鴉が鳴いている。

朝の訪れの報せと共に夢から醒める。
彼女以外の全てに恵まれたこの世界で、新たなる一日が幕を開けようとしている。
目覚めはあまり良くなかった。
寝起きが良いことに定評のある彼が寝床から起き上がるまでにこうも時間を要したことは、今までかつて無い。
少し前までは実家暮らしをしており、万万が一寝坊をしようにも家族の誰かが起こしに来てくれたが、つい最近一人暮らしを始めた彼を起こしに来てくれる者はいない。
ぼんやりと天井を眺めていると、まるで痺れを切らしたかのように、耳元のアラームがけたたましく鳴り始めた。
所謂、これは保険だった。
もし目覚めたくないような夢見でも、半強制的に戻って来られるように。
案の定、彼は嫌々戻って来たのだ。
彼女だけが存在しない、平凡で愛おしい、平和なこの世界へ。

『本日は小春日和でしょう』

画面越しの声を聞きながら、窓の外を見やる。
視線を感じる。
電柱に止まった鴉と目が合う。
昔からそうだった。
自分は鴉と相性が良いらしい。
そんなことを考えながら身支度を整えていると、有機物が過剰に炭化してゆく移り目の匂いを鼻で察知し、彼は思わずーー

「よもや!?」

煉獄杏寿郎の一日は、食パンの焦げた部分をバターナイフで削る作業から始まった。


□■


緩やかな坂道を、立ち漕ぎ自転車で駆け登る。
天気予報士の予報は見事的中。
暦上、初冬にしては、穏やかで暖かな朝だ。
普段は顔にツンと当たって痛い冬特有の澄み切った空気も、この気候では心地好い。
目的地までの道中、杏寿郎は溌剌とした声で道行く子ども達と挨拶を交わしてゆく。

「おはよう!少年!」
「おはようございまぁす」
「うむ!今日も元気そうで何より!だが、このペースでは遅刻してしまうぞ!急ぐように!」

颯爽と職場に到着した杏寿郎は、とにかく目の前のことだけに集中した。
意識的にそうしないと別のことを考えてしまいそうになるから、その隙を与えてしまわぬよう目に見えるものだけに集中する。
忙しさを理由にしてしまえば、余計なことを考えずに済んだ。
実際、彼の毎日は多忙極まりなく、やらなければならないことに際限など無い。
そんな彼でもーー不意に、緊張の糸がぷつりと切れた時に考えるのは、意中の娘のこと。
もっとも、その娘とは、実際に対面したことが無かったのだが。

「心ここに在らず、だな」
「!」

昼休み。
杏寿郎は弁当を片手に、屋上を訪れていた。
忙しない一日のスケジュールの中でも大変貴重とされる、束の間の休息。
この一時間を如何に有意義に過ごすかが重要であるにも関わらず、杏寿郎はもうすでに半分を何もせず空を眺めて過ごしている。
声を掛けてきたのは、彼の同僚だった。
振り返らずとも声だけで分かる。
杏寿郎は柵に両腕を乗せ、空を仰いだまま、真後ろにいるであろう彼の名を呼ぶ。

「宇髄か」
「よぉ、煉獄センセー。地味にぼんやりしやがって、らしくねぇな。どうした?伊黒も心配してたぜ」
「むぅ.....やはり君達の目は誤魔化せないな。これでも上手く取り繕えていると思っていたんだが」
「ばぁか。何年の付き合いだと思ってやがる。当ててやろうか?今、お前が考えてること。アレだろ?この間の、画家の個展」
「.....」

彼ーー宇髄天元は、美術の先生である。
彼の家系は体操選手を始め、体育会系の道を進む者が多く、実際、天元も生まれつきその才に恵まれ、並大抵の運動神経ではなかったが「決められたルートの上を歩くなんざ派手じゃねぇ!」と謎に反発し、真逆の文化系方面へと進むこととなる。
彼とは同じ青春時代を謳歌した昔からの馴染みだったが、偶然にも同じ教職の道を歩み、偶然にも同じ場所で職に就いた。
だが、社会に投げ出された後も彼の破天荒な性格は相も変わらずーー

「そうだ!君が突然授業の一環として生徒全員を無断で連れ出し、大問題となった“あの”個展だな!」
「ありゃあ随分とド派手なことになっちまったよなぁ。ハハ、ウケる」
「ウケないぞ!?君はもう少し周りへの配慮というものを覚えた方がいい!生徒らの美的感覚を磨く一環として、有名画家の作品に触れる良い機会だったとは思うが、事前報告は必須だぞ!」
「や、だってさ。あの画家、ド派手にすげーのよ。個展の前売り券も即完売。あれを逃してたら実物の作品をこの目で拝むこと無く生涯を終えてたろうよ。俺もお前も」
「.....ッ!」

そう言われてしまえば、何も言えまい。
というより、何を言っても無駄だということは重々理解していたので、彼が悪びれなくケラケラ笑って答えるのも想定内だった。
今更それをとやかく言うつもりも無い。
それに、偶然とはいえ、杏寿郎にとってあの個展での出来事は人生において機転となった。
その画家の名は、山本愈史郎。
年齢、経歴、全てにおいて謎に包まれている、日本を代表する超有名な画家である。
身勝手な天元を連れ戻すべく現地に向かわされた杏寿郎は、そこで偶然にも彼と相見える。
杏寿郎の芸術に対する関心は平均並み、愈史郎については名前を知っている程度、そもそも愈史郎は表に出ることを嫌っていた為、彼の容姿を知る由も無し。
相見えた際も、杏寿郎は、個展を訪れていた一般客の一人くらいにしか思わなかった。
ところが、その彼こそが個展を主催する愈史郎だと知ったのは、天元の首根っこを掴み撤退した後のこと。

「まさかあの場に画家本人がいたなんてなぁ。しかもお前、唯一無二の作品を譲り受けたとかほんと意味わかんねぇ。なんで?」
「知らん!」
「だよなぁ。地味に謎だぜ。芸術家ってのは変わり者が多いっつーしな」

愈史郎は杏寿郎の姿を見つけるなり、無言でつかつかと歩み寄り、名乗りもせず、一通の小さな封筒を差し出した。
丁度、L判の写真くらいの大きさだ。
首を傾げつつも反射的にそれを受け取る杏寿郎をその場に残し、愈史郎は一言も発さぬまま姿を消す。
封筒の中身は、美しい女性の肖像画。
愈史郎は、特定の女性「珠世」をモデルとした肖像画を描くことで有名だったが、杏寿郎に手渡された肖像画のモデルは、それとは別の女性だった。
裏面には愈史郎の直筆サインと、モデルであろう女性の名前。
杏寿郎は驚愕した。
人生史上最大の驚きと言っても過言ではない。
何故なら、その女性の名前こそが、杏寿郎が文字の中でしか知らない、実在したかも分からない初恋の相手だったのだから。
この時、杏寿郎はようやく、長年想いを寄せていた相手の容姿を知ることが叶ったのだ。
文字で記された彼女の特徴が肖像画の女性と一致していたこと、加えて、全くの同姓同名であることが大きな決め手となった。

「で、どうすんだ?あれ。売るの?ド派手な値が着くぜ。焼肉奢れよ」
「そんな訳がないだろう!」
「ハハ、冗談。なんたってお前が昔から骨抜きの初恋の女似なんだもんなぁ」
「.....むぅ」
「けどな、入れ込むのも程々にしとけよ。いいか?空想上の人物とは結婚は疎か、触れることさえ出来ねぇんだ。そこからは何も生まれねぇ。そんなことを言っていられるのはせいぜい十代やそこらだ。二十歳(ハタチ)なんてとうに過ぎたアラサーのオッサンが言えたもんじゃねーぞ」

分かっている。
自分でもそう思っていた。
大人がいつまでも夢心地ではいられない。
.....つい最近までは。
彼女が実在するかもしれない可能性が少しでもあるのならば、話は別。

「宇髄。俺はな、諦めが悪いんだ」
「知ってるわ、そんなん。お前がもっと物分りの良いヤツだったら、今頃、見合い相手と結婚してんだろうよ。今でも催促されてるんだろ?親父さんに」
「うむ.....もう何度も縁談を断っているんだが、こればかりは致し方ないな。親心を考えれば、息子の行く先を不安に思うのも頷ける。思い返せば色恋沙汰が家族間の話題に上がったことも無い」
「うわ.....そりゃあ不安だろうな」
「一時期は男に気があるのではないかと家族会議にもなった。弟には、自分が煉獄の名を継ぐから安心してくれと肩を叩かれた。俺は我が弟を心の底から誇らしいと思うよ。まぁ、誤解なんだが」
「やべぇな」

昨夜の自分は、少し、どうかしていたかもしれないなと我ながら思う。
幼い頃、一度は経験があるだろう。
枕の下に見たい夢に連なる物を入れる、そんな幼稚で可愛らしいまじない。
それを、いい歳した大の大人が真面目に実行する、など、酒を飲み交わしながら話すネタにしても笑えない話である。
恥じ入るばかりだが、得たものは大きい。
会えた。
触れた。
触れられた。
例え夢の中であろうと、杏寿郎にとって、あの出来事は真実なのだ。
単なる妄想ではないと信じたい。

杏寿郎は、夢の中で確かに触れた、彼女の肌の感触を思い出す。
柔らかくて、温かくて、少ししっとりとしていたのは汗ばんでいたからだろうか。
もう一度触れたい。
けれど、もしもう一度触れることが出来たなら、きっとまた触れたくなるのだろう。
無論、都合良く夢の中で再び彼女に会えるなどとは考えていない。

ーーきっと、もう会えない。
ーー“夢の中”では。
ーーだから、俺は。


□■


鴉が鳴いている。

放課後、杏寿郎は学校の裏庭にいた。
校舎の裏には大きな山があり、たくさんの木々が生い茂っている。
ここ一帯は春になると、桜ーーによく似た桃の花が咲き乱れる。
だが、見た目は桜そっくりなので、実は桃の花なのだということを知る者は少ない。

鎹鴉が鳴いている。

放課後を報せる、鐘の音が聞こえる。
君と出会う為に生まれ落ちた。
運命論なんてものは都合が良過ぎるし、いっそ君の愛したあの男の生まれ変わりだと言えたら良かったのに、生憎、前世の記憶らしきものは頭の隅から隅まで探しても見つからない。
彼は彼、自分は自分。
同じ人間は二人として存在しない。

それでも「彼」は生まれ落ちる。
これは、嘘のようで、本当の話。



「記憶より深く刻まれた愛」《完》



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