花の獣が潜む夜

 バイトを終えた八時半。
 ベッドタウンの暗い夜道、すれ違う人は多いけれどその表情は窺えない。
 目深に帽子を被っているわけでも俯いているわけでもないのに、たった今擦れ違った人がどんな表情をしていたか、それを覚えていない。
 それだけ自分が他人に無関心に生きているのかとか、珍しく卑屈なことを考えてしまうのは、きっと春だからだろう。
 そういうことにしておいた。
 真っ暗とも、明るいとも言い切れない夜道を歩くその途中、ヒロエさんに連絡を入れるのを忘れていたのを思い出して、カバンから携帯を取り出せば、着信の表示が出ていた。もともと頻繁に確認するタイプでもないし、マナーモードにしてたために気付かなかった。
 自慢ではないけど、友達があまり多くない俺に連絡を寄越すのは限られる。着信履歴の一番上、ここ数年一番目にする人物の番号へと折り返すと、数回のコール音でいつもよりも陽気な声が応えた。
「マヤ? どうした?」
「どうしたって、先に掛けてきたのはヒロエさんでしょ」
「あぁ。そうだった」
 悪い悪い、と悪びれない声の向こう側で、くつくつと液体が蒸発して美味しくなっている音がした。
 俺がいないからと、きっとビールでも飲みながら料理をしているのかもしれない。
 最近、ヒロエさんは頻繁にキッチンに立ちながら酒を飲む。一行程を終えるたびにロング缶を煽り上下する喉仏にどきりとするのはここだけの話だけど。
「バイト終わったか」
「うん、これから帰るけど。足りないものでもあったの?」
 お疲れ様、と労いの声を掛けてくれるヒロエさんの声は、ひどく穏やかで優しい。
 電話の向こうの表情だって、きっと蕩けるくらいに甘くて優しいのは長い付き合いだ、見なくたって分かる。
 たしか、今日のお遣いはなかったはずだけどと思いつつ、自宅に戻るはずの足は無意識にスーパーへと向かう。
 いつも、学校帰りに立ち寄る、安くて新鮮が売りの御用達のお店だ。
「いや、別に、材料は間に合ってるんだけどな。焼き鳥買ってきてくれないか。花見しよう」
「今から?」
「そう、今から」
 穴場を見つけたんだ、と笑いながら告げるヒロエさんの声はどこか嬉しそうで。あんたがそんなに言うのならと、了承し通話の切れた携帯を握って今しがた来たばかりの道を戻った。

 ヒロエさんのいう「やきとり」はスーパーで売っている冷凍のものでも、屋台で売っているのもでもない。自宅から歩いて五分程のところにある居酒屋のもの。元々肉屋で、仕入れからこだわって作られたメニューはどれも豊富で美味しい。何度か連れて行って貰ったからこそ、その美味しさも分かる。
 外食は好まないヒロエさんだけれど、時々ふらりと飲みに出掛ける。相手や日によって場所はばらばらだけど、最終的にはいつもこの店で飲みなおしている。それくらいこの店と、店の焼き鳥を愛しているのだ。
 ヒロエさんとそう歳も変わらないであろうオニーサンに、適当に二人分の焼き鳥を見繕ってもらい、帰路を急ぐ。
 温かいうちにお届けするのがデリバリーの基本だ。
 ご飯をより美味しく食べるには、その料理の適温のうちにいただくのが大切だ。
 味噌汁は暖かいうちに、冷麦は冷たいうちに。
 焼き鳥はもちろん、焼き立てが一番だ。
 家に帰るまでのその五分、我慢しきれず二本だけ食べてしまったのはヒロエさんには内緒にしておこう。
8本あった串が6本に減った。それを知っているのはあの店のオニーサンと俺だけだ。


 今年の桜花は寿命が短い。
 咲いたかと思ったらあっという間に散って、場所によっては花が殆ど咲かぬまま葉になってしまったところもあるそうだ。
 思えば、今年になってまともに花を見かけたことなんてなかたような気がする。どこにでもあるタンポポやハコベの葉すら久しく見ていない気がする。
 灰色のコンクリートが溢れていることだけに限らない。おそらく、それだけ周囲を見ていないのかもしれない。
 自宅と学校とバイト先。その往復の間に、何度足元に注意しただろう。何度頭上を見上げただろう。
 専ら、携帯の液晶ばっかりだった気がしないでもない。
「ただいま」
「おー、おかえり。いきなり悪かったな」
 安アパートの玄関を開けると、調度一皿作り終えたらしいヒロエさんが、テーブルに料理を運んでいるところだった。
「花見に行くんじゃないの?」
「ん? するけど」
「早くいかないと、真っ暗になるよ」
 住宅が密集していることもあり、このあたりのライトアップは九時を過ぎれば無情にも消されてしまのだ。
 もう時間は殆ど残っていない。急かしてもヒロエさんは余裕たっぷりに笑うだけで「いいから上がれよ」と手招く始末。
 焼き鳥の入った袋をガサガサと鳴らしながら、渋々靴を脱ぐとヒロエさんは満足そうに笑みを深め、「週末は雨だな」と番組の隙間に入れられた天気予報を長めながら告げる。
 手に掲げられた深めの皿の中にはパイ。和食好きなヒロエさんが、そういうものを作るのは珍しい。
 小麦色に色づいたチーズの中からうっすらと顔を覗かせる緑色。
 ブロッコリーの類いかと思ってけれど、先日、実家から送られてきた食材に似たようなのがあったのを思い出す。
「これって、菜の花?」
 明確の答えは返ってこなかったけど、代わりに向けられた笑顔でそれが間違いでなかったことを知る。
「花見といったらこれなんだよ、我が家は」
「おふくろの味ってやつ?」
「いや、婆ちゃんの味だな」
「……随分とハイカラな婆ちゃんだね」
「今を生きるババアだからな、嗜好も現代よりなんだ。田舎に住んでるくせに都会者より都会に詳しかったりするしな」
 悪ガキだったヒロエさんをぶん殴って諌めただとか、料理の基礎を教えてくれたとか。吉岡啓恵という人間の根幹に存在する人物は、随分と豪傑な人らしい。
 けれど、ヒロエさんが和え物が好きなのは、きっとそのおばあちゃんの影響なのだろう。優しい味付けも彼女譲りのものなのだとしたら、それはとても素敵なことでなんだか微笑ましい。会ってみたい、という想いが芽生えた。
「昼間だったらおばあちゃんも呼べたのにね」
「呼べば新幹線でもローカル線でも使って本気で来るからな」
「じゃあヒロエさんはおばあちゃん譲りなんじゃないの」
「……それ、複雑」
 年寄りと一緒にされるなんて、と顔を顰めて半笑い。
 それでも本気で嫌がってないのは、それだけヒロエさんがおばあちゃん子であった証拠だ。
 普段はつんと澄まして、幼少期の想像がつかないヒロエさんの、そういった表情が見れるのはなんだか嬉しい。楽しい。
「ところでヒロエさん、出掛けなくていいの」
 早くしないと、真っ暗闇の中葉桜を見上げることとなるのだけれど、未だに出掛ける気配を見せない彼に尋ねる。
 テーブルの上に置かれたキッシュはそこから動くこともなく、それどころか本日何本目かのビールを取り出す始末。
 缶を片手にヒロエさんが向かった先は、この家で一番日当たりが良い場所。
 備え付けの物干し棹だけが掛かった質素な我が家のベランダには、ヒロエさんの作業場用のちゃぶ台と座布団が無造作に置かれていた。
「出掛けなくても、花見は出来るだろう?」
 片手にビール、もう片方の手には二人分のブランケットを手にしたヒロエさんはせっせと会場の設営に取り掛かる。
「マヤ、料理持ってきて」
「やきとりは?」
「温める」
 勿論、と言わんばかりに俺の手からレジ袋を掠め取った彼は、ビールをちゃぶ台の上に残したまま早足で台所へと消える。
 花見のために用意した今夜の料理は、菜の花とベーコンのキッシュとブロッコリーの甘酢和え、桜えびご飯のおにぎりと、それからテイクアウトしたやきとり。汁物の代わりはアルコール。少し前に二十歳の誕生日を迎えて、正式にお酒を飲めるようになった。まだビールの苦みに慣れない俺のためにお湯を沸かしてくれているのだろう。台所の奥、電子レンジが震える音に俺を呼ぶ声が重なる。
「コーヒーとお茶、どっちがいい?」
「ヒロエさんと同じでいいよ?」
「……今日くらい飲ませろよ」
「ふは、お茶でいいよ」
 拗ねたような口調に、思わず噴きだす。
 そういう意味じゃなかったんだけど。
 ちゃぶ台の上の銀色のロング缶を拾って、雨曝しのベランダの柵に凭れる。
 日中の陽気さと異なり、冷たさを残す夜の風が吹き抜けて、サワサワと葉が擦れる音がする。
 まだ肌寒さを感じさせるけれど、真冬のような攻撃的な鋭さはない。
 ゆったりと、まどろむような丸みを帯びた風が頬を撫でていく。
 天井の低い二階から見下ろした景色の中で、確認できた桜の花は殆ど見えはしないが、それでも春の匂いは間近にある。
 家々の灯りで照らされた桜の花に似た高木が、やけにきれいに、艶めかしく見える。
 半分も飲まれていない缶の中身を煽る、慣れない苦みと強い炭酸に思わず頬が緊張する。
 やっぱり美味しくない。眉間に力が入るのを自覚すると後ろ髪をぐしゃりと握られた。
「お子様め」
 振り返れば、マグカップを片手に持ったヒロエさん。
 俺の行為を見ていた彼は、その行動の真意を透かしてニヤニヤと下卑た笑みを向けてくる。
 今更ながらに恥ずかしくなり、それを誤魔化すように愛用のマグカップと缶ビールを交換する。
 暗い中ではよく分からないその中身を尋ねると、「コーヒー牛乳、みたいなもの」と曖昧な答えが返ってくる。
「なにそれ」
「俺と同じものだと苦くて飲めないだろ」
「……その通り」
「もっとまずいもの、知ってるくせに」
「法廷に訴えて勝ちますよ」
「言うようになったね、マヤ君」
「おかげさまで」
 軽口を叩きあい、それを締めくくるように乾杯をする。
 薄暗い中で見下ろすカップの中身はトロリとしたセピア色。
 口を付けると甘みとアルコールの独特の風味が舌先を刺激した。
 
 桜も花も、星すら殆ど見えない花見の席は、宴というには随分と静かなものだったけれど、花野菜に溢れたテーブルの上はどこよりも春に満ちていた。
 初めて食べるキッシュを絶賛すると、今日は笑顔を大安売りしているヒロエさんが笑う。俺もアルコールが回ってきたらしい。
 見慣れている筈のそれが、やけに艶めかしく見えた。
 桜は人を惑わせる。そう言うけれど、俺にはアルコールの方が問題だ。

 電子レンジの中で再加熱された焼き鳥が取り出されたのは、その熱が随分と冷めてからのことだった。



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