一番の位置

僕の世界は、いつでも誰かと二人きりです。
僕と、誰か。一人とひとり。
独りぼっちは怖いけど、僕を理解してくれる誰かが一人いればいい。沢山はいらない。
一人でいい。一人が良い。その一人と二人でいたい。
僕がまだ胎児の頃、一緒に居てくれた母さんは僕の他人との関わり方を「不器用ね」と笑った。
とてもとても大切で大好きな母だけど、否定された言葉にショックを受けた。
僕の「一番」が、「どうでもいいその他」に変わった瞬間だった。

母さんが、僕の最初の「一人」でした。

次の「一番」は、小学校三年生の時にお隣に引っ越してきたキヨ君でした。
春休みに大きなトラックと一緒にやってきたキヨ君は、一つ年上のお兄さんでした。

「ねぇ、名前、なんて言うの?俺、この町に来てきみが初めての友だちなんだ」
「いち…」
「イチって言うの?ねぇ、公園おしえて。サッカーしようよ」

「一番にしてくれる?」と尋ねるつもりだったのに。一番にしてくれたら教えるよ、と続ける予定だったのに、僕の言葉を最後まで聞いてくれなかったキヨ君は、僕を引っ越してからの「友だち一号」にしてくれました。
それまで母が全てで、友だちが全くいなかった僕には、本当の意味での「友だち一号」でした。
キヨ君は暫く僕のことを「イチ」と呼びました。しばらくして、僕が八津井千鶴という名前だと気付いたそうですが、それ以降も「イチ」と呼んでいました。
キヨ君はスポーツが好きで、色んな運動を教えてくれました。
サッカーも、バスケットも、キャッチボールも何でも一緒にやりました。
会話のキャッチボールはキヨ君としかしませんでした。(僕は今、上手いこと言えたんじゃないかと思います)
キヨ君が僕と一緒の小学校に通うようになると、僕の他にもたくさんのお友だちが出来ました。
キヨ君が、他の人一緒にいるのは嫌でした。でも、「○○君と遊ばないで」なんて意地悪はしませんでした。
その代わり、僕と遊ぶときはお家で二人で遊ぼうねと約束しました。
僕と一緒に遊んでいると他の友だちとも遊びたいなぁ、とキヨ君は不満を言いましたが、それでも笑って遊んでくれるキヨ君は優しいなと思いました。

キヨ君が僕の「一番」だったのは、僕が中学校一年生になるまで続きました。今にして思えば、長い付き合いだったと思います。
キヨ君が「一番」じゃなくなったのは、もうすぐ夏という頃のことです。
陸上部に入った僕は、サッカー部のキヨ君の練習が終わるのをいつも待っていました。
陸上部と言っても、同じ練習を一斉にやるだけなので一人と代わりません。特別大会で成績を残したい、と青春したがる部員は少なかったので早くメニューを終わらせた分、早く帰れます。楽です。
調度、後片付けが終わって部室に入っていくキヨ君の背中が見えたので、こっそり入って脅かそうと思いました。
そろそろと、後をつけていくと部室には他の部員もいました。
部活の後片付けは何人かでやるものなのか、と僕はこの時、初めての理解しました。
他の部員と一緒にいるキヨ君は、ちょっと悪ぶった口調で色々話をしていました。そのうちの一つに、僕についての話題がありました。

「そういや、お前の幼馴染み、名前何ていったっけ?」
「あぁ、千鶴?八津井千鶴だろ」
「そうそう。八津井。なぁ、アイツって笑うの?いっつも同じ顔でさ、なんかあんの?」
「さぁな。でも正直、俺も何考えてるか分かんねぇな。てか、今サッカー以外にあんまりキョーミねぇし」

少しだけ気取った喋り方をするキヨ君に、僕の気持ちがサァっと引いていくのが分かりました。引き潮の如く、ぐいぐい下がって行きました。
その瞬間が、キヨ君が「一番」ではなくなった瞬間でした。
その後、キヨ君とは顔を会わせないようにしました。それまで一緒だった登下校もやめました。
どうでもいい人とは関わらない。それが、僕の生き方でしたから。
でも、さすがに中学生にもなって口もきかないというのは子供じみていたので、廊下で擦れ違ったら挨拶や日常的な会話くらいはしました。
急に変わった僕の態度に最初のうちはキヨ君も顔を顰めたりしましたが、元々僕への関心が薄かったのもあり、次第に関わらなくなりました。

久々に、僕は独りになりました。

クラスではもともと独りだったので、これといって困ることもありませんでした。部活も個人競技なので今更です。
ただ、色のない世界は少しだけつまらなく感じました。

僕の世界に誰かが介入して、彩りを取り戻したのはそれから半年後のことです。
キヨくんは「親友」や「幼馴染み」といったポジションでしたが、今度の「一番」は、「カノジョ」と世間では位置付けるものでした。
ジュンコ、という音だけは覚えています。どんな字を充てるのかは、知りません。
地味だけど笑顔が可愛らしくて、クラス委員長の仕事を頑張る子でした。
僕が副委員長だったので、よく彼女の仕事を手伝っていました。思えば、春のうちから彼女とは仲が良かったのかもしれません。
他人とはあまり言葉を交わさなかった僕も、彼女とだけは一言二言会話を続けた記憶があります。
彼女との関わりはキヨ君と比べればとても薄いものでしたが、彼女からの好意はとても心地好いものでした。
きっと彼女なら、ずっと僕の一番でいてくれると感じた僕は、二つ返事で彼女と交際することにしました。
経験して初めて、恋愛というのはふわふわと、甘くて軽い不思議な感覚であることを知りました。タンポポの綿毛よりもふわふわで、羊よりも柔らかで、カラメルよりも甘い甘い日々でした。
しかしそんな甘い関係も、そう長くは続きませんでした。三か月程経った頃、もうすぐ二年に進級するという頃に別れは切り出されました。どうにも、僕の愛し方がいけなかったようです。ジュンコさんのためなら僕は幾らでも変われる覚悟でいたのですが、どうやらそれがいけなかったようです。彼女は、「八津井君のことがよくわからなくなったの」と言って距離を置いて欲しいという旨を一方的に告げました。勿論僕は引きとめました。僕には彼女しかいないからです。
しかし、何度引き留めてもジュンコさんの気持ちは僕へと戻ってくることはありませんでした。彼女の心は、もう別の誰かの「一番」だったのです。
僕の一番はなかなか揺るがないのですが、人の心はとても移ろいやすいものなのだと、僕はこの時ようやく実感したのです。
母さんと、キヨ君と、ジュンコさん。三人の「一番」と関わって学んだことはたくさんありました。この生き方では、損するだけだということも十分分かっているつもりです。けれども僕は、同時に複数の人間を愛することはできません。やはり「一番」は一人だけなのです。「たった一人の一番」になりたいのです。

幸いなことに亡き父に似ていた僕は、女性にウケの良い顔立ちをしていました。(僕の母さんは父の顔が好きだったと言っていました。重度のメンクイでアイドルオタが言うのですから、よっぽどのことでしょう)
そのおかげか、僕の顔を理由に一番になりたがる人は少なくありませんでした。たとえ顔だけしか価値がなくても、近くで見ていると案外新しい発見があるものです。それに期待して僕の一番を、恋人となることを求める彼女らと付き合いのですが、やはり三カ月と持たぬうちに心は離れて行ってしまいます。
ジュンコさんのように「貴方の考えていることがよくわからない」という人もいれば、「愛が重い」とか、「うざい」とか「キモい」「怖い」などと沢山の理由で切り捨てられました。その度に僕も、一番だった彼女らも心を痛めます。心を痛めながら、沢山の涙を流しながらも僕は、いつか現れるだろう「一番のひと」を待ち望むのです。
そうやってまた、別の人を一番にする。そういった期待と落胆の日々は二年間続きました。



誰かを一番にすると、「恋」をすると、僕は他の事が疎かになってしまう傾向があります。恋は不治の病なのです。
そのため、僕の中学時代の成績は散々なものでした。行ける高校すら限られ、与えられた選択肢は地元でもバカ校と名高い公立高校のみでした。
バカと不良の巣窟で、僕が前者なのは言うまでもなく、僕と同じ程度の学力しか持たないクラスメイトに僕の他人との関わり方は本当に理解しがたいもののようでした。残念で仕方がありません。
事実と虚構が入り交じった噂が流れたのは高校入学とほぼ同時期です。
僕の「一番」へのこだわりを理解できない誰かが噂を流したのかもしれません。
「八津井千鶴はナルシストのホモ」
そんな噂が一人歩きした結果、僕は中学の頃よりも浮ついた存在となりました。
噂がどこから出たのかは定かではありませんが、他人が僕をどう思おうと僕には関係のないことです。噂は否定も肯定もせずそのままにしておきました。すると、入学して少し暫く経った頃、その噂に釣られるかのように一人の男子生徒から呼び出しを受けました。
桜も散って、新緑に溢れる木々の合間、体育館裏で、告白されました。
男同士の恋愛なんて、分かりません。キヨ君以来、僕の一番に男性が立ったことはなかったので、同じ年頃の男友達はどんな会話をするのかも分かりません。

「俺、さ。ずっと前から噂とか聞いて、八津井君のこと気に、なってて…」

僕には男色の気はありません。彼の告白に対する答は初めから決まっていました。
けれど、僕よりもある上背を丸めて声を震わせて想いを伝える彼の姿にキュンとしたのは事実です。
なので、「恋人とまではいかなくても僕の一番になってくれる?」とお願いしました。僕には「一番」しかないことを告げると、松木謙久と名乗った彼はとびきりの笑顔で頷きました。また、胸がキュンとしたのを覚えています。
その日から謙久との「一番」の日々が始まりました。彼は僕の執着とも思える他者との関わり方を理解し、受け入れてくれたのです。
それだけでなく、僕の思考や思想にも興味を持ってくれましたし、受け入れるだけでなく意見をしたり、誤った見方をしていればやんわりと別の意見を取り入れたりと大人な対応を見せてくれました。
彼は僕より一つ上でしたが、実年齢よりもずっとずっと大人びて見えました。
普段は紳士である謙久も、思春期の青少年で時には肉の関係を求めることもありました。
正直、自分のテクにもアナルにも自信がなかった僕は及び腰でしたが、彼が求めるので少しは無理をしました。

「…まぁ、先っぽ程度なら、」
「千鶴、それは生殺しというやつだよ。それならまだペッティングの方がマシだよ」
「そうかな?」
「そうだよ」

どっちが入れるとか入れないとか。互いの条件を出し合い話し合った結果、四回に一回くらいのペースで挿入、後は手や口を有効に使ったお触りで手を打つことにしました。
これまでにも身体を重ねるような経験はありましたが、男を相手にするのは僕も謙久も初めてでした。
お互いの好いところを模索したり、他愛なく話すことすら楽しく思えました。
いつしか僕らの関係は、恋人のそれに近いものとなりました。
喧嘩もしました、意見のぶつかり合いの延長で殴り合いにまで発展しました。
それまでの僕ならば、この後、必ずと言っていいほど相手の心は離れて別れ話へと発展しました。ところが、謙久とはそれからも一緒にいました。
仲直り、というものをこの歳になって初めてしました。これまでの僕は、嫌われることを恐れてまるで犬のように相手の言うことを聞いていたので。それは、とても貴重な体験に思えて、とても幸せなことのように感じました。

謙久は、サッカー部に所属していて彼が部活の日は校庭の隅っこでしゃがみながら汗を流す世界で一番の存在を愛でます。
部活が終わったら他愛ない会話をしたり寄り道をしながら帰る、というのが僕らの常でした。
そんなある日のことです。
その日も僕は、校庭の隅っこでカバンを傍らに置いてボールを蹴る謙久を眺めていました。

「よぉ、久しぶり」
「……は?」

見知らぬ男に話し掛けられ、不快感を隠せなかった僕は、自分でも驚くほど冷めきった台詞を返しました。
その人は、謙久と同じ練習着を着ていたのでサッカー部なのはなんとなく想像できました。でも、彼が誰であるかはどうでもよかったし、興味もなかったのでそれ以上言葉を返すことはしませんでした。
無視していたのですが、男は部活に戻ることもなく僕の隣に腰を下ろします。
サボることなく真面目に部活に参加して、時々僕の方にちらりと視線を送る謙久はやはり真面目です。とても好感が持てると感じます。出来れば今すぐ部活を切り上げて貰って家路につきたいのですが、ここは彼のために我慢を擦るしかありません。

「なぁ、お前らってさ、もうやっちゃったの?ずっと気になってたんだよ、俺。ほら、俺ってお前の身近な先生だったじゃん、勉強だったり遊びだったり色々教えてやっただろ。でも、ほら。俺って、お前にあの〜、ほら。じ、自慰?とか教えたりしなかっただろ?中学生なんてサル見てぇなもんじゃん?お前、性欲を持て余したりしてないか心配だったんだよね、俺」

なんだか、知ったような口調で喋りかけてくる男の声が、耳触りに思えました。どうやら、調子に乗りやすいタイプのようです。
部活が終わるまで延々と喋り続けていた男は、練習終了後、顧問と思しき人にこってり絞られているようでした。

「安本と何話してたの?」
「ん、誰それ?」
「変なことされなかった?言われなかった?」
「ちょ、謙久。痛いよ?」

僕の肩を掴んで必死の形相で告げる謙久に、僕は少々驚きました。ヤスモトという人がいったい誰なのか、僕は聞いたこともなければ興味もない。
僕の「一番」は謙久だけであり、僕の世界は謙久を中心に回っているんだよ、と続けると彼は安堵のため息をついてから、ふんわりと笑った。
その日は、急いで練習着から制服に着替えた謙久と一緒に帰った。その帰り道、謙久は何だか挙動不審で、頻りに周りを気にしていました。
それから謙久は少しだけ僕に依存するようになりました。
授業時間以外は一緒でなければ不安だと言います。何も言わずにトイレに行くことですら、泣きそうな表情で僕に縋りついてくるさまはほんの少しだけ僕の優越感を擽りました。
謙久を独占出来ている喜びに、胸が震えたのを覚えています。時には空き教室で一緒に授業をサボったりもしましたし、彼が寝付くまで傍にいることもありました。
僕に話しかけてきた男とあってから、謙久の様子が変わったように思います。二人にどんな繋がりがあるかなんて僕には分かりませんが、少なくとも、謙久があの男におびえているのは確かなように思えます。
今は思う存分甘やかしてやろう心に決め、もしも、その男と接触するような機会があるのであれば、僕が謙久を守らなければ、と決心した瞬間でもありました。
正直に言うと、顔もうろ覚えだし謙久以外とは会話することさえ面倒臭いのですが、彼の心守るためならば仕方がありません。最近、彼の表情から笑顔が消えて捨てられた子犬のような表情が目立ちます。
それでも構わないのですが、何かに脅える生と言うのは本当に苦しいと思うので、彼のためにほんの少しだけ僕のルールをゆがめることにしました。
それから僕がその男と再び接触したのは、謙久の様子が変わって一週間が経とうとした頃でした。
移動教室のため、二階から三階へと階段を上っていると、前方から数人の生徒が下りてくるのが見えました。上級学年の生徒も移動している筈です。何もおかしくはありません、が、その一段の中には何となく見覚えのある顔もありました。
その一団とすれ違い、階段の踊り場まで行くまでの間、じっとその男を睨みつけていましたが最後の一段を蹴った瞬間、彼が捜していた男であることに気付きました。

「ヤス…モ、ト?」

たしかそんな名前だった筈です。呼びとめたつもりはなかったのですが、思ったよりも大きな声が出たみたいです。二階のフロア部分から階段の踊り場にいる僕を見上げたその男は「よんだ?」と、唇を半月形に歪めて尋ねてきます。
どう返したものか、と考えあぐねているとその男は更に笑みを深めて此方へ寄ってきます。半階分を段飛ばしで詰めてきたので、僕とその男の距離はあっという間になくなってしまいました。

「何、俺のこと思い出した?ぱっと見分かんないだろ、俺、高校デビューしたからさ。お前朝早いから俺が家出るよりも早く学校行っちゃうしさ」

くっつきそうな程間近に迫った男は、とても上機嫌でした。が、彼が何のことを言っているのか、全く見当がつきませんでした。分かったことと言えば、彼の名前がヤスモトというくらいです。

「貴方と謙久がどういう関係にあるかは知りませんが、これ以上彼に近づくのはやめてもらえませんか。勿論、僕にもです」
「は、なんで?お前、俺を一番にしたくて声をかけたんじゃねえの?」
「何をバカなことを言っているんですか?貴方が僕の世界に入ることなんて、掠ることすらありませんよ」

正直に言ったまでです。これ以上会話するつもりなどないという意志を込めて、相手から距離を置きます。早く行かなければ授業に遅れてしまいます。
残りの階段を登りきってしまおうと背中を向けた瞬間、右肩を掴まれ引き留められました。

「…何、お前と松木ってマジで付き合っちゃってんの?」
「……」
「本気にしてんの、お前。あいつ、お前に告白した本当の理由ちゃんと言ってなかったんだな。なら教えてやろうか」
「結構です」
「聞いておけって、あいつさ、元々ホモなんだけどさ、調度部活の先輩とPK対決で負けた罰ゲームでお前に告ったんだよ。ホモ同士で調度いいべって、さ」

超ウケる、とケタケタ腹を抱えて笑う男の姿が本当に不愉快です。
もしもその話が本当なら、確かにショックだけれど謙久が言わないのだからそれはまだ真実ではありません。少しだけ、心がざわつきましたが、この男の発言よりも今まで謙久と培ってきた思い出の方が、ずっとずっと信じられます。
小さく落とされた不安の種は、たちまち芽を出して広がります。
教室につくよりも前に予鈴が鳴りましたが、それどころではありません。一刻も早く学校を飛び出して、謙久に抱きしめて貰って嘘であることを確かめたかったのです。
元来た道を戻るため、進路を変えます。前方に立ちふさがる男の腕を払って横をすり抜けようとすると、今度は腕を捕られて引き留められます。

「…なんですか、僕は今すごく忙しいんです」
「そんなに焦るの?あいつって、お前の一番じゃなかったのか?」
「あんたには関係のない話だろう!」

訳のわからない発言ばかりして、僕の平安を壊されます。一刻も早くこの場から逃れようとする僕の気持ちを察したのか、男は手を放してくれましたが「無駄だと思うぞ」と、冷めた口調で告げます。

「だって、ついさっき連絡がきたんだよね。もういい加減お前と付き合う罰ゲームには飽きたって。本当の恋人といちゃこらしたい。お前の顔も見たくないってさ」
「嘘だ、謙久がそんなこと言うわけがない。言ったとしても、この耳で聞くまでは信じない。あんたはすっこんでてください」

もうこれ以上の会話は無益であると判断し、一時的に僕の世界に入れた彼を世界から遮断します。
ふん、と鼻で笑い男の横を通り過ぎようとした瞬間。さっきまで会話していた男が、真横で何か怒鳴ります。あまりに近場で怒鳴るものなので、何て言ったのか聞きとれませんでした。
まぁ、会話は終了しているし関係ないだろうと無視を決め込んでいると、肩に衝撃を受けます。踊り場から階下へと降りるべく踏みだしたその足が浮いたのと、重心が後ろにずれたと感じたのはほぼ同時でした。
崩れたバランスを整えようと手摺に手を伸ばしましたが、掴んだのはただの空気でした。世界が反転していくその中で、最後に見た顔は、残念なことに愛しい謙久ではありませんでしたが遠い記憶の誰かを彷彿とさせる面立ちだったことに初めて気付きました。
その直後に、衝撃。


僕はそのまま気を失ってしまったのでしょうか。
それからの記憶は全くないし、体もだるくて動きません。なんとなく、疲労感も残っている気もします。知らない男と喋ったりしたので単なる気疲れでしょうか。
思うように目も開けられないので困ったものです。どこかから聞こえる機械音が何だか不愉快に感じます。
今の状況はひとまず置いておくとして、謙久は大丈夫でしょうか。正直、早く会いに行きたいです。
でも、それは僕だけが思っているだけかもしれません。今頃、僕がいないところで自由に遊んでいるかもしれません。あの男の言うとおりかもしれません。
でも、僕は彼を信じていたいです。いや、信じています。彼が「一番」でなくなってしまったら、僕はまた一人になってしまいます。今度こそ、本当に一人です。
それは嫌です。本当に、怖いことです。

ぴ、ぴ、と定期的に続く音を聞きながら何とか目を開こうと努力します。
考えがネガティブになっているのは、謙久の存在を五感で感じていないせいです。
きっと、彼は傍にいてくれる筈です。彼なら、と期待を込めてうっすらと開けた目に飛び込んできたのは白い光と、白い服を着た知らない誰か。なんだか深刻そうな眼差しで此方の様子を窺っていました。
がっかりです、どうして彼は傍にいてくれないのでしょうか。いったい、どこに居るのでしょうか。自然と閉じた瞼の裏が、熱くなった気がしました。
あの男の言うとおり、僕は本当に一人になってしまったのかもしれません。目の前が、真っ暗になってしまった気がしました。
その時、僕の頬に暖かいものが触れた気がしました。頭上から、柔らかな言葉が降ってきた気がしましたが、規則的に流れる機械音が酷く耳障りで何も聞き取れませんでした。
もう一度、目を開けるとあたたかな掌の主はとても悲しそうな顔で、僕の目の上を覆ってくれました。
「おやすみよ」
そんな声が聞こえた気がしました。
まぁ、少し疲れたし、たまには泥のようになるのも良いのかもしれません。
ゆっくりと遠くなる意識の中で、誰かに「イチ」と呼ばれた気がしました。
目が覚めたら、僕の「一番」の人に会いに行きたいです。



終幕


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