とびきり優しくしてあげたい!

 一緒に夕飯を囲み、満腹の幸せを噛みしめてから食器を洗いに行くのはいつも俺の方が先。
 高校時代の下宿での習慣が今でも続いている。
 最近の子にしては珍しいな、と感心していたけど俺たちの歳の差なんてたいしたことないのに。
 その比較対象は、きっと俺の後輩でもある彼の弟なのだろう。皿を洗う。その度にヒロエさんは「ありがとう」の言葉をくれる。この行為を習慣化させたのは多分ヒロエさんの言葉の力があるからだ。
 ハンバーグのソースの付いた皿を泡で洗い流す。
 ご飯の茶碗はあらかじめ水に浸けておいたからあっという間につるつるになる。
 俺が食器をきれいにしている間、ヒロエさんは隣で湯を沸かす。
 食後の煎茶はこの家での定番だ。
 今日の御茶請けは、この間箱買いしたミカンだ。
「明日の晩飯、何がいい?」
「ん〜、パセリライス」
「じゃあ、肉だな」
 明日も肉か、と呟きながら冷蔵庫の中を確認しに行く辺り、きっと数日分の晩御飯のメニューでも考えているのだろう。
 ヒロエさんは和え物が好き。俺は肉や魚が好き。
 よって冷蔵庫や冷凍庫には、男の二人暮らしとは思えない程にぎっしりと肉や野菜といった食材が詰め込まれている。
 それを腐らせないように、上手く食材を使いやりくりしているのだから主夫の鑑と言っていい。
「マヤ、明日バイト休み?」
「うん、ヒロエさんは会議だっけ?」
 明日は水曜。記憶違いでなければ、ヒロエさんの職場では定期の職員会議があった筈だ。
 ふと、その横顔を盗み見るようにして尋ねる。
 冷たい風を送る冷蔵庫の前に居るはずなのに、なぜか赤いその頬に少しだけ違和感を覚える。
「ん、そう。少し帰り遅くなるから、パセリ買ってきてくれる?」
「了解。他に買うのは?」
「あ〜、海苔の佃煮」
「使うの?」
「いや、今食いたい気分なだけ」
 確かに、最近漬物以外の「ご飯のお供」のストックがない。夕飯時はそれほど困らないのだが、お弁当の必需品だ。
 ちなみに、それもヒロエさんが作ってくれているのだが、時々悪戯にキャラ弁なんて作るもんだから同じ学部の女子から「相模は乙女」という噂があるのだというのだから堪らない。どうして彼女が作っている、という発想にならないのか。
「まあ、それはマヤのキャラクターのせいでもあるんだろうな」
「……分かってはいるんだけどさあ」
 ちぇ、と唇を尖らせながら拗ねたフリをすると、背中に軽い衝撃を受ける。視線を上げると、白い顔の男が此方を見下ろしていた。
「皿洗い、ご苦労様」
 機嫌よく笑ったヒロエさんは、俺の手が水道のレバーを下ろすよりも早く水の流れを止めて、その大きな手で俺の後頭部をわしゃわしゃと掻き混ぜた。
 二、三回撫でただけで満足したのか、食器棚から二人分の湯飲みと急須を取り出しお茶の準備に取り掛かる。
「マヤ、みかん持ってって」
「あ、うん」
 くだもの用の深めの木皿にいくつか見繕ったミカンを乗せて、この家で一つしかないテーブルへと向かう。
 ご飯を食べるのも、勉強をするのも、仕事をするのも全部このテーブルで済ませてしまう。
 小さいテーブルでするには狭いけど、俺たちには調度好い。
 あったかいストーブの前で入れてもらったお茶を飲む。テレビを見ながらミカンを食べる。
 実家でも、この家でも変わりない。その隣にある体温に対する愛情の種類が変わるくらいだ。
 そのあと、テレビで報道された動物のニュースに夢中になっていて忘れていた。
 ヒロエさん、もしかして体調悪い? って聞くのを。


 それが目に見えた変化となって現れたのは、翌朝のこと。
 いつもは時間きっかりに起きるはずのヒロエさんが、珍しく寝坊したのだ。
 明らかに顔色の悪い彼に体温計を差し出すと、三十秒後に表示された数字は37度6分。
 俺にとっては微熱程度だが、平熱が低い彼にとっては結構な辛さだ。
「弁当作れなくて悪いな」
「いいよ、別に。それより休んだら?」
「いや、無理。今日は奴らとドッヂボールする約束してるから」
 そういってスーツに着替え始める。体がしんどくても休めないというのが社会人というものなのだろうか。
 ヒロエさんの家に転がり込んでまだ一年。知り合ってからは二年ほど。人生の尺図から言えば短い付き合いのなかでそう思ったことが数回ある。
「……気づけなくてごめん」
 昨夜の顔色の悪さは、気のせいではなかったのだから。沈んでしまいそうな感情。ごめん、ともう一度呟くとお気に入りのネクタイを締めた「働く男」になった彼が笑う。
「隠してたんだから当たり前だろ」
 そう笑って、また昨夜のように頭を撫でられる。
「じゃ、いってくるわ」
 いつも通りの笑顔で、いつもと同じ革靴を履いたその背中はしゃんと伸びていて体調不良を感じさせない。
 出来れば休んで欲しいかったけど、彼の子どもたちへの優しさを無碍には出来ないと見送った。
「いってらっしゃい」
 彼の教え子ちゃんたちが羨ましく思ったのは、ヒロエさんの体調が戻るのを待ってから告げることにした。


 今日の講義は三時間目まで。
 いつもよりも早く終わり、バイトもない。
 友人たちと食堂でくだらない話をしながら時間を潰す。
 けれど、楽しみにしていた講義の内容も友人とのやり取りの間にも頭の中を占めるのは、朝見送った男のことばかりだ。
「なあ、病人には何食わせればいいと思う?」
「おかゆだろ」
「やっぱりそう思う?」
 病人といったらおかゆ。しかしあれって、食べやすいだけで消化は良くない、らしい。
 以前、俺が風邪をひいて寝込んでいる時にヒロエさんが言っていたのだ。
「でも、胃が悪かったらどうする? それだったらうどんとかの方が良いんじゃん」
「じゃあ、聞けばいいだろ」
「え〜、それじゃあサプライズにならないじゃん」
「病人にサプライズする必要、あるのか?」
「……ないねえ」
 確かに、必要がない。 
 口数少ない癖に的確なことを突かれてしまった。
 常盤くんに貰ったアドバイスの通りに、まだ勤務中であろう人物にメールを一通、作って送る。
 各々の講義があるからと、散り散りになる友人たちに手を振って、岐路に着く。
 道中、最寄りのスーパーで昨日頼まれた物を購入する。
 けれど、ヒロエさんに作らせるつもりは毛ほどもない。
 今日の食事は俺が作る、と決意をして自宅の扉を開け、帰宅。
 ようやく返ってきたメールには「熱あってだるいだけ。飯は食えてる」と、俺にとっては朗報。
 買ってきた食材は、分かりやすいところに入れて、炊飯器の蓋を開ける。
 米は十分にある。
 さて、ただのおかゆを美味しく食べるにはどうするのがいいのだろう。
 冷蔵庫の前で、きれいに整頓された食材を睨みながら考える。
 ヒロエさんの真似をして。


「た、だいま……」
「おかえり!」
 午後七時。
 仕事帰りに町の診療所に寄ってきたヒロエさんの帰りはいつにも増して遅かった。
 いくらか取り繕っているとはいえ、その顔色はますます悪くなっているように感じてしまうのは、きっと錯覚ではないはずだ。
 朝同様、体温計を差し出すと体温は更に上がっていた。38度4分。無理しすぎだ。
「注射も打ってきたからきたから、そのうち元気になるだろ」
「だったら尚更安静にしてて」
「飯は?」
「俺が作るって言ったじゃん」
 メール見てないの、と尋ねるとヒロエさんは意地悪く笑う。
 知っていて聞いたのか。
「マヤの飯ってのも、久々だな」
「なんか嫌味っぽいんだけど」
「いやいや、楽しみに帰ってきたんだ。それで熱上がったようなもんだよ」
「愛が重すぎたかな」
「燃えるような恋と言え」
 ははは、と軽快な笑い声を立てるものの、どこかだるそう。
 だけど、それがまた別の意味で色っぽくてドキドキするのを隠しながら台所に向かう。
 病人に欲情するのは、非常識だ。


 本日の晩御飯は、ヒロエさんが病気のため俺が代打。
 主食はおかゆ。麩の味噌汁。
 高菜とひき肉の炒め物に、梅肉のおろししょうゆ、ネギ味噌、それから昨日食べたいと言っていた海苔の佃煮を小皿にきれいに並べる。
 それらを好きに合わせる「お好み粥」だ。
 消化に良いか悪いか、栄養バランスは、なんてまったく考えていなかったけど「一汁三菜」だけはしっかりと守ったつもりだ。
「いただきます」
 調子が悪いのに、どこか嬉しそうな声音になんだか気恥ずかしくなる。
 相手が料理上手なだけに、余計に。
 レンゲを持つ手が動く度に、俺の目もそれを追う。
 正直、自信はない。まずくはないと思うが、それでもヒロエさんの味に慣れ、肥えてしまった舌はどんなにその味を目指そうとしても物足りなさに首を傾げてしまうのだ。
 けれど、俺の舌を我儘にした張本人は「うまい。ありがと、マヤ」と幸せそうに笑う。
 熱で潤んだ目が、とろんと溶けて。滅多に見られないその笑みに、ヒロエさんの熱がうつったみたいに顔が熱くなった。
「どーいたしまして」
いつも作ってもらってばかりだけど。与えられる側だけど。
こんなに幸せそうにしてもらえるなら。
精一杯、与える側になりたい。
「ねぇ、ヒロエさん。もっと甘えたくならない?」
俺に出来ることはなんだろう。
尋ねてみると、ヒロエさんはますます笑みを深くして。
「それじゃあ、」
と少し掠れた声でお願い事をひとつ、教えてくれた。


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