粉砂糖の天国
扉一枚隔てた向こう側で、今日も食材たちの変身する音がする。
とんとん、ザクザク。カシャカシャ。じゅわじゅわ。
たくさんの素材を活かす音にどこか幸せな思いを感じながら、来るテストに向けてノートと教材、講義中に渡ったレジュメとを行ったり来たり。
今日の晩御飯はなんだろう、という欲に思考が移りかけるのを何とか修正する。
「げ」
重要な事例の一文に、赤線を引くまさにその時、向こうの部屋から嫌そうな声。
それにつられて、まっすぐに引いたはずの線がぐにゃりと曲がった。
失敗でもしたのだろうか。
ガタゴトと立てつけの悪い扉を押しあける。冬に染まりつつある空気が、足元を冷やした。
扉の向こう側では、粉類が入った瓶を蛍光灯に翳すヒロエさんの姿だった。
手のひらサイズの樽の形をしたガラス瓶。俺がこの家に転がり込むと決めた時に、飴玉を突っ込んで持ち込んだものだ。ほんのお礼のつもりだったのだが、物持ちの良いヒロエさんはそれを大事にとっておいてくれている。
その中身こそなくなったものの、今は砂糖入れとして使われているそれを、忌々しそうに見つめる横顔。
「……どうかしたの?」
「あ、いや。なんでもない」
気不味げに笑ったヒロエさんは、その中身をゴミ箱の中へ。地域指定の袋の中でその粒子がザラリと音を立てた。
「めずらしいね、ヒロエさんが物を捨てるなんて」
「ん〜、ちょっと嫌なもん見ちまった」
ありえねえ、と呟かれた悪態はきっと瓶の中の砂糖に対してのことだったのだろう。
なにがそんなに「ありえない」ことだったのか。
腕まくりをして覗いた肌には鳥肌が立っていた。
「……ああ、なんか苦手なものがいたの?」
俺よりも少し高い位置にある方が小さく跳ねて、包丁を持つ手がほんの一瞬止まる。
きっと、図星だ。
肩越しに此方を窺うその表情がなんだか気不味けで、少し楽しい気分になってしまう。
しかし、次の言葉で絶望するのは俺の方だった。
「マヤ、今日のデザートは無しの方向で」
「え、なんで!?」
テスト前の景気付けとしてお願いしていた焼きプリン。
それがなしになってしまうのだ。それはいただけない。
「砂糖ねーもんよ」
「え、買い置きあるんじゃないの?」
「あれで最後」
「どうして使わないのさ!」
「使うのか、アレ……」
しかしよっぽど気を削がれたのか歯切れが悪い。
水にぬれてしっとりとした指先が指すのは、先ほどのゴミ箱。
食品を覆っていたラップやトレイなどが無造作に突っ込まれたその先で、小さな粉末が見える。小さな小さな有機物。その中に、いったい何が入っていたというのか。
「なんか入ってたの?」
「思い出させるなよ。プリン、食いたけりゃ買ってこい」
「砂糖を?」
「プリンを」
「え〜」
俺、勉強しなきゃいけないのにと漏らすと「集中力が切れた時は気分転換が良い」と返ってくる。
あくまで俺は「ヒロエさんが作るプリン」が食いたいのであって、味の分りきっている市販品にはあまり興味がない。
一体あの瓶の中には何が入っているのか。
ヒロエさんの弱点を探るなんてこと、滅多にできない。そこを掘り下げようとしても、なかなか彼は頑なで、あれよあれよという間に共用の財布を押し付けられ玄関から放り出されてしまった。
「ついでにソースも買ってきて」
調理台の上の、プリンになる筈だった溶き卵が悲しそうに揺らめいているように見えた。
いったい彼が何に生まれ変わるのだろう。
ヒロエさんの中では新しい計算式が生まれているようで、そのことに期待しながら気乗りしない市販品を買いに近所のスーパーへと足を向けた。
木枯らし吹く道は、寒い。たき火をするような家は、今のご時世どこにもなかった。
本日の晩御飯は、突然のメニューの変更のせいでいつもより少し遅い時間となった。
それでもおかずが逸品増えたことは、俺にとってはうれしいこと。
豚の生姜焼きに、トマトスライス、青梗菜とちくわのからし和えに、わかめスープ。
プリンになる筈だった卵のコロッケ。
世の女子が聞いたら卒倒しそうなカロリーの高さだけど、そこは食べ盛り。気になんてしない。
クリームソースに卵を混ぜた、とろとろのコロッケはやさしくて甘い。
濃いめの味付けの生姜焼きも、あまり好んで食べないトマトもヒロエさんとなら美味しく食べられる。
「ねえ、なんで砂糖捨てたのさ」
しかし気になるのは、先程の行動。さっきははぐらかされてしまったけど、改めて尋ねるとやっぱりヒロエさんは渋い顔をして「堤を壊した犯人がな」と告げた。
おそらく、ヒロエさんによる最大のヒントだったのだろうけど、俺が彼の弱点を知るのはずっと後になってからのことだった。