血液サイクル

 排水溝の中へ、薄い紅色が流れていく。
 美味しい夕食の代償は、お金と手間の掛かる調理の過程。
 その手順が複雑であればあるほど美味しくなるとはいうものの、食べる専門からしてみればどうだっていい。
 ただ、一緒に食べたいと思って買ってきた食材を前に、顔を輝かせる彼の横顔が嬉しいと、そんなことを思うだけだ。



 料理人顔負けの腕を持つ恋人がいるというのは良いものだ。
 人生の喜びの半分は食にある、と言ったのは誰だったであろう。毎日の食卓を前にする度に、そんなことを思う。
 つやつやの白米に味噌汁。一汁三菜にお漬物、と今時でも珍しいくらいの品数の多さにいつも感心する。
 美味しく作るためには手間を惜しまず、時間も有効に使ってくれる。
 テーブルを囲むその食事はいつだって楽しいし、幸せの一時だ。
 だから、バイト帰りや休みの日には、こうして美味しい食材を探す手間を惜しまないつもりでいた。
 新鮮さを売りにする魚市場で買った魚は、少々値は張ったがこれから数日美味しいものが食べれると思えば安いものだ。
 どん、と調理台の上にのったなんの手も施されていない大物に、困り顔の彼に、帰りがけに思いついたメニューを口頭で押しつける。すると眉間の感覚は更に狭まり「全部作るのに三日は掛かるかな」と笑う。
 鮮やかな手つきで一匹だった魚は、頭と骨と切り身に分けられた。
 今夜の夕飯は鮭のホイル焼き。それに使用しない部分はすべて冷凍庫へ。
「うわ、血生臭い!」
 市場での謳い文句通りに、新鮮だったその証を残す調理器具を洗いながら、自分の手に染みついた臭いを嗅ぎながら彼は笑う。
 嗅ぐ? と言いながら鼻先に突きつけられた指先からは、レモンの匂いとは別に魚臭いが漂う。
「洗えば取れるでしょ」
「まあね。でも洗って取れるようなもんじゃないけどね」
「……どう言う意味?」
「わかってないなあ、少年。それでもちゃんと食育を受けてきたのかね、君は」
 そう歳など変わらない癖に。自分の方が少年のような見た目をしているくせに、と既に成人している男を睨む。
 濡れた手を布巾で拭った彼に腕を取られ狭い室内を移動する。
 水に濡れたそれが、むき出しの肌に馴染む。ひんやりとした感覚が、どこか心地良い。
 やってきたのは、冷蔵庫。
「さて、質問。ここには何の動物が入っているのでしょう」
 背後に立ち、肩を掴まれ問われる。
 その内容は、小学校の時分流行ったなぞなぞと一緒だ。
「……ゾウ、だっけ?」
「正解! さすがだねえ」
「馬鹿にしてんの?」
「いやいや、さすがにそこは分かってくれないと。じゃあ、ここには何匹分の動物が入っていると思う?」
 後ろから響く声が、少しだけ意地悪い意味合いを含んで鼓膜を揺する。
 昨日の夕飯はハンバーグだったす、その前はさんまの塩焼き。その前は何だっただろう。
 お弁当用に残していると聞いてはいるから、その二匹は確実にいるだろう。
「三匹、まではわかる」
「まあ、そんくらいはいるかなあ。そいつらにも赤い血が流れてたわけだよ」
 綺麗に切りそろえられた爪が、にゅっと目の前に伸びてくる。
「お前が好きなこの手も、子どもたちが大好きなお母さんの手も、みんな血で真っ赤なわけよ」
 だから、いつだって血生臭いのこの手は、と背後で笑う。
 それを食べる自分の口は、きっとそれ以上に血まみれなのだろう。
 だからといって、今すぐ菜食主義者になるほどにも感じない。なにより、好きな人の手料理を残すなんてこと、なにがあっても許されない。
「俺の近所のお坊さんはよく言っていたよ。命を、いただきますって」
「なんか、聖職者みたいなこと言うね」
「聖職者だもんよ」
 自分のためなら酒しか作ることをしない手が、自分のために血にまみれているのだ。
 なんとも言えない気分に、その手を挟んで合唱する。
「何してるの、お前?」
「美味しい料理をいつもありがとう、って」
 その手に感謝しているのだ、と告げると「変な奴だ」と喉奥で笑いを堪える音がした。

 午後六時二十分。
 テレビじゃ凄惨なニュースを放送していても、今日も夕飯の時間は訪れる。
 今日は鮭のホイル焼き。おひたしとかぼちゃの煮つけ。わかめの味噌汁。つやつやのご飯は新米だ。
 口の中は既に唾液でいっぱい。
 両手を合わせて告げる言葉に、我が家の料理人は今日も笑顔。
「いただきます」
 さあ、血となれ、骨となれ。
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