冬めく夜


 機嫌が悪いわけでもないが、良いわけでもない。強いて言えばいつもフラットなマヤが、珍しく眉間にしわを寄せてる。
 晩飯も終わって満腹状態。食後のお茶を啜る頃はどちらかといえば緩んだ表情を見せるくらいなのに、今日は珍しく険しい表情だ。
 感情の起伏があまり表情に現れない彼にしては珍しい。

「どうした?」
「特になにがあるってわけじゃないんですけど……」

 自分でもしっくりしていないのだろう、困ったような表情に此方もつられて失笑する。

「なんか、朝から喉が痒くなる時があって」

 んっ、んっ、と詰まるものを追い出すような咳払いをひとつ。ふたつ。
 それでもすっきりしないらしい。
 うぅ、と唸りながら喉を掻く手をやんわりと止めてやる。
 なんとなく覚えのある症状は、風邪の予兆によるものだろう。
 痒いのは皮膚の表面じゃなくて、その内側。何度爪を立てて傷がつくだけだ。

「風邪か」
「……認めたくない」
「何事も早期発見早期治療が大事だろ。病院、は今頃閉まってるし明日行って来なよ?」
「まだ行くほどじゃないでしょ。熱だってないし」

 そういえばマヤが病院に行く、という話を聞いたことがない。
 出会った時点で顔色は最悪だったけど、風邪を引いた様子はまるでなかった。

「そうやって感染症は流行っていくんだぞ」
「……う」
「せめて市販薬でいいから出来る限りの予防して早く寝ること」
「はい」

 去年は受験生で、自分なりに予防もしていたし気を張っていたのもあるのだろうけど。
 小学校勤務をしたこの数か月、感染症の怖さと質の悪さは身をもって知った身としては、出来ることがあるなら今のうちにしておいた方が良い、と思う。
 それが分からないマヤでもない。肩を落として同意する姿は叱りつけられた仔犬だ。
 別に怒っているわけでもないが、なんだかその表情にこっちまで眉尻が下がってしまう。

「……ネギ、火を通したら食えるんだっけ?」
「まぁ……ほどほどに」

 喉が痒い以外に症状はないらしいが、この家には市販薬の類いもない。
 せいぜい晩飯で使った食材が少量あるだけだ。

「じゃあ、ちょっと待ってろ」

 それなら俺が出来ることが一つある。
 頭に手を置いて、立ち上がったらまっすぐ台所に。
 扉一枚隔てた先のそこは閉め切っていたせいで少し寒い。
 冷蔵庫から半端に残ったネギを出し、シンク横のカゴから洗って乾かしたままの包丁を。 
 コンロの上に鎮座してたヤカンに水を足して湯を沸かす。
 もそもそと準備をしていたら、背後に人の気配。
 待ってろって言ったのについて来たマヤを「あったかくしてろ」と追い返したら、上着を一枚羽織って戻って来た。揚げ足を取ったとばかりにドヤ顔なのが腹立たしい。

「寂しいの?」
「どっちかっていうと恋しい」
「うっわ、かわいい。抱きしめていい?」
「包丁握ったまま言われるのはちょっと……」

 あえなく振られてしまった。残念。
 それでも可愛い言葉はもらったので、そんな可愛い恋人のためにネギを刻む。

「マヤ、お湯が沸いたら自分のお椀用意しとけよ?」
「うん」
「あ。ついでに梅干しも出しといて」

 傍にいるなら手伝いも。
 お願いすると隣の彼は嬉しそうに微笑んだ。





 本日の夜食は、即席 ネギのみそ汁。
 味噌と顆粒出汁を湯で溶いたものに大量のネギと梅干を落としただけの物。
 風邪の引き初めにはこれ、と。小さい頃に祖母にしこたま飲まされた。そんな思い出の一品だ。
 出来立てで、もうもうと湯気が立ち上るそれはまだ熱い。
 にもかかわらず果敢に口をつけようとしたマヤは、

「あっつ!」

 と、見事に舌にやけどを負った。

「そりゃあそうだろ……」
「こういうのは熱いうちに食べきゃと思って」

 そりゃあ、作った側からすれば冷めないうちに食べてくれるのは嬉しい。
 けど、ダメージを負うほどのことでもない。
 相当痛かったのだろう。口元を抑え悶絶する子の頭を思わず撫でてしまう程度にはかわいそうに思えてきた。

「大丈夫か?」
「舌が、痛い……」
「ゆっくり食えよ。その間に薬局行ってくるし」
「え? なんで?」
「なんでって薬買いに。なんもねぇじゃん、この家」
「そうだけど。一人で? 俺は?」
「風邪ひきは家に居な」
「え〜」
「えーってなんだよ、かわいいな」

 せっかく立ち上がろうとした太腿をがっしり掴まれてはさすがに抵抗も出来ない。
 不満を前面に押し出すその根底にあるのは、さっきも言っていた「恋しい」気持ちからだろう。
 今度こそ全力で出来締めると、腕の中から「へへ」と緩い笑い声が聞こえる。
 
「なに?」
「こういう時甘やかされんのいいなって」
「概ね甘やかしてねえか、俺?」
「うん。たまにちょろいよね」

 もぞもぞと腕の中で動いた塊が自分の定位置を探し始める。
 見事に俺を座椅子にしたマヤはそのままお椀と箸を手に取る。
 いくらガリガリでも大学生男子が凭れてくればそれなりの重量がある。
 それでも、こうやって自分から甘えに来てくれるようになっただけ随分な進歩だ。

「おー、存分に甘えてくれ」

 目の前にある頭をがしがしと撫でると、薄い肩が揺れる。
 あー、小さな幸せを噛みしめて、不意に訪れた衝動のままキスをしようと覗き込んだら、かすかに温まった手に妨げられた。

「……なんで」
「うつしちゃダメかなって」

 そういう人に対する遠慮だけは相変わらずしっかりしている子だ。
 変わらないでいてほしいけど、ちょっとおもしろくない。

「あと、ネギ臭いじゃん」
「ふふ、別に俺ネギ好きだけど」
「…………」
 無言で首を振られた。
 たぶんネギ臭い自分が嫌なんだろうけど。

「じゃあ、それ食ったら一緒に薬局な」
「うん」

 この調子だと完治したと認識するまで手は出せない。
 人肌恋しい季節なのに、これ以上いちゃつけないのはちょっと寂しい。

「マヤくん、早く風邪治して」
「努力します」

 そう言いながら、椀の中身を啜る肩に額を押し付けて、マヤの風邪が早く治るように明日の晩飯は生姜入りにしようと心に決めた。

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