高台にある小さな村で評判の娘・苗字名前は、ある日二度目の地獄を目の当たりにする。
前触れなく訪れた、鬼の襲来である。
彼女は、鬼が大嫌いだった。
この世で一番、何よりも。
何故なら、いとも簡単に、平然と、大切な存在(もの)を奪うから。
実はこの美しき娘・名前、今より二年前の鬼の襲来によって、最愛の父親を亡くしている。
「人を殺める鬼なんて......この世から消えてしまえばいいのに......ッ!」
憎悪の炎は、その対象である鬼に捕らわれても尚、消えることはなく。
ごおごおと音を立てて燃え続ける。
例えここで命果ててしまおうとも、
最期まで鬼に負けない。
媚びない。屈しない。
亡き父のことを想いながら、人より前向きな性格が取り柄の名前でも、さすがに死を覚悟したという。その時ーー
「あぁ、実に美味しそうな娘だ。その肉体もさぞかし柔らかく甘いのだろう。なんという美しい輝きの魂......鬼の生涯でひとり出会えるかどうかの代物だ」
現れたのは、他の鬼とは比べものにならぬほどの美しい鬼。
中性的な顔立ちに、優雅な立ち振舞。
それは、大の鬼嫌いな名前が思わず見惚れてしまう程。
「それ程の魂に加え美しい容姿を兼ね揃えているというのに、唯一、人の身だということだけが悔やまれる」
「......バカにしないで。私は、人であることを誇りに思っているのだから」
「なぜ、人にこだわる」
「こだわり以前に、私は貴方たち鬼が死ぬ程嫌いなの。今すぐ消えて」
「強気な女よ」
美しき鬼はくつくつと笑うと、まるで舞を舞うが如く、すっと右の手のひらを突き出し。
「気に入った」
「......ッ!」
刹那、衝動。
鬼の手から放たれた触手には鋭い牙が生え揃っており、名前の首元に勢いよく喰らいついたのだ。
「ここで殺すには惜しい。私の血を少しだけ分けてやろう。お前の存在は”人”であってこそ意義がある。完全な鬼にならぬ程度......ふふ、加減が難しいな。さしずめ、これでお前は半鬼半人といったところか」
「ッ、......!」
「苦しいか?じきに慣れる」
「......ち、違う......こんなもの、父を亡くした時に比べたら、痛くも痒くもない......ッ」
「では、なぜ泣く?」
「......なぜ?決まってるでしょう!?人でなくなるくらいなら、私は今すぐここで自害してやる......ッ!!」
「そうか。鬼になるのが死ぬ程嫌か。だが、お前がどう思おうと知ったことか。どうせその体では自害など出来ぬ。......普通の鬼とは違い、治癒力はそう高くはないが」
禍々しい何かが触手を通じ、名前の血管へと否応なしに送り出される。
ドクン、ドクン、ドクン。
やがて役目を終えた触手はパッと離れ、ズルズルと地を這って主の元へと還っていった。
「娘、歳は」
「......」
「答えなければ完全に鬼にしてやる」
「......十九」
「成程」
「何が!」
「食べ頃まであと一年」
「......ッ!?」
「なに、鬼を創るのにもちょうど飽きてきたところだ。先の楽しみを作っておくのも悪くない」
鬼の言動ひとつひとつが、まさに火に油を注ぐようなもの。
どんなに怒ろうと、憎もうと、只人は鬼を倒すことが出来ない。
名前は己の柔弱さを呪いながら、全身を巡る血液と共に、憎き鬼の血が行き渡ってゆくのを感じていた。
ーー今すぐこの身を引き裂いて、その血を全て撒き散らしてしまいたい!
ーー親のかたきである鬼の血がこの身を流れているという事実が、酷くおぞましい!
だが、どんなに名前が意を決し胸に刃物を突き立てようとーーまるで何事もなかったかのように、傷は綺麗に完治された。
□■
こうして名前は、半鬼になった。
完全な鬼でもなく人でもなく、どっちつかずのあやふやな存在。
鬼の血によって不老となり、名前が齢二十を迎えたのを機に、容姿がそれ以上老いることはなくなった。
鬼は皆こぞって我先に、名前を食べようとした。
名前の、美しい輝きを持つ魂は、鬼を否応なしに引き寄せる。
己の運命を呪いながら、それでも決して命を絶つことも叶わず、例え殺されてしまうのだとしても、最愛の父と同じように鬼に喰い殺されるのだけは嫌だった。
今宵も名前は、夢を見る。
今は亡き家族の姿を、それがまやかしだと知りながら、幻に縋る。
名前はまだまだ若かった。
ひとりで全てを抱え込める程の器に、彼女はまだ至っていなかった。
夢を見る。また、夢を見る。
いつの日か自分がそこへ行ける日を夢見ながら。
例え、その日がこの先決して訪れないことを知っていたとしても。
これは、鬼を憎む美しき娘と、炎を司る柱の物語である。
前略、極楽と地獄の狭間にて