杏寿郎は筆を取る。
畳の上で膝を折り、背をぴんと伸ばして。
書き記しておきたいことはたくさんあるはずなのだけど、いざそれを文字にしようとすると、何も浮かばなくなる。
己の身にいつ何が起ころうとも、後悔しない為に生きてきた。
もし自分に万一のことがあった時、誰に何を言い残そうか、なんとなしに決めていた。
だが、どういう訳かーーただ一人、名前への言葉だけが何も思い浮かばないのだ。
不思議なことに、これっぽっちも。
ずっと共に在りたいと思う願望が、絶対に離れてやるものかという執念が、彼をそうさせているのかもしれない。
杏寿郎は、気持ちを切り替えるべく目の前の用紙を退け、別の用紙を机に広げる。
傍らの封筒にはもうすでに送り先の宛名が記されており、その名はーー


□■


聡明で、意志が強い。
杏寿郎の弟・千寿郎が、まだ顔も知らぬ娘に対して抱いている印象がそれである。
ここのところ兄の手紙に必ずと言っても過言ではない「苗字名前」という名の娘。
彼女は一体何者なのか。
鬼殺隊員ではなく、任務の為に共にいるのだといつかの文に記されていたが。

かくいう彼も鬼殺隊員ではない。
代々鬼狩りを家業としてきた煉獄家の次男として産まれた千寿郎は、物心つく前から刀を握っていたし、鬼殺隊に入隊すべく、幼き頃は元・炎柱であり実の父親でもある槇寿郎から直々に指導を受けていた。
だが、彼が日輪刀を手にした時、刀は色を変えなかった。
才があれば色が変わるとされる日輪刀。
それが変わらなかったということは、つまりはそういうことなのだ。
鬼殺隊に入隊し、今や“柱”にまで登り詰めた兄と自分を比較しない日はないが、兄はとても素晴らしい人間だったので、心から尊敬し、そうなりたいと常々考えていた。
そんな、強く、優しい、自慢の兄ーーの様子がここのところおかしい。
と、言うのも。
杏寿郎は多忙を極めており、普段は家を留守にしていたので、二人はこまめに文を書いては鴉を飛ばし合っていた。
その文中に突如現れた、名前の存在。
始めは興味深いなどと口にしており、特別な意味合いなどないように感じたが、徐々にその色味が変化してゆくのを千寿郎は見逃さない。
千寿郎は、鋭かった。
心から尊敬する兄のことならば尚のこと。

『兄上は名前さんを好いておられるのでしょう』

ある日、千寿郎は意を決して、一歩踏み込んだ質問を投げ掛ける。
内心ドキドキして仕方がなかった。
あぁ、こんなこと聞いても良いのだろうか。
気分を害されたらどうしよう。
例えその相手が血の繋がった実兄であろうと、失礼なことを聞いてもいい理由にはならない。
杏寿郎からの返事を待つ間、千寿郎はそんな不安の渦中にいた。
思いのほか、返事はすぐに帰ってきた。

『的確な指摘に我が弟ながら感心してしまったが、恐らくはそうなのだろうと思う』
「.....!」

文を両手で握り締めながら、千寿郎は思わず、ぴょんと跳ねてしまった。
まるで、流行りの恋愛小説でも読んでいるかのような気分である。

『しかしながら、この好意が如何なるものであるかが自分には分からず、今も考えあぐねている』
「そ、それは完全に異性への“それ”ですよぉ。兄上.....!」

と、若干もどかしい気持ちになりながら。
こうして文を交わしてゆく度に募り、募る。
手紙の数だけ、名前への想いが。
それは淡い恋心だけに留まらず、時には嫉妬心や執着心、残機の念ーーそれらが滲み出るような文面の数々であった。
まるで、本人には宛てられぬ恋文のように。


□■


「兄上には、ありのまま全てを曝け出せるような方に出逢って欲しいと願っておりました」
「勿論、兄上が弱いなどと考えたことはありません。今までにたった一度も。.....しかし、不意に思い出すことがあるのです」
「兄上は覚えていらっしゃいますか?兄上が炎柱へと昇格された日のこと。父上にご報告をされた直後、兄上が俺にかけてくださった言葉は今でも心に強く残っております」
「.....寂しくとも、と。兄上は、最後にそう仰いましたよね。あれこそが、兄上の本音であり、初めて俺の前で口にした弱音だったのではないかと思うのです」
「我ながら不甲斐ないと思いますが、俺では兄上の支えにはなれない」
「兄上は、年の離れた弟である俺の模範になろうと、いつも努めてくださってますよね。強くて、優しくて、人を正しい道に導けるような.....まるで太陽のような兄上を俺は心から誇りに思っております」
「しかし、同時に.....不安でもあるのです」
「どんなに強いお方でも何か寄りかかれるものが無くては、いつか崩れてしまう。.....母上亡き後の、父上のように」
「兄上は強いお方ですから、例え崩れてしまいそうな手前でも、歯を食いしばって、前を向くのでしょう。そのお姿が時々.....痛々しくて。こんなこと.....絶対に言えませんけれど」

ある昼下がりーー今日も鎹鴉は文を届ける。
千寿郎はそれを手に、胸の内を吐露する。
誰に聞かせる訳でもなく、誰に聞かせるつもりもなく、思わず口をついてしまった。
この文を読んでしまったら、言わずにはいられなかった。

「この手紙は.....兄上が好いている、名前さんが読むべきです」
「いつか、兄上がその方と共に此処を訪れる日が来るまで、俺が大切に取っておきます。これまでに届いた、兄上からの手紙と共に」

一度だけ読んだっきり、千寿郎はその手紙の封を再び閉じてしまった。
次に開く時は、三人が良い。
千寿郎と、杏寿郎と、それからーー名前。

手紙とは、文字とは、人の想いの表れ。
例えその者が死に何十年何百年と経とうとも、永遠に形として遺るもの。
いつ自分の身に何が起ころうとも、自らの言葉として世に残すことが出来る。
ゆえに、人は今日も筆を取るのだ。
変わらない何かを遺す為に。





「手紙」《完》



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