まあ、たまにはな。酸辣湯なんて試したことなかったし」
 ちょっと実験、と悪戯っぽく笑ったヒロエさんは味噌汁椀に入れられた自作のスープを口にしながら「まあまあだな」と自身の研究結果を分析する。
 おそらくお昼寝前に読んでいた本の中に、このレシピも入っていたのだろうか。
 見えないところで努力をするのが好きなヒロエさんらしい。
 こうして彼の日々の努力によって、俺は今日も美味しい晩御飯いありつける。
「いただきます」
 生きてく上でいつの間にか当たり前になった挨拶を口にする。
「どうぞ」
 これまた当たり前になった挨拶が、食事を促した。
 口に含んだ用のご飯は、いつもよりあったかい。
 向かい側で笑う男の表情は、すっかり消えてしまったお日様のように暖かくて見上げるこっちが恥ずかしい気分になるのだった。

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