甘いうちにおいでなさい

 バイト先から呼び出しを受けたのは、昼食の牛丼を食べ終えた直後のこと。
 同居するうえでの役割分担である食器を水の中にとぷりと浸からせると同時の着信音。
 表示されたマスターの名前に、さてはまた高崎君がサボったのかな。
 数少ないバイト仲間の内の一人、高崎君は無計画に度に出てしまう人だから。つい先日も「ちょっとそこまで」と言いながら北海道縦断の旅に出てしまったくらいだ。今回もまた、なんの相談もなしにどこかへ行ってしまったのだろうと電話に出る。
「ああ、もしもし、相模?」
 応じた電話のその向こう。応対したのはマスターの落ち着いた声ではなくて、高崎君の能天気な声だった。
 そうだ、今は土曜のお昼。カフェでは最も忙しいランチの時間帯だ。
 もしも高崎君が休んでいたのなら、もっと早くから連絡を寄越すはず。
 それだというのに、この男は他人の携帯でなにを悠長なことをしているのだろう。
いいから働け。
「何?」
 思わず剣のある物言いになってしまったけど、高崎君は気にすることなく「あのさあ」と呑気に告げる。
「お前、甘いの好きだよな」
「まあ、好きには好きだけど」
「マスターがさ、お前に食わせたいものがあるんだってよ」
「はぁ……」
 甘いものが好きなマスターは美味しいものを見つけては俺たちバイトの分も買ってきてくれる。俺がヒロエさんとルームシェアをしていることも知ってか、最近はヒロエさんの分まで買ってきてくれるほどだ。
 しかしながら俺のシフトは三日後までない。
先週の高崎君の放浪癖で一週間分を丸々変更したからだ。
「お前、取りに来てやれよ。どうせ暇だろ」
「まあ、そうですけど」
 そもそもなぜあんたがマスターの携帯で俺に電話をかけてきているのか。
突っ込みたい言葉は飲み込んだ。
 賞味期限がどうのこうのと悩んでいるらしいマスターを思えば、顔を出した方が良い。
 幸い課題もないし、ヒロエさんはレパートリーを増やすためのネット検索に夢中だし。
 通話を終えた携帯と財布だけを突っ込んで出掛ける準備を整える。
「ヒロエさん、ちょっとバイト先行ってくるね」
「どうした、またサボり魔か?」
「ううん、マスターがお菓子くれるって」
「……じゃあ、帰りにお遣い頼むわ」
 玄関で靴ひもを結びながら肩越しに急遽出来た予定を告げる。狭い視界に映ったヒロエさんは調度今晩の夕食を決めたところだったらしい。
お遣い用の小銭入れとメモを寄越すその表情は、なんだか他にも言いたげ。
行くなって言うなら、俺は行かないのになあ。
そう思いながらも、マスターの気持ちも無視できない。
差し出されたお遣いセットを受け取って、本日のおかずのヒントを得る。付箋紙に書かれた文字は、メモだというのにもかかわらず、きっちりとしたきれいな字。
「大根と野沢菜と、コーヒー?」
「じゃ、気をつけて」
 なんだか、そっけない。
そんな一言で見送られて家を出た。
扉を占める直前、ちらりと盗み見たヒロエさんの表情は、なんの表情も読めない無表情。
彼が、我慢している時の表情だった




 本日初めて出る外。
抜けるような空の青さと心地の良い風は、もう夏が近づいてる気配を滲ませていた。
 ゆっくり歩いて三十分。アジサイの花が咲く道を行く。
 バイト先までの通り道にある、この辺で一番立派な庭を持つ家の前を通る。
 門の横に松と桜の樹が構えるこの家は、今どき珍しいくらいに立派な庭を持っていて、四季によってその様相を変える
 花に興味なんて殆どなかったけれど、ここを通る度についつい目を向けてしまうのはそれだけこの庭が愛されている証拠なのだろう。
 今年は見事に咲いた牡丹の花も今は茶色くなって、はらはらとその花弁を低木の根元に落としていた。その様相は「崩れる」というのに相応しい。
 桜は散る、椿は落ちる、菊は舞う。花によって違うその最期を明確に表したその語を教えてくれたのはヒロエさんだ。
 門から底氏離れたところで密集したアジサイの低木が、青い花をぽつりぽつりとつけていた。
 アジサイの花は真ん中からではなくて外側から咲いていくということを最近になって知った。
 思えば実家からそう遠くない場所にアジサイの名所はあったけど、咲く過程を見るなんてことは殆どなかったかもしれない。
 初夏にはどんな花が咲くのか。
 そんな興味が今更湧いてくる。
 こんど、花屋でも覗いてみようかな。
 この家の庭でも足りないくらいの花で溢れているだろうから。そのうちのひとつとヒロエさんに買っていくのも面白いかもしれない。
 母の日と父の日の、真ん中のあたりにしようか。
 あとで調度いい日を調べてみよう。
 いつもは俺が与えてもらってばかりだから、その日は俺が返してみるのも悪くない。
 実行する日すら不確定のままだけどサプライズ感覚でヒロエさんを喜ばせる計画を立てるのは面白い。道中そんなことを考えていればあっという間に繁華な道へと出る。急に増えた人の量にぶつからないようにして歩く。
 ここまでくればバイト先はもうすぐだ。

 大通りから一本抜けた路地の突き当り。そこが俺のバイト先だ。
 マスターが豆からこだわって丁寧に淹れてくれたコーヒーはとても美味しい。ツウの人なら来たくなる、と本当にコアな雑誌に載るくらいの美味しいさ。……らしいのだけど、如何せん大都会というわけでもないこの街では訪れる客層は限られてくる。
 扉を開けると呼び鈴代わりのカウベルがカランコロンとかわいい音を立て、客の来店を知らせる。
 店内に入り、視界に入ってきた段階で本日のお客さんはカウンターに一人、テーブル席に団体様が一組。
 カウンターに座る曲がった背中と胡麻塩頭には見覚えがある。きっと常連の金物屋さん。
 テーブル席の殆どを占領するのは見たところ主婦層。婦人会の集まりでもあったのだろう、その不満と自慢と相談があちらこちらで話し合われ、時折どっと笑い声が爆発する。明るいけれど、ちょっと下品。普段は静かで居心地のいい店内も、今日に限りアマゾンの奥地みたいにいろんな音で声音が溢れていた。
 ドリンク一杯とワンフードで数時間と粘るオバサマたちが来れば暇というもので、だからこそ高崎君も俺に電話を掛ける暇があったのだろう。
 カウンターに座ってマスターに挨拶をすると、何も言わぬうちに俺好みのコーヒーが出てくる。
 少し薄めで、ミルクたっぷり。砂糖は少し。
 ヒロエさん以外にはなかなか言えない子ども舌も、彼は仕事をするうちに覚えたのだという。
 この店を愛してやまない人たちから言わせれば「邪道だ」とか「せっかくの味が」とか言われるだろう。けれど美味しく飲むには人それぞれなのだから仕方ない。それをマスターが許してくれて、俺のために淹れて待っていてくれるということの方が大事なのだ。その気持ちを受け取ることが大事なのだ。ヒロエさんなら、きっとそう言うに違いない。
「お休みのところすまないね。ちょっと、待っていてね」
「はい、お構いなく」
 店の奥へと消えるマスターの背中を眺めながら、コーヒーを一口。
 同じように淹れても自分ではなかなか出せない柔らかい味にじんわりとした幸せを感じていると、横から「相模君は、」と声が掛けられる。
 振り返ると、さっきまで昼のワイドショーを眺めていた金物屋さんだった。
「随分と可愛い財布なんだね」
 指摘されたのは、携帯と一緒に置いていたお遣い用の小銭入れ。
 たい焼きみたいな魚の形をしたそれは、俺専用のものでヒロエさんからのお遣い専用。
 各々の財布とは別に月々の支払用の財布を作るようにしなさいと言ったのはうちの母親だった。
 お世話になるなら食費、光熱費その他もろもろ、相手に負担をかけすぎないように、と。
 普段、食材のなどの買い物はその財布から出すようにはしているのだけど、学校帰りなどの急なお遣いはたいてい、自分の財布から出ていた。
 そういう時は後からヒロエさんが戻してくれてはいたのだけど、如何せん面倒くさがりの俺はその食材を買ったレシートを捨てたり貰わなかったりする。
 それじゃあ財布を分けた意味がないと見かねたヒロエさんにお遣い専用の財布を普段から持ち歩くように言われたのだ。それがこの財布を購入した切っ掛け。
 中身は前回のお遣いの時のまま。小学生のお小遣い程度の金額とレシートが数枚入っている状態のはずだ。
「ええ、お遣い用なので可愛いのにしたんです」
「いったいどこに向けてのアピールなんだよ」
 お前二十歳越えてだろ、と突っ込んできたのは金物屋さんでもマスターでもなく、真っ黒に日焼けしたサーファー系の男。高崎君だ。
「ヒロエさんに向けて」
「惚気は良いよ」
「おや、相模君には彼女がいるのか」
「はい、料理上手な恋人が」
「……って、言うでしょ? でもこいつ、一度もここに連れてきたことないんすよ」
 カウンターから身を乗り出してお客さんに囁く高崎君は俺にじとりとした視線を向けてくる。
「俺の中ではエアーな彼女なんじゃないかって思ってるんですけど」
「勝手に空気にしないでよ」
「じゃあ、連れて来いよ」
「……会っても説教されるだけだよ?」
 なぜならヒロエさんは高崎君のことをあまり良く思っていないからだ。
 一緒に過ごす時間が取られると怒ってくれるのは、俺として嬉しいことだろうけど。
 それに、会うだけなら会ったことはるのだ。
ヒロエさんが客としてこのカウンターに座ってることなんて割と頻繁にある。
金物屋さんだって二、三回ほど言葉を交わしたことがあるはずだ。
 ただ、「ヒロエ」という名前のせいで相手を簡単に女と認識しているせいで気付かないのだ。
「高崎君を紹介してもヒロエくんには何の得にもならないだろうからねえ」
「ひっでえ!」
 この店で唯一ヒロエさんをよく知るマスターは抱えた紙袋を俺の前に置くと毒気のない口調で猛毒を吐く。
 俺がなにしたっていんですかとぎゃあぎゃあ喚く高崎君はお客さんに預けて、袋の中身を覗き見ると中にはマフィン。四つほど入れられたそれは駅前に出来たばかりの有名店のロゴがあり、それなりに値の張るものだ。
「マスター、良いんですか?」
「先週は高崎君に代わって頑張ってくれましたから、そのお礼も兼ねてですよ」
「マスタぁ、相模だけずるいっすよ」
「君も身内だからってなにをしても許されるというわけでもないんですよ?」
 とても穏やかな声ではあったが、この店の店主であり高崎君の叔父でもあるマスターの目は本気だった。
 彼のシフトの変更に都合がつくのはこういった事情もある。
 身内への甘えというのもあるけれど、その分プライベートな部分でマスターも厳しくしているので俺としてはそれほど不満というものはないのだ。
 その事情をもしもヒロエさんが知ったのなら、おそらく高崎君の株は更なる大暴落することが目に見えて分かってはいるけれど。
「こっちこそ、呼び出してしまって悪かったね。予定が会ったんじゃないかい」
「いいえ、ついでにお遣い頼まれるくらい暇していたので」
 晩御飯の準備に間に合えばいいと、そんな気持ちで家を出てきたようなものだ。
 そういえば、何を買うんだったけとお遣い用の財布に捻じ込んだ付箋紙を見て、その直前に何を思ったのかを思い出す。
「……あ、マスター。ひとつ、我儘言ってもいいですか」
 あの思いつきを実行するために、欲しいものがいくつかある。
 目的と趣旨を説明しながら、マスターに向かって手を合わせると彼は「素敵な思いつきだ」と笑ってそれを入れてくれる。
「成功しますかね」
「要は、もてなす心ですよ」
 日本人なら誰でも持っているから。茶目っ気たっぷりに笑うマスターは「成功しますよ」と魔法の言葉をくれる。
 一体何のことかと不思議そうな目を向ける高崎君と常連さん。
 尋ねられてもナイショと誤魔化す。これは俺とマスターの楽しみなのだ。
 悪いけど、高崎君とお客さんには敢えて仲間外れになって貰おう。
コーヒーを飲み干し、手持ちの荷物を確認してから席を立つ。
「今日のお代は結構ですよ。成功したら教えてくださいね」
「りょーかいです」
 頑張ってくださいね。最後まで俺に甘いマスターの言葉に背中を押されて店を後にする。カラコロ。入店の時よりも短く感じるカウベルの音を聞いたその後は大急ぎでスーパーへ。
 いつもよりも騒がしい店内で思いついたプランが色褪せてしまわないように。
 マフィンが四つ。がさがさと音を立て走れ走れと急かしたてる。
 出掛ける直前、ちょっとだけ不機嫌だったあの表情がどう変わるのか。
 それを考えるだけで口元が緩んでしまうのを自覚して、目の前にまで迫った自動ドアへと突っ込んだ。



 
 メモの通りに買い物を終え、アパートに戻る頃には短い距離でもしっかり汗の珠が浮いていた。
 まだ学生だっていうのに、こんなところで運動不足を実感するとは思わなかった。
 呼吸を整えながら、階段をゆっくり上がっていく。
 自宅への距離が縮まる度に良い匂いがするのは気のせいではない。
 ふんわりと、食欲をそそる甘く香ばしい匂いは階段を上った先、我が家から漂ってくる。
「ただいま」
 扉を開けると、その匂いは更に強くなりジュワジュワという油が弾ける音がする。
 玄関のすぐ脇にあるヒロエさんの城では王様である彼が、中華鍋の前で仁王立ちしていた。
 レシピを調べるために近くに置かれていたノートパソコンには、滅多に索引されないような甘くて可愛らしいラッピングが施された、
「ドーナツ?」
 ヒロエさんのレパートリーにはない代物だ。
 俺が出掛けてから準備してたのであろうおやつに、昼飯を食べたはずのお腹がぐうと鳴る。
 走って帰ってきた体は、甘いものと水分をものすごく欲していた。
「おかえり」
「お遣いしてきたよ」
「おお、冷蔵庫に入れておいてくれるか」
 油から目を離せないヒロエさんの指示に従って冷蔵庫の中にレジ袋の中身を移す。
「ヒロエさん、機嫌直ったね?」
「え? ……あぁ、まあ、な」
 ヒロエさんは長男だからか、俺が年下だからか滅多に我儘を言ったりしない。常に我慢してしまう傾向にあることを、最近になって知った。
 我慢するために趣味である料理に没頭し、その結果が今の腕前に繋がっているのだ。
 美味しいご飯に在りつけるのは嬉しいのだけど、ヒロエさんが今、「我慢している」原因に自分であるということはなんだか解せない。
 その昔、俺がヒロエさんと出会ったばかりの頃、彼は自分自身のことを「心の狭くて弱い人間」と称していた。
 それが、嫉妬心からくるものだとも言っていた。
 嫌われたくないから黙っているのだ、とも。
 たぶん気まずいのであろうヒロエさんの耳が僅かに赤い。
「マヤに見透かされるとは……」
「良く見てますからね」
 好きですもの。
 そんな一言を告げると、背中を向けていたヒロエさんの耳は更に赤くなる。
「ねえねえ、ヒロエさん。ドーナツ揚がるまでどれくらいかかる?」
 あんまり突いても拗ねるだけなので、控えめに。
 早く帰ってきた目的を悟られるよりも前に設定したいことがあるのだ。
 それとなく聞いてみたは良いけれど、そう時間はないらしい。もうすぐ、用意できるぞ、とおやつタイムの突入を知らせる彼に「ちょっと待って」と請願する。
「じゃあ、先にあっち準備してくる」
「ん? じゃあ、頼むわ」
 そこまで散らかってないはずなんだけどと漏れ聞こえるヒロエさんの言葉は聞こえないフリをして、自分の部屋から滅多に使わないテーブルと椅子を二つ引っ張り出す。ベランダに並べ、即席のテーブル席を作る。花見の時にヒロエさんがやっていたことの応用だ。
 それからレポート用紙の裏に落書きをする。
 店の黒板に絵をかいたりすることもあるから得意と言えば得意だ。
 中途半端に下手くそな文字に我ながら苦笑するしかないが、今は手を休めている暇はない。
 バイト先から分けて貰った紙ナプキンを空いていた背の低い瓶に詰めてレポート用紙と一緒にテーブルの上に置く。
 玄関から二人分のサンダルをベランダの入り口に並べたらこれで準備は完了だ。
「……何やってんの?」
 濡らした布巾でテーブルを拭いていると、ばたばたと準備に取り掛かる俺を不審に思ったらしいヒロエさんが部屋の入り口から訝しげにこちらを窺っていた。
「お客さん、困ります! まだ開店前なんですから」
「……店員さん、随分と厳しいな」
 もてなす準備がまだ整っていないのだから、とヒロエさんを台所に押し込むともう一度店内をチェック。
 花のひとつでもあればもう少し華やかだったかもしれない。
でも、今から調達するには時間がない。間に合わない。
「店員さん、まだですか」
 背後から開店を待つお客さんの声もするのだから仕方がない。
 せめてバイト先の制服っぽく着替えたかったけど、そんな暇もない。
 仕方なくそのままの格好で扉を開けて軽く頭を下げ、本日の神様をお迎えする。
お客様は神様です。
「いらっしゃいませ、ようこそ我が家へ」
「それ、店の名前?」
「うん」
「センスねえぞ」
 もっといい名前はなかったのか。
 本日限定のカフェ、唯一のお客さんは少々手厳しい。
 ヒロエさんを俺がもてなす。
その目的を達成させるために用意した店なのだから文句は言わない。
 椅子に座るヒロエさんは、五分で描いた俺のメニューを引き寄せて小さく笑う。
「ご注文はお決まりですか」
「お前、メニューに自分が食いたいもん書くなよ!」
「明日の朝ご飯でもいいよ?」
 紙の左下に書いたホットケーキは、我ながらうまく描けた方だ。
 分厚く三段に重ねたケーキの上に四角いバターとメープルシロップをたっぷりと。
 ホットケーキミックスの外箱の写真そっくりなものを食べるのは、子どもの頃からのささやかな夢だ。
 俺一人だと絶対に焦してしまうそれも、ヒロエさんならきっと上手くつくってくれる。
 この人なら、フライ返しも使わずにひっくり返すことだって出来るはずだ。
「美味しいコーヒー淹れてくれたら考えなくもないかな」
「ご注文は以上でよろしいですか」
「あと、お前も同席するんだろ」
「それは勿論」
「じゃあ、マヤの食べたいものも」
「かしこまりました」
 仰々しく礼をして一度下がると今度はキッチンへ。
 ヤカンを火にかけている間に調理台の上に放置されていたドーナツともらい物のマフィンを大皿に並べる。
 出来るだけきれいに山を崩さないようにするも、揚げたてのドーナツの匂いに口の中には既に唾液が溜る。
 生唾、ごくり。
「マヤ、摘み食いしたら今日の味噌汁は茗荷な」
 そんな俺の様子をみていたようなタイミングで声が掛かり、思わず肩が揺れる。
「そんなことしてないよ!」
「一緒に食べるんなら早くおいで」
 ベランダからキッチンまで真っ直ぐに通る風がヒロエさんの声を届ける。
 その声音から窺える機嫌は上々。どうやら俺のおもてなしは悪くない御様子。
 インスタントだけど、ヒロエさん好みのコーヒーを丁寧にいれてマグカップを濃い色で満たす。
 俺用のグラスにはオレンジジュース。
 二つの飲み物と大皿をお盆に乗せて、給仕の支度はこれで万全。
 店でのトレンチと同じ要領で左手に乗せ、ちょっとだけ気取ってヒロエさんのもとへと戻るとベランダには新たなお客さんがいた。

 ニャア

 赤い首輪をした黒猫が一匹、ヒロエさんの足元に鼻を擦りつけていた。
「……まさか。人外がくるとは思いませんでした」
「繁盛してていいんじゃないか」
「良くないよ」
 ここはヒロエ専用店なんだから。
 そう漏らした言葉は自分でも驚くほど拗ねた子どものような口調だった。
「まあ、そう言わずに水だけでも出してやればいいだろ」
「……そうする」
 渋々納得すると、一匹のお客さんのための深皿を取りにキッチンへと戻った。



 本日のおやつタイムは格別使用。ヒロエさんが揚げたドーナツと駅前有名店のマフィンをコーヒー乃至オレンジジュースで頂きます。特別ゲストの黒猫さんにはお水にておもてなし。
 しがないアパートのベランダにあつらえた小さな店ですが気に入って頂ければ本望です。
ヒロエさんの隣に腰を下ろして、俺もドーナツを一口。
 揚げたてであったかいドーナツはふかふかで、噛みしめるごとに砂糖と卵とバターの香りが胸の内側をくすぐる。
「どう、美味い?」
 俺の描いたメニューを見ながら尋ねてくるヒロエさん。
 お菓子作りは得意じゃない。
本人はそう言うけれど、今日の出来栄えはそんなことを微塵にも感じさせない。
 だから、俺は正直に伝える。
「幸せ!」
 思ったことをそのまんま。
 とても短い言葉だったけど、ヒロエさんにとっては満足のいく返事だったらしい。
 砂糖よりもずっとずっと甘い笑顔が返された。
「ねえねえ、俺のお店はどうだった?」
「到底、男子大学生がやることとは思えないんだけどなあ」
 最高、とかそういう評価を望んでいたわけではないけど、それの予想を遥かに上回る現実的な意見。甘い笑顔のまま、結構シビアな意見に少々落ち込まなくもないが、ヒロエさんのそんな所も嫌いじゃない。
「まあ、癒されはしてけどな」
 隣から伸びてきた大人の男の人の手が、後頭部をくしゃくしゃと撫でていく。
「……お代はこれで結構です」
「随分と安上がりな店だな」
「俺が損しないから良いんです」
 この店の原動力は俺からヒロエさんへの気持ちですから。
 我ながら、なんて歯の浮くような台詞なんだ。
 恥ずかしさに机に額を押し付けていると、頭上で笑い声が降ってきた。
「あ〜……、ホント、お前、なんなの」
 笑い声混じりに吐き出されたヒロエさんの言葉は、口に含んだドーナツよりもでろでろに甘い。
 その甘さに当てられたように、水を舐めていた黒猫も彼の表所を見上げてニャア、と鳴いた。

 日差しの高い午後三時。
 卵とバターと、おひさまの匂いに包まれた即席デートは、世界で一番あまやかな場所だった。

 お粗末さまでした:)

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