その頃、名前は夢を見ていた。
家族で過ごした幸せな日々。
夢でしか見れない過ぎ去りし時間。
家族を求めてやまない、名前の潜在的意識が見せているのだろう。
夢は、願望の表れ。
だが、夢はいつだって見たいものばかり見せてくれるわけではない。

父はよく、茶を好んで口にしていた。
華やかな香りのする茶だった。
地主の苗字家本家に生まれた父。
次男であったがゆえ、広い土地と本家の名を継ぐことは無く、そもそも自由奔放な性格だった父はしがらみ自体を嫌っていたが、この茶の煎じ方だけは本家直伝のものにこだわっていた。
名前も物心ついた時から、この茶を飲んで育ってきた。
父が死んだあとも、仏壇に供えてやるのはこの、薄紫がかった茶だった。

ーー「良い加減に生きなさい」

不意に、父の言葉を思い出す。
ここで言う「良い加減」とは怠ける方の意味合いではなく、程よいさじ加減でということだ。
この言葉は、根が真面目で気張りがちな名前に絶大なる影響を与えた。
今思えば、長女である名前への父なりの気遣いだったのかもしれないが。

「......」

ふっと目を覚ますと、名前は今し方横になっていたことに気づく。
視線を感じそちらを向くと、こちらをじっと見つめる二人の存在に驚いた。
よく見慣れた見開かれた眼と、焦点が合っているのかも定かでない虚ろで光の無い瞳だ。

「!?」

びくりと肩を震わせて驚くと、案の定、杏寿郎に笑われた。
一方、名も知らぬ彼は動じず、それでも視線は外さない。
......何を考えているんだろう。
あの、その方は一体どなたですか。

「......!」

口にしたはずの問いは言葉に成らず、ひゅうっと空気音だけが虚しく鳴った。
声が、出ない。ーー何故!?
名前は口元を両手で覆い、この違和感の正体を突き止めようとする。
生まれて初めての経験に直面すると、人は眩暈を覚えるらしい。
ぐるぐると目が回るような感覚に、若干の吐き気をもよおした名前は。

「? どうした。顔色が悪いが」

すぐに異変に気づいた杏寿郎が名前のそばまでやって来て、額にぴたりと大きく広げた手のひらを当てた。
......!?熱っ!?
なんなんですか煉獄さん、この熱さ!
あなたの方が重症なのでは!?

「すまん!やはり、熱かったか!驚かせてしまっただろうか!」

慌てて手を離し身を引いた杏寿郎に、名前はぶんぶんと首を横に振る。
あまりに必死に首を振るので、名前の長く美しい黒髪が、ふぁさふぁさっと音を立てた。

「話せないのか」
「!」

遠目でこちらを見つめていた彼が、おもむろにそう口にし、今度は名前はぶんぶんと首を縦に振った。
と、同時に、ばっさばさと黒髪が音を立てて乱れた。

「......本当に話せないのか?」
「! ......!」
「うーむ......これは......」

眉を下げ、如何にも悩ましげな顔を浮かべる杏寿郎。
名前は、どうしてこうなってしまったのか事の発端を探るべく記憶を遡ってみたものの、思い出されたのはあの憎き男の顔と、それから。
......嫌なことを思い出してしまった。
すると、視界がじわりと滲み、同時にぽろぽろと涙が零れて落ちた。
声が出ないので、嗚咽も出ない。
それは逆に良かったのかもしれない。
声を出して泣くなど、みっともない。
当然、それを見ていた杏寿郎はギョッとして驚くわけだが。
どうした、どこか痛むのか。
腹が減ったのか、眠いのか。
話せないから泣いて主張する、まるで赤ん坊のような扱いである。

「!?」

いいえ!違います、違います!
決してそのようなことでは!!
名前は、この気持ちをどう表現したら良いのかわからなかったので、涙を流しながら、伝わらないもどかしさに悶々とした。
そして、どうやらこの涙は単に悲しいという意味合いではなく、悔し涙なのだということを我が身のことながらようやく理解した。
あぁ、私はあの男に“奪われた”のだ。
なんという失態。
なんという気の緩み。
それにしても、今、感じているこの激情を言葉にできぬとは、なんと歯痒いことだろう。

「鬼化の影響かもしれない」

と、口にしたのは、のちに名を知ることとなる、冨岡義勇という男。

「確かに、あの、鬼の少女は、言葉を一言も発さなかった!......いいや、話せない、のか?竹の口枷を付けていたように記憶しているが!」
「詳しいことはわからない。実際、そこらに蔓延る鬼たちには流暢に話せる者が多い」

鬼の生態について解明されていることは数少ないうえ、正確ではない。
鬼なら知っているかもしれないが、それを素直に教えるとは考えにくい。
何故なら、鬼にとって人とはただの捕食対象であって、つまり食料。
食べ物と意思疎通を図るか。
答えはーー否。
ここに、人と鬼が分かり合えない根本的な理由があるわけだが。



79 / 表紙
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