扉の向こう

 暗がりの中で扉の閉まる音だけが聞こえ、アリサは目を覚ました。
ベッドから身を起こし、眠たい目を擦る。
「アリサ? 起きてる?」
 声と同時に明るくなる視界。
眩しそうに目を細め、瞬きを繰り返した。
背中に流れる黒髪が微かに揺れる。
「お母さん?」
 舌足らずな声が小さく零れた。
机の上にトレーを置いた母親は「おはよう」と優しく微笑み、アリサに歩み寄った。
「おはよう、お母さん」
「よく眠れた?」
「うん」
 無邪気に返す声に、母は満足そうに頭を撫でた。
着替えを終え、髪を梳かしているとアリサは明るい声で聞いた。
「きょうは、どんなお話してくれるの?」
「そうね──」
 考え込むように言葉を切り、黒い髪を束ねて飾りのついたゴムで括った。
高い位置に結われた尻尾が静かに揺れる。
続きの言葉が気になったアリサは振り返り、母を見上げた。
しばらく考える仕草をしていたが、母親は静かに語り始める。
優しい声で語られる物語に、アリサは無言で耳を傾けるのだった。
話が終わると、母はトレーを手にして部屋を出て行ってしまう。
すぐに戻ってくるからね、と言い残して出て行く母に、アリサは素直に頷いた。
電灯に照らされた四方の壁が白さを増している。
室内に時計は無く、間隔を狂わせた。
ベッドの上に座ったアリサは、母が帰ってくるのを大人しく待っていた。
その姿は忠犬というより、生まれたばかりの子犬を思わせた。
大きな鳶色の目は、母が出て行った扉を見つめている。

 しばらくして扉が開き、母が顔を覗かせる。
ベッドで座っているアリサを確認し、母は優しく言った。
「いい子ね。アリサ」
 扉を閉め、ベッドの端に腰掛けると手招きをする。
近付いてきたアリサを優しく抱き寄せ、髪を撫ぜると「いい子」と小さく呟いた。
長い尻尾に指を通すと指の間をするりと落ちて行く。
ゆっくりと梳くように繰り返していると、アリサは気持ち良さそうに目を細めるのだった。
伝わってくる温もりに瞼が自然と閉じていく。
規則正しい寝息が聞こえてくると、母は起こさないように毛布をかけて部屋を後にした。

 体を揺すられる感覚に目を覚ます。
母の優しい声が聞こえた。
「アリサ、ご飯よ」
「う、ん」
 寝惚け半分で返事をすると、母は穏やかに微笑んだ。
いい子ね、と頭を撫で、縛っていたヘアゴムを解く。
零れた黒髪を手で梳くと、アリサは気持ち良さそうに目を細めた。
食事を終えて先ほどと同じように、母はアリサを抱き寄せる。
人形を扱うように優しく丁寧に髪を撫ぜる。

 食事を運んでくるとき、夜寝るときを除いて、母は常にアリサの傍にいた。
特別何をするでもなく、毎日彼女に寄り添っているのだ。
幸せそうに微笑む母の姿に、アリサは何の不満も抱かなかった。
 ある日、いつものように目を覚ましたアリサは食事をすませると、母が残念そうに言った。
「アリサ。お母さん、少し出かけないといけないの」
「でかける?」
 聞いた事の無い言葉に首を捻ると、母は普段と変わらない口調で言った。
「アリサはいい子だから、待てるよね?」
 反射的に頷いたアリサに「いい子」と頭を撫で、部屋を出て行く。
遠ざかっていく足音を聞きながら、アリサはベッドの隅に腰掛ける。
床に届かない足が宙で揺れていた。
すぐに戻ってくる、と思っていたアリサはいつものように待っていた。

 時間の経過が分からない静かな空間で、アリサは扉が開くのを待つ。
しかし、どれだけ待っても扉は開かない。
一度だけ、扉について尋ねた事があった。

 あの扉は大人だけが開けられる不思議な扉なのだと言われた。
「おとな」の意味が分からないアリサにとって、疑問しか残らなかった。
実際に開けてみようとしたこともあったのだが、扉は決して開かなかった。
母の言っている事は正しかったのだ。

「お母さん?」
 零れた声が大きく反響した。
扉に近付いてみるが、向こうからは何も聞こえない。
扉をジッと見つめていたが、ノブを掴んで捻ってみる。

カチャ

 軽い音を立て、扉が狭い隙間を作った。
反射的にノブを離してしまい、扉は音を立てて閉まる。
扉を凝視していたアリサは、再び開いてみた。

 目の前に広がっていたのは、アリサがいた場所よりも広めの空間。
様々な家具が置かれている。
しかし、アリサが見つめていたのは別のものだった。
広い室内は外からの光で照らされていた。
光を辿るように四角い窓に近付いて行く。
手を伸ばすと透明な壁に指先が当たった。
上を見上げると、抜けるような青色が視界いっぱいに広がっている。

「あれは、なに?」

 降り注ぐ光は、母が抱き締めてくれたときのように温かかった。
果てなく広がっている青に不安を感じ、足は自分の部屋へと向いていた。
部屋へ戻り、扉を閉めてベッドに上がった。
膝を抱えて灯りを見上げるが、明るいだけで先ほどのような温かさは感じられない。
ベッドに寝転がって煌々と輝く光を不思議そうに見つめる。
ぼやけていく視界に、ゆっくりと目を閉じた。

 体を揺すられ、薄っすらと目を開く。
いつの間にか眠っていたようで、普段と変わらない母の姿が目の前にあった。
「アリサ、いい子にしてた?」
「うん……」
 頷くアリサに「そう」と短く返した母は、優しく抱き寄せて頭を撫でた。
しかし、アリサは何の反応も見せず、ぼんやりと遠くを見つめているだけだった。

抜けるような青色が、目に焼きついて離れなかった。

【終】

101125



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