イエネコ ドコノコ

 ガン、と大きな音がして安アパートの玄関が大きく開いた。
 今日も変わらず気難しそうな顔をした恋人が返ってきたんだろう。作業する手を止めずに「おかえり」とだけ声を変えると、「マヤ、タオル持って来い」とぶっきらぼうな声が届いた。
「え〜、今餃子包んでるんだけど」
 やっておけって言ったの、ヒロエさんじゃん、と文句を言うと「良いから早く」と催促がかかる。
 手を洗って、風呂場から選択したばかりのタオルを手に玄関へと向かうと白い毛玉と目があった。
 ふわふわの真っ白い毛玉。首には青い革製のベルト。
 薄く開いた目はラムネの瓶みたいに薄く透き通った青。
「……ネコ」
 動物なんて蹴散らしてそうな男の腕の中に、弱りきった一匹の、ネコ。
 夕方のニュース番組を見ながら、頼まれていた餃子の餡を皮に包む作業をしている間に訪れた、突然の出来事に唖然とする。
 ヒロエさんとネコ。なんて不似合いな光景なんだろう。
「……このアパート、ペット禁止」
「そこは少し黙っててくれよ」
 ようやく出てきた言葉は、案外現実的なものだった。
 脇に抱えていた鞄を足元に落とし、俺の手からタオルをひったくっる。
 その白猫は、随分と調子が悪いらしい。
 呼吸はゆっくりで、伏し目がちだ。
「なあ、マヤ」
「なに?」
「どうすりゃ良いと思う?」
 いつもなら自信満々に返す男の、困惑交じりの声に思わず噴きだしてしまった。
 

『イエネコ どこの子』


 ネコの首輪に記されていた連絡先に覚えがあった。
 大学の、同じ講義を取っている男だった。
 電話越しでは随分と淡々とした声ではあったが、わざわざ迎えに来たところをみるとちゃんと心配していたようだ。数日前から行方をくらましていたというそのネコは、喧嘩でもしたのか大怪我を負っていた。
 おそらくこの憔悴しきった様子は、その怪我からくるものだったのだろう。
 このまま病院に行く、というトオヤマ君に「送ってやろうか」とヒロエさんの申し出は、階下からのバイクのけたたましい排気音によって遮られた。どうやら連れはちゃんといるらしい。
 お手本にするに相応しいほど、きれいなお辞儀をして見せたトオヤマ君は、そのまま急ぎ足でアパートを後にした。
「……なんていうか、見た目に反して礼儀正しそうな子だな」
「ヒロエさんも人のこと言えないと思うけど」
「ギャップがあっていいだろ」
 いつも通りの口調で、スーツを脱ぎハンガーに掛けながらソファに腰かけ脱力する。あのネコと一緒に緊張も抱えていたらしい。
 いつもと少し違う様子がなんだかおもしろくて、餃子を包む作業を再開しながらその様子を観察する。もちろん、手は丁寧に洗った。
 スラックスやシャツにネコの細い毛がついている。
「あのネコ、どこで拾ったの?」
「あー、あれ? 職場のゴミ捨て場の近く。ガキ共が、先生助けてあげて、っていうもんだから仕方なくだな」
「なるほど、先生も大変だね」
「ホント、そうだよ」
 担任する生徒たちの手前「任せろ」と大見得きったは良いものの、金魚以外の動物を飼ったことがなかったヒロエさんはどう対処していいかわからなかったのだという。
「お前、動物好きだっていうから先にこっちに帰ってきたけど。一人じゃ完璧テンパってた」
 あー、今日の俺ホントかっこ悪ぃ、と両手で顔を覆って嘆く。
 自分に対してそう評価するヒロエさんはとても貴重で、彼の助けになれたことが嬉しくて暖かい気持ちになった。
 やがて、自分の中で反省会を済ませたらしく、俺の頭の顎を乗せ餃子を包む一連の動作を見守っていた彼が、おもむろに口を開く。
「……お前、包むの上手になったな」
「ヒロエさんの指導の賜物じゃないの」
「お前、俺を持ち上げるの上手だな」
 元気になったらご飯作って、と返すと「生意気」って言葉が降ってきて大きな手がわしゃわしゃと頭をきまわす。
 その横顔は、いつものように自信満々だ。


「よく、ネコは死に場所を選ぶっていうけど、あれって嘘なんだってな」
「うん、本当は逆なんだってね」
「まあ、調子悪くなったら落ち着ける場所で静かにしてるのが一番だよな。本能に従って、うっかり死んじまったらそれはそれ」
 どうやらあのネコも、体力の回復を図りたくて小学校の裏に逃げ込んだらしい。
 たしかに、小学校のゴミ捨て場っていうのは敷地の端にあることが多い。子どもたちの目につくことも少ないだろう。
「子どもたちもよく見つけたよね」
「なんでも焼却炉の中がどうなってるのか知りたかったって話だ。正直、ネコの生き死に云々よりもそいつらの好奇心に俺は度肝を抜かれたがな」
 下手したら火傷じゃすまされねえっての、とため息交じりに告げるヒロエさんの横顔が、少しだけ先生のそれになる。
 本来、動物は火というものを怖がるのだが、彼らの本能は好奇心に打ち負けてしまっていたらしい。
「まあ、火って便利だからね」
「ん? ああ、食べ物をおいしくしてくれるしな」
「……ヒロエさんって、案外本能でできているよね」
 どんなに機嫌が悪くても、調子を崩しても三大欲求を満たせばけろりと元気になってしまう。
 特に「食」に関してはすさまじい執着だと思う。
 料理が趣味だというのも食欲を満たすのに基づいてのこと。
 最初に料理を始めたのはいつからかはわからないが、手際よく料理をする男はいつしか恐れるべき火を手懐けてしまった。そのおかげで俺はおいしい晩御飯を食べることができるのだから、どちらにも感謝しなければならない。
 ネクタイを外して、シャツのボタンを二つほど外し、肘の上まで腕まくり。
 仕事帰りそのままの格好で調理台の前に立つヒロエさんの後姿はとてもかっこいい。
 いつも通りの彼になんだかこちらも嬉しくなる。
「マヤ、餃子終わった?」
「うん、できた」
「ん。ご苦労」
 油を引いたフライパンが、もくもくと白い糸をたなびかせる。
 大皿ごと受け取った餃子を手際良く敷き詰め、片栗粉を流し込む。
 じゅわあ、と水分が蒸発する音は蓋をされ、その中で肉汁が染み出る美味しい音が食欲を刺激する。
「お腹すいた」
「こら、つまみ食いすんな」
 すでにボウルの中で盛り付けられるのを待っていた胡麻和えを味見すると、膝裏に蹴りを入れられた。
「ケチ」
 つぶやくと、今度は尻を攻撃された。ひどい!


 ヒロエさんの意外な一面を見られた今日の晩御飯も、いつも通りの一汁三菜。
 ツナ餃子にほうれん草ともやしの胡麻和えに素麺サラダ、ニラとジャガイモ、き玉のスープだ。
「う〜ん、あのネコちゃん、家に帰して正解だったね」
「なんで」
「ネコってネギだめじゃん。ニラとかも」
「あ、そうだっけ」
 本当に、イヌネコに関する知識に関心がなかったのか、意外な反応にこっちも驚く。
「まあ、うちのネコはなんでも食べてくれるからうれしいよな」
 汁椀を口に運びながらそんなことを言うヒロエさんの言葉の意味がイマイチ分からず、それがある種の下ネタであることに気付いたのは三つ目の餃子を食べた時だった。


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