何もかもが覚束無い場所にいた。
遠くで誰かが泣いている。
近くで何か音がしている。
この声は、
この音は、
名前はどちらにも身に覚えがある。
ザラザラと嫌な音がして、このひび割れはきっとーー“彼”の傷口だ。

「頭がいかれているとしか思えない」

そんな憎まれ口から彼の話は始まる。
開口一番それか、とうんざりもする。

「自己犠牲の精神とは、即ち、自己否定の美徳化だ。ただ自分に酔いしれたいだけの自己満足としか思えない。死んだらそこで全てが終わる。その先を見ることは叶わぬというのに、何故、自分のいない未来の為に自己の命を投げ打てるのか」

理解出来ない、と彼は言った。
まるで吐き捨てるように、忌々しげに。
こうして蔑み、下に見ておきながら、やけになって否定したがるのは一体何故か。
答えは単純。
真逆の考えを持つ自分を肯定したいからだ。
自分は正しい、間違っていないことの裏付け、根拠付けをしたいのだと思う。

「生きたい」

えぇ、分かりますよ、その気持ち。
皆がそう思っている。
私だって生きたい。“あの人”と共に。

「その為ならば他者がどうなろうと構わない」

それは違う。間違っている。
確かに、世の中の平和は何かの犠牲の上に成り立っているものだけど、少なくともあなたのような考えは何かを成すことも出来ないよ。
私は知っている。
誰かの為に命を賭けられる人の尊さを。
だけどそれはあまりに儚くて脆く、危うい。
行き過ぎた自己犠牲の精神が自分へと向けられた時、あの人自身がそれを心から望んだとしても、私はそれを望まない。
あの人もそれを理解していたが、それでも、人を想う気持ちは損得では無く、理屈云々の話ではないのだ。


□■


夢の中で名前は目を覚ます。
目覚めた直後にも関わらず、意識はやけにハッキリとしていた。
床に手を付き身体を起こす際に、手のひらに伝わる特有の弾力性とイグサの香り。
ここは畳の部屋らしい。
風を感じ、そちらへ目を向ける。
ほんの少しだけ開いた襖の先には、上品かつ繊細な美しい自然の景色が広がっていた。
一帯に白砂が敷き詰められ、所々に前栽、大きな池の真ん中には築山と呼ばれる中島があり、朱色の立派な唐橋が架けられている。
大正時代とは明らかに異なる風景だが、何処と無く産屋敷邸に似ているような。
名前はその場から立ち上がろうとして、身体がとてつもなく重たいことに気付く。
.....いや、身体というより、身体に何か纏わり付いている?
視線を下げると、名前は布が幾枚にも重なった服に身を包んでおり、成程、どうりでこれでは物理的に重たい訳だ。
と、いう訳でーー

「あぁ!脱いでしまわれたのですか!?」
「?」

さっそく脱ぎにかかる名前だが、やって来た女に見つかるなり止められた。

「何やっているんですか、あなた!これから大事なお見合いでしょう!」
「ぅええ!?」

ーーお見合い!?どういうこと!?

思わず変な声が出てしまった。
だってあまりに急だったから。
名前は瞳をぱちくりと瞬かせ、ここに至るまでの経緯を遡ろうとするのだけど、どうにも頭の回転が悪い。
思考と共に動きを止め固まってしまった名前の肩に、せっかく脱いだ重たい布が再び被せられてゆく。

「駄目ですよ、名前様。確かに普段は着慣れないかもしれませんが重たくても我慢です。なんせこれからお目にかかるのは高貴なお方なのですからね」

まるで幼子をあやす様な口振りで、女は名前をそう諭した。
高貴なお方?ーー誰???
ともなればやはりお館様だろうか。
だが、彼はすでにあまねと縁を結び子をもうけているし、まさか天元のように第二夫人を受け入れようとしているとも思えぬ。
そもそも見合いの話など聞いていない。
そんなことはありえない。
ならば、今これから私が見合おうとしている相手は一体誰なの。

「名前」
「!」

名前を呼ばれ、振り返る。
その声を耳にした途端、鼓動は早くなり、それでいてぎゅうと締め付けられるように息苦しくもなった。
ドクン、ドクン
この声を私は知っている。
もう久しく聞いていなかったが、“何百年”と。
例え脳が忘れていても身体が覚えていた。
私がこの世に生まれ落ちた瞬間、誰よりも先に名を呼び、無償の愛を注いでくれた人。

「お母.....さん?」
「あら、なぁに。どうしたの。そんなふうに驚いた顔をして」

顔はーーあまり似ていない。
名前は父親似だったから。
名前の母親は可愛らしく、動物で喩えるならば子狸のような人だった。
それでもすぐに彼女を母親と認識したのは血の繋がり故か、不思議なものである。

「まさかあなたがこの縁談を受けるとは思いもよらなかったのだけど、どういう風の吹き回し?男っ気が無いと言われていたことを根に持っていたのかしら。なんにせよ母親としては嬉しいことだわ。あなたの人生に連れ添ってくれる殿方が現れたんだもの」

名前の母はそう言って微笑むと、すぐ近くまで歩み寄り、きょとん顔の名前の頬に手を添えた。

「やっぱりあの人の子ね。我が子ながら美人だと思っていたから、似合ってるわよ。とても」
「.....」

唇が震えて、上手く声が出ない。
言いたいことはたくさんあったはずなのに。

ーーねぇ、お母さん。私好きな人ができたの。
ーー煉獄さんって言う人なの。凄く素敵な人。
ーー今の今まで、もう長い年月、私は清らかな身体であり続けたけれど.....それももう、良いのかなぁ。
ーー私、彼には全てを捧げたいの。
ーーまだ.....結婚は出来ないのだけれど。
ーー煉獄さんが責務を全うするまで、私は彼のことを待ちたい。

「好きに生きなさい」
「!」

ふわりと包まれる感覚にハッと我に返ると、名前は母に抱き締められていた。

「確かにあなたは長女だけど、一人で責任を背負うことはないの。私があなたに結婚して欲しかったのは、責任感の強いあなたを支えてくれる人がいて欲しかったから。親はいつまでも傍にいてあげられないから。.....いつかは置いて行ってしまうから。あなたがどうか独りぼっちになりませんように。いつまでも幸福であり続けますように」

だから、あなたが心に決めた人であれば今日のお相手の方でなくたっていいのよ。
最後にそう言い残し、気付いた時には母の姿は消えていた。
それでも確かに残された母の温もりが今も尚身体に染み付いていて、離れない。
あぁ、何故、どうして。
咄嗟に言葉が出てこなかった。
そんな不甲斐ない自身に腹が立ち、言葉の代わりにぽろぽろと涙が零れ落ちる。

そして、暗転。

「これは、あったかもしれない万一の話」

名前の目の前に、彼はいた。
彼は裾の長い装束に身を包んでおり、束帯の色は黒、髪は胸元まで長く伸びている。
その美しい顔立ちは相も変わらず。
少し癖のある髪は緩やかに巻かれている様にも見えるので、恐ろしく美しい女性ではないかと一瞬見惚れてしまった。

「お前があの縁談を受けてさえいれば、少なくとも鬼になることはなかった」
「.....無惨」

彼ーー無惨は、名前の記憶にはない異なる姿をしていた。
背格好もそうだが、何より、目が違う。
瞳孔の開いた紅い鬼の目をしていない。
すっと切れ長の目は髪色と同様に黒く、それでも光は灯っていなかった。

「かつて人間だった頃、私はお前が欲しかったらしい。我がことながら実に愚かだと思う。私は人間の身で出来うる限りのこと全てを実行し、叶えてきた。欲しいものも手に入れた。たった一つを除いて」

彼は語る。
過去、そして現在の話を。
名前のたったひとつの選択が、結果として後の多くの人生を奪い、歪めてしまった。
これは、彼女の後悔の物語である。



226 / 表紙
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