「俺は名前に惚れている。この気持ちを偽って君と友人でいることは出来そうにない。早かれ遅かれいつかはこのことに気付いていたと思う」

杏寿郎が改めてそれを伝えても尚、名前は頬を赤らめつつ釈然としない様子だった。
日常を謳歌していた者には知る由もない。
杏寿郎は、名前と今朝別れてから今この瞬間までの短い時間で不可解な出来事を経験し過ぎた。
義勇と名前が知り合いらしきことや、初対面の怪しげな男が名前の名を口にしたこと、如何にもな黒いベンツーーそして極めつけは、手紙を咥えた小さな猫だ。
あまりに非現実的。
だが、これらは紛れもない現実なのだ。
そう呑気に構えてはいられない、と、杏寿郎は一種の焦りさえも感じている。

「貴方の気持ちは嬉しいです。しかし、以前も申し上げましたが……それはただの感情移入に過ぎない。空想上の人物に憧れを抱いているだけです」
「それを確かめる為に今、俺はここにいる。そして確信した。君のことが好きなんだ。文の中の彼女に対する想いとは違う」
「ッ、……で、でも……」

名前に呼応する感情で世界が変わる。
彼女を愛おしいと想い、高鳴る胸の鼓動。
鳴り響く心臓の音を聞いてこんなにもうるさいものだっただろうかと思い返す。
まるで何か思い出すように、何者かの心臓を通じて自身の心臓が震えている。
これは、紛うことなき己の音だ。
これは、自分自身の意思なのだ。
名前は後半何を言っているのかわからないくらいの小さな声でぶつくさと呟きながら、両手で頬全体を覆った。
照れ隠しのつもりなのだろう。
今は何もかもがより一層色っぽく見える。
嗚呼、恐るべし恋。
まるで調子のいいことばかり言っているようにも捉えられるが、杏寿郎はその場の雰囲気や勢いだけで言葉を口走ってしまうほど浅はかではない。
今までだって名前への想いに思い当たる節があったからこそ、いざ自覚したところで疑いの余地などこれっぽっちもなかった。

気まずさが訪れるよりも先に、二人分のシフォンケーキがテーブルに到着。
シフォンケーキにホイップクリームとキャラメリゼされたイモが添えられており、老若男女問わず受けのよさそうな品である。
杏寿郎が食し始めても尚、名前はナイフとフォークを握り締めたまま暫しそれを見つめている。

「食べないのか? うまいぞ!」
「あ、はい。食べます。……いただきます」

実際、シフォンケーキはとても美味しかったがこの時の名前は本来の美味しさを味わえていないに違いない。
眉が若干歪んでおり、ただただ思考を無駄に巡らせていることだけは理解できる。

「そ、それで、煉獄さんは具体的に私に何を求めていらっしゃるのでしょう……?」
「ない。ただ隣に居てくれればいい」
「そんなこと?」
「そんなことがいい」

名前は何故か周りをキョロキョロと見渡すとこちらへ乗り出して顔を寄せ、小声で、

「あ、あの……場所、変えませんか」
「いいだろう! だが、この時間帯では場所が限られるぞ! この店も間もなく閉店のようだな! 店員さんが何か言いたげにこちらを伺っている!」
「そういうことは店員さんに聞こえないよう小さな声で教えてくださいません?」

こうして急くようにケーキを早々と腹の中に収めた二人は、ネオンの光る街中へと再び繰り出すこととなる。


□■


次に訪れたのはまたも洒落た雰囲気の個室。
先程の喫茶店と大きく異なる点はーー二人以外の人間がひとりもいない、ということ。
安っぽくないシックなデザインのベッドと、小さな丸テーブルと椅子ひとつ。
傍らに冷蔵庫とテレビも備え付けられていたが有料らしいので意味は成さない。
杏寿郎は電源の入っていない真っ黒な液晶画面に反射した何とも言えぬ己の顔を見た。

「わぁっ、すごい! 値段の割に素敵なお部屋ですね!」

ケーキを目前に固まっていた先程までの様子からは打って変わり、子どものようにきらきらと瞳を輝かせながら無邪気に笑う名前。
ここは、ホテルの一室。
ホテルはホテルでもビジネスホテルである。
決して恋人同士がいかがわしいこと目的に泊まるような場所ではない。断じてない。
加えて、きっちり別々の部屋を借りている。
無論だ。当然のことである。
今はただ話をする為に彼女がこちらの部屋を訪れているだけで、話を終えたら彼女は眠る為に隣の部屋へと戻るのだ。
疚しいことなど何も考えていない。
本当だ。本当だとも。
ホテル宿泊を提案したのも、終電を逃してしまった名前の方だったし。

「当然のことですけど、椅子がひとつしかありませんね。ひとり部屋ですし」
「ベッドか椅子、好きな方に掛けなさい。俺はどちらでもいいぞ。好きに寛いでくれ」

名前は少し悩んだ後、椅子に腰掛けた。
背もたれにもたれることなく背筋をぴんと伸ばしており、彼女の姿勢の良さが伺える。

「それで? 場所を変えてまでして話したいことがあったのだろう」
「そうですね。時間も時間ですし……早速ですが本題に入りましょう。まず、お付き合いの件ですが」
「待ってくれ。もうその話題か? 心の準備ができていないんだが」
「喜んで受けさせていただきます」
「……うん? それはどういう意味だ? 俺にとって良いことなのだろうか。それとも」
「良いこと……そう、だと思います。煉獄さんが望んでくださるのであれば、私、煉獄さんとお付き合いさせていただきます」
「……」
「あれ? もしかして私、認識を誤っておりましたか?だとすればお恥ずかしい……やはり今のお話は無かったことに……」
「いいや! 誤ってなどいないぞ!正解でしかない!! その通りだとも!!!」
「わっ!?」

思わず前のめりになって肯定する。
訂正せねばという気持ちが先回りし、今し方の発言を帳消しにされないうちに遮った。
今のは何だ?聞き間違いか?
いいや、そんなはずはない。
元より視力の良さには自信があったが聴力も負けず劣らずだっただろう、杏寿郎。
念の為に聞き返すもののあまりに大きな声だったから、名前の小さな身体は驚きのあまり椅子の上でぴょんこと跳ねた。

「本当か!?!?」
「ほ、本当です。そんなに喜んでいただけるなんて……思いもしませんでしたが」

あまりに恥ずかしいのか、途切れ途切れの言葉は拙い。
それでも気持ちを明らかにしてくれた名前に、杏寿郎はつい感極まって握り締めた彼女の手を見下ろし口元を緩ませる。
想いを告げた杏寿郎を前に名前が自ら決断したひとつの選択肢、それがあまりに嬉しくて夢ではないかと何度も耳を疑った。
だけど、夢ではない。妄想でもない。
これは現実だ。紛うことなき現実なのだ。



59 / 表紙
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