※R15


とてつもなく罪深いことをしている、という自覚はあった。

「ん.....ッ」

手のひらに勢いよく吐き出された白濁色の欲をぼんやりと見つめながら、杏寿郎は、乱れた呼吸を整えるべく肩を大きく上下させる。
ここは厠。
彼は、我慢ならなくなった時にこうして狭い個室へと駆け込み、自らの手で処理していた。
想いを寄せている名前のあられもない姿を思い描き、少し扱いてやれば、事は簡単に済む。
我ながら滑稽だと思う。
炎柱ともあろう者が。
こんな姿、決して誰にも見せられない。
しかし、どういう訳か杏寿郎のそれは一度達したにも関わらず、衰えを見せない。
それどころか、むしろこれはーー

「.....よもや」

杏寿郎は若かった。
人間の性欲は男性ホルモンに支配されており、生物学的な観点からすれば、齢二十の男性は性欲が高いとされる時期である。
生活環境、心境の変化、これらが加わることによって杏寿郎のそれは頂点へと達していた。
つまるところ、名前の存在が彼の欲をこうも駆り立てている。

「俺もまだまだ未熟だな!」

彼は弾むような声で、且つ、厠から突然大声が聞こえてくるのはあまりに奇妙だと客観的に思ったので、音量を最大限落として口にした。
これはもう、致し方ない。
男ならば誰しもが起こる自然現象なのだから。
.....と、最もらしい理由を付けて誤魔化し続けているのだけど、こればかりは「そうじゃない」ということくらい、杏寿郎が一番よく理解している。
夜な夜な密やかに行われているこの行為は、もう何日と途切れることなく続いていた。
さすがにこれはどうなんだ。
やり過ぎではないか。
このままでは種が出尽くして、枯渇してしまうのではないだろうか。
そんな、ありもしない不安が頭を過ぎる程度に杏寿郎は困惑していた。
こんなことは初めてだから、どう対処したら良いのか分からない。
そして何より、名前とどんな顔をして接したら良いのかが分からない。
こんなことをした直後に顔を合わせるなど以ての外なので、杏寿郎が自慰をする時は、決まって皆が寝静まる頃だった。
丁度、任務に向かう手前の時刻である。
こんな状態では闘えない。集中できない。

ーーやはり、全て出し切ってしまおう。

杏寿郎は再び、未だ膨張した欲望の塊を手に取ると、とにかく今は手早く終わらせてしまうことを優先した。
想像の中の君を汚してしまうことを、どうか許して欲しい。
罪悪感は否めないが、例え杏寿郎ほどの精神が鍛え上げられた者であろうとも、この世にはどうしようもないものが存在する。

「ッ、.....はぁッ」

名前を呼ぶ。
ここにはいない愛おしい名前の名を、何度も何度も口にした。
情けない話である。本当に。
自分はいつからこうなってしまったのだろう。
杏寿郎は、自分がこうなってしまう前のことを思い出そうとしたものの、一度意識し始めてしまうと、どうしても、たった数日前の感覚でさえ思い出すことができなかった。
名前と出逢う前は、こうではなかっただろう。

ーー俺は.....どんな人間だっただろうか。

彼女と出逢って、俺はーー我ながら本当に変わってしまったな、とつくづく思う。


□■


「どんなァ?.....あー、そうさねぇ」

と、顎をさすりながら首を傾けるのは天元。
今宵は、彼との共同任務だった。
周辺の雑魚鬼を片付ける、よくある任務。
目撃情報を聞き付け訪れたはものの、その姿を捉えることができず、ひとまずは待機。
草むらで大の大人二人が身を屈め、様子を伺っているのが現状である。

「俺はお前が怖かったよ」
「!?」

想定外の言われように、杏寿郎は驚愕した。
自分は現役の“柱”の中では比較的若く、加入も後であったし、まさかこの恐ろしくガタイのいい大男に「怖い」などと言われるとは思わなんだ。
相変わらず口端は上がっていたが、眼をぱちくりとさせる杏寿郎。
それを見た天元は、ズビシッと人差し指の腹を杏寿郎へと勢いよく突き付けた。

「地味に勘違いすんじゃねぇぞ。俺様はビビってる訳じゃねぇ!要するに、コイツやべーなって意味」
「むぅ!ヤバいとは!?」
「正義感がド派手に強ぇ。お前さんが口にすることはいつだって正論だが、伝え方に問題があんだよ」

正論ーーそれは人を守る盾にもなるし、時として人を傷付ける刃物にもなり得る。
事実は雄弁だ。揺るぎない。
そして何よりも実直なのが杏寿郎だし、それを愚直とは思わない。
同志は、そんな杏寿郎の人柄を理解していた。

「そんなお前だったからこそ.....そりゃあ、誰だって驚くだろーがよ。半鬼の娘を連れて歩くようなことになるなんてなァ」

ま、ド派手に安心しな、大方のヤツらは納得してるぜ、不死川は未だにキレてっけど。
そう言って、ガハハと豪快に笑う天元。
対してワハハと返す杏寿郎。これまた豪快。
皆を驚かせてしまったことは申し訳ないが、実のところ彼自身が一番驚いている。
己の心境の変化を。

世の中には「変えられるもの」と「変えられないもの」の両方が存在する。
前者は、本当は自分自身の力で変えてゆくことができるものなのに、それを成すには想像以上の気力と思いきりが必要である。
普段と同じ。
未来永劫続く日常。
変わらないことへの安心感。
これは、人がこの世に生を受け、産まれ落ちてから大人になっても、無意識に求め続けているものである。
それが心の平穏に繋がるのならばある程度の不変は必要だが、変化しなくては新しい景色は見えてこないし、成長できない。
ほんの少しの小さな変化を受け入れることができたら、その先には、想像以上の素晴らしい世界が広がっているかもしれない。
事実、杏寿郎がそうだった。
鬼という存在を受け入れた。
結果、今、新しい価値観を抱いている。
家族とも同志とも違う、きっと変化を受け入れなければ一生知り得なかった大切なものを、杏寿郎は得た。
それが、全てーー良いこととは限らないが。

「本当に.....罪深いなぁ」

鬼が現れ、対峙する杏寿郎が一言だけそう呟いた言葉を、天元の地獄耳は拾っていた。
振り返れば、彼の広い背が目に映る。
風に靡く炎柱の羽織りは大きく広がり、はためいて、だが、実際、彼の背は果たしてそれ程までに大きかっただろうか。
不意に、杏寿郎が柱へと昇格した日のことを思い出す。
羽織りを着ていない杏寿郎の姿。
もう久しく見ていないが、彼は確かに、自分の只人を逸した背丈よりも遥かに華奢だったような気がする。


□■


彼は、年齢の割に何処か達観した価値観を持つと同時に、とてつもなく幼かった。
疑いもせず、物事をありのまま真っ直ぐにしか受け止められない。

「そーいうとこだよァ。あの二人、仲良く揃って馬鹿真面目でさ。だから惹かれ合ったんだろうけど。多分」

けど、真面目過ぎるから駄目なんだよ、と、天元が愚痴のように語るのを、三人の嫁は顔を見合わせて聞いていた。
詳細は聞いていないが、蝶屋敷へと見舞いに行くらしい。
今から見舞う怪我人への不服を口にするのも如何なものかと雛鶴が窘めるが、それでも天元の尖った唇はすぐには元に戻らない。

「なんか無いかねぇ。あの、無駄に硬ぇ殻を破るような切っ掛けとか」

実は面倒みが良く少々お節介なこの夫の性格をよく知る、よくできた妻たちは、この後、中身を告げず見舞いの品に「女閨訓抄」を持たせる、という、また違った意味でのお節介を焼くことになるのだがーーそれはまた別のお話。





「煉獄杏寿郎という名の男」《完》



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