すれ違った心
外れた歯車は軋んだ音をたて始める

一体いつから?

気付いた瞬間には

既に手遅れだというのに…


【すれ違った心】

 レンガ造りの街並み。
人々が行き交い、談笑が聞こえる。
この街には二つの種族が手を取り合い住んでいた。

銀の髪に青い目を持ち、知能に長けた種族『知の民』

黒い髪に紅い目を持ち、武能に長けた種族『武の民』

知の民は知識を用い、街を住み易く豊かに発展させた。
武の民は外部から攻め込んでくる敵国を打ち払い、街の治安を守ってきた。
互いの長所を活かし合い、互いの短所を補う。
二つの種族は手を取り合い、生活をしてきた。

 この二人も例外ではない。
舗装された道を風のように駆けてくる少年。
一つに束ねた黒髪が尻尾のように跳ねている。
視線の先には人影が一つ。
「サージュっ!」
 彼は大きな声で名前を叫ぶと、人影はビクリと肩を跳ねた。
そこに居たのは銀の髪に青い目をした少年。
駆け寄ってきた彼に優しく微笑んだ。
どうやら、サージュとは少年の名前らしい。
「どうしたの? そんなに慌てて」
 サージュは彼の慌しい様子に首を傾げる。
「別に慌ててないって」
 彼の言葉を否定する。
その言葉にサージュは首を捻った。
「走ってきたよね?」
 確認するように彼の顔をまじまじと見る。
しかし、当の本人は息すら切らしていない様子。
「お前がいたから走っただけ」
 彼の素直な言葉にサージュは苦く笑った。
「そんなに急がなくても、僕は逃げたりしないよ」
「…それもそうか」
 彼は納得したように頷き、邪気の無い笑みを浮かべた。
「毎日元気だね。フォルスは」
 そう言われた彼──フォルスは丈夫だけが取り柄だからな、と得意げに笑った。
サージュは微笑みながら、同意するようにコクリと頷いた。
そして、フォルスの腰辺りに視線を向けると不思議そうに言葉を零した。
「猟にでも行ってたの?」
「?」
 彼の唐突の言葉にフォルスは首を傾げた。
「ナイフ、吊るしてるから」
 そう言いながら、彼の腰辺りを指し示した。
そこには、二本のベルトに吊るされた一対の短剣が入ったケース。
「ああ、これか」
 腰に提げた物に軽く触れると、何とはなしに言った。
「護衛してたんだ」
「護衛? 誰の?」
 間髪入れない彼の問いにフォルスは一拍置いて答えた。
「…商人」
 彼の言葉にサージュは何かを考えるように空を仰いだ。
視線を元に戻すと、再び問いかける。
「街に居るの?」
「…いるはずだけど」
 彼の思案気な表情に疑問符を飛ばすフォルス。
すると、彼は決意したように一度頷いた。
「会いに行こう」
 それは独り言にも聞こえる言動。
流しかけたフォルスは彼の顔を覗き込んだ。
「は?」
「今から会いに行こうよ」
 どうやら彼にも言っている様子。
サージュの無邪気な笑みに彼は苦笑した。
「何で、俺もなの…」
「ね、一緒に行こうよ」
 好奇心を剥き出しにしている彼に、フォルスは半ば引き摺られるように市場の通りを歩いていった。




 しばらく歩いていると、市場の中で大きな人だかりを見つけた。
「?」
 フォルスが疑問符を飛ばすと、それに気づいた彼が言葉を放つ。
「あそこに商人さんがいるのかな?」
「さあな」
 彼の曖昧な返答に微笑みながら、サージュは人だかりを掻き分けていく。
だが、彼の身体は小さいため、上手く前に進めない。
「わっ…」
 人波に押し返されようとした…その時だった。
彼の手首を掴む腕。
「何してんだよ」
 呆れたように嘆息を吐くフォルスの姿。
人波を上手く掻き分け、一番前まで彼を導いていく。
「コレで良いのか?」
 最前列まで来たサージュは彼にありがとう、と小さく零すと前方に視線を向けた。
男が商品を競りにかけている所だった。
おそらく、フォルスが護衛した商人なのだろう。
傍らにはトカゲのような大きな爬虫類が目を閉じたまま横たわっていた。
身の丈が二メートルぐらいあるだろう。
青紫の身体に鱗は無く、長い尾の先は二つに分かれている。
「…あれ、図鑑で見たことあるよ」
 フォルスに小さく耳打ちをする。
「………」
 しかし、彼は言葉を返さないまま険しい目つきで、トカゲを見つめていた。
「…フォルス?」
 反応を示さない彼に不思議そうな目を向けた。
「サージュ、下がってろ」
 低く呟き、彼を背後に押しのけた。
「えっ、フォルスっ!?」
 突然の力に押されたまま、サージュは人波に押し込められてしまった。
彼がフォルスの元へ戻ろうとした…。




瞬間。



トカゲの尾がしなり、強く地面を叩いた。
それと同時にフォルスは大きな声量で叫んだ。

「逃げろっ! 食われるぞっ!!」

 彼の言葉一つで人々は各々の悲鳴を上げ、散っていった。
「…っ! ぅわ…っ!!」
 人波に逆らうように進むサージュ。
しかし、流れに逆らっているせいで上手く進めない。
人波に揉みくちゃにされながら、ようやく辿り着いた時。



──…爬虫類特有の鋭い視線が彼を貫いた。


「……」
 蛇に睨まれた蛙のように身動き一つ取れないまま、立ち尽くす。
地面に根を下ろしてしまったように足が硬直している。
血の気が一瞬にして引いていく、身体が恐怖に震えている。
「…あ…ああ」
 口からは無意識に声が漏れた。
鋭い眼が細められ、尾が大きく振り上げられる。
ひゅうっと風を切る音と同時に振り下ろされる。
「!」
 目を背けることも出来ず、凝視していると黒い影が視界を遮った。
それと同時に聞こえた金属音。

「あ…ぅ…」
 言葉にならない声を零すと、ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜられた。
「怪我…してないな」
 確認めいた言葉。
恐怖に震えているサージュに優しく彼は言葉をかけた。
「フォ…ル…ス」
 ようやく搾り出した言葉に彼は答えるように一度だけ頷いた。
「ここから動くなよ」
 彼は優しく、サージュの肩を叩くとトカゲに向き直った。
腰に提げられた二本の短剣は既に抜かれており、彼は慣れた手つきでそれを逆手に構えた。
「ちゃんと待ってたみたいだな」
 嘲笑するように紅い目を細め、トカゲの様子を窺う。
そして、傍らで座り込んでいる商人に声をかけた。
「あんたも動くなよ」
 しっかりと釘を刺しておく。
商人は何度も必死に頷く。
その反応を横目に確認すると、唐突に飛んできた石ころを左の剣で弾いた。
「そう急かすなって」
 張り詰めた空気を楽しむかのように声を弾ませる彼は、前屈みになると目を細めた。

 バネのように地を蹴って、宙に舞う。

それを目で追うトカゲは二股に分かれた尾を彼に向けた。


「芸が無いっての」
 喉の奥で小さく笑いながら双剣を順手に構え、目の前で交差させた。
罰点の形で重ねた場所に吸い込まれるように二本の尾が双剣を叩いた。
叩かれた反動を利用し、再び逆手に持ち替え一閃。
それは片方の尾に小さな傷を刻んだ。

「──っ!!」
 言葉にならない鳴き声が辺りに響き渡る。

「何、今の痛かった?」
 彼は猫のように着地すると、悪戯に満ちた笑みを浮かべた。
まるで、遊んでいるように彼は愉快そうに目を細めた。
「単なる掠り傷じゃん」
 トカゲを嘲笑う淡々とした言動。
「お前、温室育ちだな」
 ニヤリと笑むのと同時にトカゲが大きく吠えた。
地面が振動し、風が急速に流れていく。
背後で立ち竦んでいたサージュがペタリと座り込んでしまった。

横目で彼の様子を見たフォルスは、肩を竦めて言った。
「そんなに俺の親友ビビらすなって」
 双剣を弄ぶようにクルクルと回す。
余裕綽々と言ったところ、彼はどうしたもんかね、と思案げにしていた。
この場で殺すことは容易いが、商品として売られていた物だ。
仕留めた後で文句を言われるのは面倒である。
しかし、トカゲは興奮しているようで宥めるには少々手こずるだろう。

もっとも、あれの神経を逆撫でしたのは自分自身なのだが…。
クルクルと双剣を回して上に放る。
すると、それに反応したトカゲが尾を振るって彼の方向に弾き返した。
フォルスは不思議そうに首を傾げながら、もう一度、トカゲに短剣を放った。

同じように弾き返してくる。
「………」
 彼は真っ直ぐにトカゲを見据えると、双剣を真上に放った。
トカゲは二本の尾を別々に動かし、短剣を彼の元へ弾き返した。
「ヘェ…」
 彼は感嘆の声を上げると、面白そうに笑んだ。
何を考えたのか双剣を仕舞い、トカゲに近づいていく。
「フォルスッ!!」
 心配そうに自分の名を叫ぶ友人に、彼は軽く手を振るだけだった。
近寄ってくる彼をトカゲはジッと見つめている。
触れられる寸前まで来ると、トカゲは興味深げに彼の顔を見上げた。
見上げられた本人は、手持ち無沙汰にトカゲの頭を撫でる。
予想とは違い、ゴツゴツと硬かった。
「硬いな…」
 感想が口から零れた。
それを理解したのか、トカゲはフォルスの肩をベチベチと叩いた。
「いてて…」
 じゃれ合っているような構図。
サージュは呆然と目の前の光景を見つめていた。
「フォ……フォルス?」
 困ったように名前を呼んだサージュを振り返ると、彼は手招きをした。
こっちに来いと呼んでいる。
腰の抜けた状態で、フォルスを見つめる。
サージュの異変に気がつき、彼はトカゲの頭を一度だけ撫でて、こちらに歩み寄って来た。
「…もしかして、腰抜かした?」
「………………」
 彼の問いかけに言葉を飲み込む。
痛いほどの沈黙に、サージュは顔を真っ赤にしてコクリと頷いた。
「サージュは臆病だな」
「フォルスが無謀なだけだよっ!」
 彼の茶化した物言いに声を張り上げ反論するも、座り込んだ姿では説得力に欠けている。
「冗談だって。大丈夫か?」
 半笑い気味に手を差し出し、彼を促す。
「……顔笑ってるんだけど」
「気にすんなって」
 彼の言葉にフォルスは軽く返し、手を握って立ち上がらせた。
「立てるみたいだな」
 サージュが一人で立てることを確認すると、彼は握っていた手を離してトカゲの方へと歩いていった。
「あ、危ないよ」
 心配そうに声をかけると、彼はサージュの手を再び掴んだ。
「え……」
 呆然とする彼を引きずるようにして、フォルスは歩いていく。
「ちょ! フォルスッ!!」
 自分の体重をかけて踏み止まろうとするも、彼の力の強さには敵わずズルズルと前進していく。
「待って待って!!」
 彼の懇願に近い言葉に、フォルスはピタリと足を止めた。
止まってくれた彼に安堵の息を漏らしたが、巨大なトカゲは目の前。
声をかけるのが寸分遅かった模様。
頭一つ大きいフォルスの背後に隠れる。
サージュの反応に彼は苦笑いして、トカゲに手を伸ばした。
「フォルス?」
「大丈夫だって」
 何を根拠にそんな事が言えるのだろうか。
彼がハラハラしながら見守っている最中、トカゲはフォルスが伸ばした手に鼻を擦り付けている。
擦り寄っている、というべきなのだろう。
「……?」
 先刻と打って変わって大人しいトカゲの行動に疑問符を浮かべるサージュ。
「何か、遊んでただけみたいなんだよ」
「遊んでた?」
 フォルスの言葉を復唱して、彼は再び擦り寄ってきたトカゲを見る。
目を細め、二本の尾は嬉しそうに揺れている。
「本当は大人しい性格みたいでさ」
「……大人しいの?」
 半信半疑でトカゲを見つめる。


──目が合った。


「!!」

 驚きのあまり、彼はフォルスの背後に隠れてしまった。
「大丈夫だって」
「だ、だって……」
 怖いものは怖いらしい。
背後で震えている彼を苦笑しながらフォルスは、傍らに座り込んでいる商人に声をかけた。
「もう大丈夫」
「ああ、助かったよ」
 商人の言葉を聞いた後、じゃあなとトカゲに手を振ってからその場を後にした。

 居住区まで歩いていくと、サージュは不安そうに何度も後ろを振り返っていた。
「だから、大丈夫だって」
 彼の行動にフォルスは笑いを含んだ声で言った。
「……う」
 自分の行動を指摘され、ピタリと動きを止める。
「今回は大人しかったから良かったけどな」
「あの種類は獰猛なの?」
 知的好奇心が湧いてきたようで、彼に質問を投げる。
「さあな。その場で判断するから分かんねぇ」
「何それ」
 彼の曖昧な返答に思わず噴き出した。
「なっ! 今の笑うところかよ……」
「ゴメンゴメン」
 非難の目を笑顔で流しながら、サージュは至極当然のように言った。
「さっきは、ありがとう」
「あ?」
 突然の礼にフォルスは間の抜けた声を上げる。
彼の反応に再び彼は微笑を浮かべた。
さっきのいうのはトカゲの事だろう。
しかし、頭の回転の遅いフォルスの頭上には疑問符が飛び交っている。
「トカゲだよ。トカゲ」
 言葉を補足すると、彼は合点が行ったように手を一度だけ叩いた。
「ああ、それか。気にすんなって」
「でも、言っておいた方が良いかなって」
 彼の適当すぎる言動に苦く笑いながら、サージュは律儀に返答をした。
「お前って律儀だよな」
「難しい言葉知ってるね」
 フォルスの言葉を掬い取り、からかうように彼は笑った。
馬鹿にされたことに不快感を覚え、彼は口をへの字に曲げる。
「あ、怒った?」
 白々しく彼の顔を覗き込むサージュ。
反応を楽しむように、ほくそ笑んだ彼に眉を顰めるフォルス。
「見りゃあ分かるだろ」
「そうだね。ごめんごめん」
 笑みを浮かべたままで謝罪の言葉を述べるが、説得力は全くの皆無。
反省の色が見えない彼に、フォルスは呆れたように肩を落とした。
彼の反応に苦笑を漏らすと、サージュはポンと一度だけ手を打った。
「そうだ。明日、書物庫に行くんだけど──」
「唐突だな」
 急な話の切り替えに鋭く突っ込みを入れるが、彼の笑みで流されてしまった。
「一緒に行かない?」
「……早朝から『狩り』なんだけど」
 彼の誘いを払い除けるような言葉を返す。
「じゃあ……先に書物庫行ってるね」
「なんでそうなるんだよ……」
 嬉しそうに微笑む彼を横目に、フォルスは嘆息と共に小さく呟いた。



 次の日、狩猟を終えたフォルスは街の近くに位置する森に流れている川で、動物の血を流していた。
街に入る前には臭いを落とさなければならない。
知の民は料理以外の事柄で生物を扱ったりはしない。
そのため、獣の臭いが知の民に移ることを避けるのだ。
それは武の民の気遣いであり、友好を保つためのものでもあった。
流れ行く冷水に身を浸し、微かに身体を震わせた。
「さみ……」
 軽く身体を拭き、衣類を身に着ける。
そして、腰に短剣を入れたケースを吊るす。
街に武器を持ち込むのは忍びないが、昨日の出来事を思い出すと持っていた方が安全だ。
知の民を守るのは武の民の義務であり、意思でもある。
彼は、まだ濡れている後ろ髪を軽く梳きながら、彼が待っている街の方へと足を向けた。

 円筒形の建物内には隅々まで本が詰め込まれていた。
背の高い本棚に几帳面に並べられた本たちが窮屈そうにしている。
窓が少ない室内は人工的な光に照らされていた。
フォルスは周りを見回しながら、歩いていく。
建物の中には裾の長い法衣を纏った人々が、それぞれの理由で本を抱えて行き交っていた。
人数が少ないせいか雰囲気が閑散としていた。
すれ違う人は銀髪蒼眼の知の民ばかり。
それもそのはず、武の民は言葉を話すことは出来ても読み書きが出来ないのだ。
そのため、この場所に来る理由も皆無。
だが、フォルスがこの場所に来たのは彼に会いに来た以外に理由も存在する。

「……どこにいるんだか」
 縦に伸びている螺旋の階段を見上げて小さく呟いた。
「サージュを捜しているの?」
 横から掛けられた少女特有の高い声に、驚くことなく彼は顔を向けた。
そこには、白いフードを被った人物。
フードから零れる銀の髪が知の民であると教えている。
書物庫を管理している人間で、二人とも親しい仲である。

「どこにいる?」
 彼女の言葉に頷きながら、彼の居場所を訊く。
少女は軽く微笑み、上を指し示した。
「二階の閲覧室よ」
「そっか」
 フォルスは納得したように一度頷くと、階段を駆け上がって行った。
半分ほどまで駆け上がると、彼は手すりから身を乗り出して声を張り上げた。
「あんがとなっ!」
 彼の感謝の言葉に、彼女は呆れたように言った。
「書物庫では静かにね」
 彼は気まずく頭を掻きながら、階段を静かに上がっていった。

階段を上がると本棚が道を作るように向かい合いながら置かれていた。
そして、本棚に挟まれるように長机が連なるように配置されていた。 
長机には等間隔に椅子が設置されている。
その長机一つ分を広々と使っている少年が一人。
ショートカットの銀髪に蒼眼。
裾の長い法衣のような服。
長机には開いたままの状態で本が重ねてある。
崩れてしまっている物も多いようで机の上はお世辞にもキレイとは言えなかった。
熱心に何かを調べているようだった。

フォルスはゆっくりとした足取りで本に熱中している彼に近づいていく。
目の前まで来たにもかかわらず、彼は本から目を離さない。
どうやら、本当に気がついていないようだ。
フォルスは呆れたように嘆息を零すと、机の空いている場所に手を突いて屈んだ。



──……そして。


「調べ物か? サージュ」
 彼の真横で声をかける、大きめの声量で。
「……?」
 声に反応するように彼はゆっくりと視線を横に向けた。
眼前には満面の笑みを浮かべた少年。

「………」
「………」


──…一瞬の沈黙の後。

「わわっ!!」
 彼は驚いたように身を引いた。
その際にバランスを崩し、椅子と共に後ろへ倒れてしまう。
幸いにも机上の書物は崩れる事無く、そのままの状態を保っていた。
フォルスは椅子と共倒れになった彼に声をかける。
「おいおい大丈夫かよ。サージュ」
 手を差し出しながら笑う。
「いきなり声かけないでよ。フォルス」
 サージュは困ったように眉を寄せながら、彼を睨んだ。
当の本人は可笑しそうに笑い声を上げて、彼の手を掴んだ。
「気づかない方が悪いんだろ?」
 言いながら立たせる。
彼はフォルスを一瞥すると、ありがとう、と小さく零して椅子を元の位置に戻した。
「他の方法があると思うんだけど?」
 フォルスに非難の目を向けると、張本人は彼が読んでいた本に目を向けていた。
「フォルス…話聞いてる?」
「ん? 聞いてる聞いてる」
 彼は本を手に取りながら適当な返事をした。
サージュは呆れたように嘆息を零すと、彼に歩み寄った。
「気になる?」
 彼の言葉にフォルスは曖昧な返事をして、ページを捲っている。
「年代記か……」
 食い入るように文字を追う彼の姿を横目に、サージュは小さく呟いた。
「貴重な光景だよね」
 彼の言葉を横で聞き取ったフォルスが首を傾げる。
「武の民が本読んでるってさ」
「初めて会ったとき驚いてたよな。お前」
 本から視線を外すことなく彼は言った。
彼は武の民で唯一、文字を読むことも書くことも出来る。


すれ違い様にサージュが落とした本をフォルスが拾い、軽く目を通して彼に渡す瞬間に零した言葉。

「これ、面白いよな」

 それを聞いたサージュが彼に興味を持ち、今のような状態に至ったのだ。
サージュが目を輝かせて、本の内容を語っていたのは記憶に新しい。


彼いわく読み書きできるのは父親が教えてくれたからという。
特別な血筋なのかと彼に尋ねたが、彼は首を傾げるだけだった。
自分でも、いまいち把握していない様子。
その場の判断に任せる武の民には、突き詰めた質問は頭痛の原因にしかならない。
サージュも、それを承知しているので深く尋ねることは無かった。

 気の短いフォルスは温厚なサージュとバランスが取れていた。
その反面、判断力に欠けるサージュに勘の鋭いフォルスが助言をすることもあった。
二人はお互いを補う仲にあるようだ。


「……あ」
 サージュは思い出したように一度だけ手を打つと、サージュの腕を掴んだ。
掴まれた彼は読み耽っていた本を片手で閉じ、掴まれている腕を見つめた。
「長に呼ばれてるの……忘れてた」
「おまっ! 早く行って来い!!」
 彼の言葉に追い立てられるように、サージュは早足で階段を駆け下りて行った。

彼の言っていた長とは、この街を統率している人物である。
時間を大切にしている人物で、遅刻をすると窘められることがある。
決して厳しい人間ではないのだが、自由を好むフォルスとは反りが合わない。

「なんか言われてきそうだな。サージュ」
 苦笑を零しながら手に持っていた本を、彼の座っていた机の上に戻す。
彼の座っていた場所には膨大な書物が積まれている。
年代記や旧語辞典、紙を纏めた資料。
勝手に触ると怒られてしまうだろう。
彼は机を離れて本棚に歩み寄った。
隙間無く並べられた本の背を指でなぞっていく。
ここに置かれている本は殆ど読破している。
読めないのは旧語で書かれた古書ぐらいである。
「新しい本、入ってないのか……」
 退屈しのぎに本棚に囲まれた通路を進んでいく。
壁際まで行くと、光が届かないせいか薄暗かった。
フォルスは目を凝らしながら、本棚を一つ一つ眺めていく。

そんな時。

「?」
 何かが視界の隅に入った。
彼は誘われるように、その場所に歩み寄った。
辿り着いたのは黒い壁。
特に変わったところは無さそうだ。
彼は首を捻りながら、壁に触れた。
ひんやりとした感覚が手を通して伝わってくる。
「気のせいか」
 彼が踵を返した時、ジャラリと何かが鳴った。
彼は振り返り、腰元に目を落とすと黒い鎖が短剣のケースに引っかかっていた。
溜め息混じりに絡まった鎖を解き、元の位置に戻した。
しばらくの間、鎖を見つめていたが、目の前の壁に肩を当て、体重をかけてみる。

ギシリと鈍い音と共に、壁が開いた。
僅かに開いた隙間から向こう側の景色が見える。
「…………」
 周囲を注意深く見回し、狭い隙間に身を滑り込ませた。

 その空間は部屋だった。
背の低い本棚が一つだけ置かれた殺風景な部屋。
床にはうっすらと埃が積もり、白くなっていた。
しかし、誰かが入ったのだろうか、所々に足跡らしきものが点々としていた。
その足跡は本棚の前で止まっている。
彼は足跡と同じように本棚の前まで行くと、しゃがんで並べられた本に目を向ける。
黒い背表紙の本が並べられていた。
彼は棚から適当に取って表紙をめくった。
しかし、その本には一切の題名が書かれていない。
黄ばんだ紙の色が年月の長さを語っていた。
かなり前に書かれたものなのだろうか?
彼は不思議に思い、ページをめくった。

「……え」
 そこに綴られていたのは種族の歴史。
長い年月積み上げられてきた年代記だった。
なぜ、こんなところに置いてあるのだろうか。
なぜ、隠すような形で置いてあるのだろうか?
疑問に思ったフォルスは取り出した本を元の位置に戻し。
一番端に立ててある、本に手を伸ばそうとした。



その時。



「フォルス?」
 離れた場所から自分を呼ぶ声に振り返った。
どうやら自分を探している様子、用事は済んだのだろうか。
一度、本棚を見やるが彼を待たせるわけにはいかないと、物音を立てずに壁を閉じると声のする方向へ歩いていく。
心配そうに自分の名前を呼ぶ彼の背中が目に入った。
「用事は終わったか?」
 背後から声をかけてやると、びっくりしたように彼は肩を跳ねた。
「う、後ろから話しかけないでよっ!」
 彼の抗議の声に苦笑しながら、呼んだのはお前だろうと小さく零した。
それでも、彼は納得がいかない様子で頬を膨らませている。
フォルスは軽く謝罪すると、彼は機嫌を直して軽く笑った。
「んで、あれどうすんだよ?」
「え?」
 フォルスが指差した先には山積みにされた本の山。
窓から注がれる陽射しは、いつの間にか橙に染まっていた。
「あ…片付けないと」
 いま思い出したような口振りに彼は嘆息を零し、サージュの横を通り過ぎ、机に近づいていった。
彼の行動に疑問符を浮かべてるサージュ。
本を抱え始めたフォルスは、彼を振り返り呆れ半分に言った。
「早くしねぇと夜になるぞ」
 本の片付けを手伝ってくれるという。
彼は本を抱えている友人の隣に並び、広げられた資料を集め始めた。
「旧語か?」
 横から覗き込んだ彼が眉を寄せながら呟いた。
「そうだよ。教えてあげようか?」
 サージュの申し出に、彼は軽く笑いながら曖昧に答えた。
「その内な」

 それから、二人は本を抱えながら本棚の合間を何度か往復した。
どこにどのような類の本が置かれているのか、大体把握しているおかげで片付ける作業は短時間で終了した。
サージュは紙を束ねた資料を小脇に抱え、階段を下り始める。
「あ、そうだ」
 一段降りたところで彼を振り返る。
彼は階段に近づき、軽く返事をした。
「明日、隣街に行くんだ。必要な物ってある?」
 街に置いて無い物を買って来てくれる様子。
しかし、フォルスは首を横に振って彼の言葉を流した。
「そっか……」
「気ぃつけて行けよ」
 彼なりの声掛けに、サージュは満足そうに頷いた。
そして、また今度と手を振り終えると階段を駆け下りていった。
彼の背中が見えなくなると、フォルスは静かに後ろを振り返った。
そこには徐々に薄暗くなっていく書庫の本棚。
その向こうには彼が先刻まで入っていた部屋がある。
明日、サージュはいない。
必然にも明日は何も無い日。

フォルスは静まり返った書物庫に佇んでいた。

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