早朝、彼は見慣れた通勤道を歩いていた。
普段使っている自転車が前触れなく故障してしまい、やむを得ず徒歩で通うことになったからだ。
歩くのは嫌いではない。むしろ好きだ。
仕事柄運動する機会はあまりないが、元より身体を動かすことは好きだったし、竹刀の素振りは毎朝欠かさない習慣だった。
今朝は徒歩に時間を費やす分、通常より一時間も早く家を出ているが、うっかり昼食の弁当を忘れて来てしまったことに今し方気付いたばかりである。
朝から開いている店は少ない。
コンビニあるいはパン屋くらいだろうか。
昼食を調達せねばと思い立った矢先ーーとある店の前を通り過ぎた瞬間、鼻腔を満たす焼き立てのパンの匂い。
普段ならば自転車で颯爽と駆け抜け見過ごしてしまっていた、小さなベーカリーだ。
彼は思う。たまにはパンも悪くない。
どちらかと言えば、米派なんだが。

「失礼します!」

カランカラン、と軽快な鈴の音の後に、眠気や憂鬱さの欠けらも無い溌剌とした声が小さな店内へと響き渡った。
店内には数名の客。パンを並べている女性は恐らくこのベーカリーの店主らしい。
何処かで見覚えがあるような気がして彼は記憶を辿ろうとするものの、所狭しと並べられた美しいパンの数々に目を奪われ、完全にそちらへと気が向いてしまった。

「とても美味しそうですね!」
「ふふ、ありがとうございます。季節限定の新作がまだ焼き上がっていないの。今、息子が裏で頑張って生地を捏ねているところなんですよ。ごめんなさいね」
「いえ!お気になさらず!俺も早く来過ぎてしまったので!次回の楽しみに取っておきます!」

彼は、今並んでいるものの中でのイチオシを女性店主に問うた。
無論、昼食を買うという本来の目的を忘れた訳ではないが、朝食をしっかり摂っていたにも関わらず彼は香りにつられ腹が減ってしまい、本日二度目の朝食を考えていたところだった。

「フレンチトーストはお好きですか」
「ふれんちとーすと!」
「えぇ。使われている食パンはうちの長年の看板商品なんです。注文をいただいてから焼いているので、出来立てほやほやを召し上がれますよ」
「それはとても美味しそうだ!是非、お願いします!」
「かしこまりました。では、今すぐ裏で焼いてきますね。イートインスペースでお待ちください。うちの店は小さいから、席数が少なくて申し訳ないのですが」
「どうぞお構いなく!コーヒーでも飲みながらお待ちしてます!」

そういう訳で、彼は追加注文したホットコーヒーを片手にイートインスペースへと向かう。
店に入って奥の方、少し歩いた先に向かい合わせの席が二組、五名程が並んで座れるカウンター席が設けられていた。
一人でテーブル席を使うのは団体客に申し訳ないので、彼は迷うことなくカウンター席へ。
席に着くなり、ミルクもガムシロップも入れていない黒い液体をひと口啜る。
この店では香り、苦味、酸味に至るまでバランスの取れた正統派な豆が使用されており、どの系統のパンとも合うようにというこだわりが感じられる。
通の人から言わせると「分かっているなぁ」と唸る場面であるが、舌があまり繊細でない彼にはそれを見抜くことができない。
うまい!と、単純かつ明白な感想のみ心の内で言い放つと、正面に張られた大きなガラス越しの風景を眺めながら、今日これから始まる一日に思いを馳せていた。

大して変わり映えのない、だけど、平和で平凡な一日が今日も始まろうとしている。

「……そうだ!小テストを作って行こう!眠気覚ましにちょうど良い!!」

なにせ本日は月曜日。憂鬱だと感じている生徒も少なからずいるかもしれない。
彼は白シャツの袖を捲ると、鞄から分厚い教科書を取り出そうとしたのだがーーうっかり手を滑らせてしまい、掴み損ねた教科書は重々しい音を立てて床へと落下した。
それはもう大層大きな音だったので、うたた寝していた老人は驚いて目を覚まし、スーツ姿のサラリーマンからは冷ややかな目を向けられてしまった。
穴があったら入りたい、とはまさにこの事。
若干苦笑いを浮かべつつ、彼は落し物を拾うべく屈んで手を伸ばす。

「あの、お兄さん」
「……うん?」
「後ろです。後ろ」

なんとも新鮮な呼ばれ方である。
まさかこの歳にもなって身内以外から「お兄さん」などと呼ばれるとは思わなんだ。

「上着、落としましたよ」

どうやら身を屈む際、背もたれに掛けていた上着がずり落ちてしまったらしい。

「なんと!ご丁寧にありがとうございます!」
「いえ、お気になさらず。汚れていないといいのですが」

そんなやり取りを交わしつつ身体を持ち上げ、彼は声の主と目線を合わせる。



「……!」



一瞬、声が、音が、出なくなった。
彼はきょとんと目を丸くさせる。
声の主ーーその娘がとても美しかったから。
いや、勿論それもあるのだが、それ以上に。
……似ている。とてつもなく似ている。
いや、似ているどころの話ではない。
彼が思い描く彼女の姿そのものなのだ。
まるで“あの絵画”からそっくりそのまま飛び出してきたかのような、それ程までに。
彼女を目にした途端、彼は世界の全てが止まったかのような不思議な感覚を味わう。

「どうされましたか。“煉獄さん”」
「……」
「……あれ?」

今度は彼女が目を丸くさせる番だった。
初対面であるはずの人物の名を呼び当ててしまったからだ。
見間違いようのない珍しい風貌。
言い間違いようのない珍しい苗字。
そんな自覚が、彼ーー杏寿郎にはあった。
故に、まさか他人の空似などということは有り得ないはずなんだが。

「あっ、その、えーと……なんだか私、怪しい人みたいですね?」

そう言って、困ったように微笑む彼女。
その笑顔を前に彼はーー何も言えなかった。
胸がぎゅうと締め付けられて息苦しい。
声も、“あの夢”で聞いた時のまま。
変わらない。
有り得ない。
信じられない。
だが、目の前にいる彼女の存在が確かであることは紛れもない真実だ。

この時、杏寿郎は目を覚ます。
ようやく本当の意味で『目覚めた』のだ。

しばし固まったまま顔を見合わせる二人。
そこへ焼き立てのフレンチトーストを片手に持った女性店主がやって来て、彼女の背へと親しげに声を掛ける。
どうやら彼女はこの店の常連客のようだ。

「あら、苗字さん。そろそろ時間ね」
「! あ……はい。今、出ようとしてて……今日も美味しいコーヒーご馳走様でした。また来ます」
「えぇ。いつでもいらしてね。待ってるわ」
「勿論です。新しいスタンプカードも今週中に埋まりそう」
「たくさん通って下さっている証拠ね。今度は息子たちにも顔を出させるから」

慌てて振り返り反応したものの「苗字」と呼ばれたその女性は明らかに動揺しており、それでも杏寿郎に覚えは無いらしい。
事実、杏寿郎もそうだった。
彼女とは初めて会った。ーー現実では。
だけど、もし、本当にこの娘が、杏寿郎の長年想い続けてきた相手ならば、その名は。

「名前」
「!」

たった今、確信した。
彼女の名は『苗字名前』。
紛うことなき『苗字名前』である。
杏寿郎はにっこりと満面の笑みを浮かべると、飲み掛けの残り全てのコーヒーを一気にぐいと飲み干し、教科書を開くことなく再び鞄の中へとしまい込む。



「ーー“おはよう”!」
「ッ!」



その、たった一言が言いたくて、俺は今の今まで生きてきた。
それこそが、己の存在意義。
記憶よりも深い場所にそう刻み込まれている。

「……その、フレンチトースト。持ち帰りは出来ますでしょうか?」
「え? えぇ。勿論出来ますけど……あら、もうそんなお時間ですか。お忙しいのですね」
「必ずやまた来ます!今度はたくさん時間が取れる時に!」

杏寿郎は、包んでもらったフレンチトーストと領収書、それからスタンプカードを受け取ると、ベーカリーを出る。
スタスタスタと軽い足取りで歩く。
蜂蜜の香りを辺りに漂わせながら。
だが、彼が取り繕えたのもほんの僅か。
店から少し離れた地点まで行くと、杏寿郎は一気にぶわりと何かが込み上げてくるような感覚を覚え、堪らずへなへなとその場にしゃがみ込んでしまった。
熱い。顔が熱い。耳まで熱い。
口元を手で覆うものの口端が緩むのを意識せずにはいられない。
焼き立てフレンチトーストを代償にして、杏寿郎は逃げるように店を出た。
だらしない姿は見せられない。
見せたくない。こんなにひどく赤面して。
あの場で耐え切れると思っていたのだ。
それなのに彼女が、あの綺麗な声で、俺の名前を呼んだりするものだから、つい感極まってしまって、名前への気持ちが溢れ出してーー

「……よもや、これがヘタレというものか」

宇髄にはそう言われてしまいそうだ、などと考えられる程度には頭が冷えてきた。
杏寿郎はようやく立ち上がる。
後ろ髪引かれる思いであるが、仕事を投げ出す訳にはいかない。

今日はまず抜き打ちの小テストを行おう。
ブーイングを受ける予感はあるが。
午前は歴史の授業。
お昼にはフレンチトーストを温め直して。
午後は担当の授業がなかったから、朝の小テストの丸つけや事務仕事を片付けてしまって。
もし早めに終えられるようならば、帰りにあのベーカリーへと立ち寄ろう。
自転車の修理はまた今度でいい。



「名前」

君と出会う為に生まれ落ちた。
運命論なんてものは都合が良過ぎるし、いっそ君の愛したあの男の生まれ変わりだと言えたら良かったのに、生憎、前世の記憶らしきものは頭の隅から隅まで探しても見つからない。
彼は彼、自分は自分。
同じ人間は二人として存在しない。

それでも「俺」は生まれ落ちた。
これは、嘘のようで、本当の話。
夢の果てで再び巡り会えた、二人の物語。





再開幕「おはよう」



345 / 表紙
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