食卓のロミオ

 アパートの薄い壁は、隣の部屋の住人の声を殆ど遮ることなく透かして聞かせる。
 何かが割れる音と、怒鳴り声。悲鳴と鳴き声。
 それが聞こえるとヒロエさんは盛大な舌打ちをして部屋を出ていく。
 例えそれが深夜帯であろうとも、彼は甲斐甲斐しく隣人のトラブルを解決しにいくのだ。
 なんでも、隣人とそのまた隣人が口論になりあわや刃傷沙汰になるまでに発展したのだという。
 そんな危険人物の隣に住み続けるヒロエさんも大概大物だが、それで尚、引っ越す気にならない隣人たちも相当の変わり者だ。
 ヒロエさんが言うには獰猛な動物がじゃれあっているだけ、とは言うけれど壁一枚隔てても、その向こう側には恐怖しか見えない。
 一人残されて食べる夕飯は、なんだか味気ない。
 鶏の砂肝の唐揚げも、ほうれん草とカニかまのマヨネーズ和えも、里芋の煮っ転がしも、味噌汁だって味気なく感じる。
 今日はいつもと違う出汁を使っているみたいだから、それを話題になにか教えてもらおうと思っていたのに、残念だ。
 ヒロエさんが帰ってくるのを待てばいいだけの話なんだけど、その間にご飯が覚めてしまうのはなんだかもったいない。
 バイト終わりの俺に合わせて作ってくれたご飯だ。
 それも、出来立てのおかずに炊きたてのご飯。
 自分のためでもあるけど、俺のためでもあるご飯を残すわけにはいかない。
 千切りされたレタスとおろしだれの布団に挟まった唐揚げを、いつもよりも多く咀嚼する。
 サリサリという歯触りと、甘辛い味付けが好き。
 ちょっとしょっぱい味噌汁もおいしい。ふわりと香る匂いは、顆粒ではなくてちゃんと煮干しからとった出汁だ。
 早く感想が言いたいんだけど、まだかな。まだかな。
 そうこうしているうちに時計の長針は半周していて、お盆の中の食器の中身はすっかり空になってしまった。
 ただ、何もせずたいして興味のわかないテレビを見続けていても仕方がない。
 リモコンから電源を切って、食べ終えた食器を片づけようと盆を持ち上げたとほぼ同時に、待ちわびていた音はやってきた。ドン、と怒りを含んだ荒々しく扉を開ける音。
「信じらんねえ! 参観日前だって言ったのに、あいつら顔殴りやがった!」
 口の端に血が滲み、頬が僅かに腫れている。セットしていた髪はぐちゃぐちゃ、服はぼろぼろ、どう見ても「喧嘩してきました」というのを如実に表していた。
「おかえり、でも男前だよ」
「それはいつものことだろう。あー、くそ、まだ腹立つ」
「やられっぱなしだなんて、珍しいね」
「いや、倍で返してきてやった」
 暴力じゃなにも解決しない、と言って出て行ったくせに結局暴力で解決してきたらしい。
 お隣は四十過ぎのおっさんで、その隣は同棲をし始めたカップルだったはずだ。歳は彼女の方が俺と同じくらいで、彼氏はヒロエさんよりも年上だと言っていた。
 そんな彼らに拳骨を食らわせ堂々と説教するのだから、彼らも堪らないだろう。
「そもそも、なんでそんなに他人の厄介ごとに首を突っ込むのさ」
「いや、知り合いの坊さんが言ってたんだよ」
 また、だ。
 ヒロエさんの幼少期の半分は「近所の寺の坊さん」で占められている。
 どんな教えを受けたのか、その人は寺の住職が口にするとは思えないようなことをヒロエ少年に教えていたらしい。
「己を愛するように己が隣人を愛しなさい、ってな」
「……ねえ、その人は本当に住職さんなの?」
 俺でも知っている。
 それって、宗教違いだ。
「まあ、俺もその元ネタを知った時にはさすがに驚いたけどな」
 酒も女も好きだというのだから、生臭坊主もいいところだ。
 時代が時代なら、破戒僧もいいところだ。
 それでも、その言葉をヒロエさんは自分なりに解釈をしているようで、どうやらそれを人付き合いの糧としているようだ。
「まあ、別にその意味を正しくとった訳じゃないけどな。自分が平和に暮らすためには、多少人とかかわって生きていかなくちゃなんないわけよ。お前も騒音の中で飯なんか食いたくないだろ」
 隣で、少しでも顔を突き合わせたことのある人たちが言い争っている中で食べる食事は確かに居心地が悪い。
「でも、自分だけ残されて食べるってのも、あんまり居心地良くはないかな」
 正直に言うと、置いてきぼりにされて拗ねている分、今日はまともにヒロエさんの言葉を拾えそうにない。
「隣人の前に、俺を愛してくださいよ」
「愛しているじゃあないですか」
 知っていますけどね。
 なんだかんだで俺の好物が必ず一品用意されていることも、一番風呂を譲ってくれるところも、見えないところで庇ってくれているところも、おそらく愛がなせるわざだ。
 改めて認識すると尻がむず痒くなってくる。
「よし、じゃあ、こうすっか」
 お米代わりのビールを煽り、腕を組んで唸る。やがて弾き出された結論は、
「次、やつらの諍いが始まったらお前も参加しろ」
 俺を蚊帳の中へと引っ張り込む、というものだった。
「え、引っ越そうって気にはならない?」
「ならねえよ、こんな家賃安いとこなかなかないんだぞ?」
「……まあ、いいか」
 その分美味しいご飯が食べれるなら。
 すっかり冷めてしまったヒロエさんの分の食器をいくつか持ち上げて、電子レンジのもとへ連れて行く。
 出来立ての暖かさではないけれど、冷たいものを口に運ぶよりずっといいはずだ。
 ラップを掛けレンジの中へ入れるその直前に、唐揚げを一つ盗み食う。
「おいこら、マヤ」
「……見た?」
「見てた」
 指についたおろしだれを舐めとりながら、笑って誤魔化すと切れている筈の口の端を無理に吊り上げて笑う男が告げる。
「あとで、倍返しな」
 食べ物の恨みは恐ろしい。
 彼の復讐のカウントダウンの始まりとばかりに、温め終わったレンジが鳴いた。


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