シンドリアには夜の帷が訪れた。私は瞳を閉じて今日1日を思い起こしていた。
慣れない体に疲れていたのか夕方にまでぐっすり眠っていた私。目覚めるとすぐ、ジャーファルがヤムライハとから、といってお茶を持ってきてくれた。
お茶を飲み、夕食は少なめにいただいた。湯浴みもさせてもらった。不自由ない生活だが、シンドバッドの冒険心を満たすことはないだろう。ぼんやりそう考える。
湯浴みから上がるとジャーファルが部屋で待っていた。「なにか不自由があれば侍女にお申し付けを。明日はマスルールが来ますから」と言って去っていく。
その後は特に何をするでもなく、窓の外を見ていた。城下では生活の証である火が揺らめいている。きれいだな、感慨深く頷いた。だいぶ、長い間それを見つめていた。
昼によく眠ったせいか眠くならない。しかしそろそろいい時間だ。瞳をつむり夢を操作してゆく。シンドバッドと話をしなければならない。
うまく成功した。シンドバッドの夢を探し出すことに成功した私は、早速彼の世界へ入り込んだ。ギョッとした彼に出迎えられる。
和やかに挨拶をする。けれどあからさまに警戒する王様は、私を睨み付けてきた。説明なしの行為だったから不快に思われても仕方ないが。
「私の名前はトキという。夢魔という役割を勤めている」
「夢魔、だと?」
「文字通り、夢の中に現れる悪魔だ。一般に語られる夢魔と違うのは、私は人の悪い夢を主食としている。人の害悪を成すようなことはしない」
夢魔と言えば精力を奪っていく存在として強調される。実際そうでない者も存在しているに関わらずだ。往々にして悪い噂とは広まりやすいものだから、仕方がないのかもしれない。
「その夢魔が私の体に何の用がある」
「用は特にない。あなたが戻りたいというならすぐに戻そう。あぁ、あなたの黒いルフはあらかた食べ尽くしたが…。後から後から湧き出てくるようだから、気をつけておくといい」
私がそういうと、シンドバッドは顔をしかめた。
「トキの言うとおりこの体に影響はないようだが、何が目的だ?」
「目的?」
「俺の体を使ってなにをする気なんだ」
目的か。目的…。
「私に主義主張はない。私が生き残るためにあなたの悪夢を食べただけの話。私にとってあなたは食料にしかならない。」
「しょ、食料か…」
大概、夢魔を始めとした悪魔たちの考えなんて欲望だけだ。力が好きだ、酒が好きだ、女が好きだ。そう、とてもシンプルなのだ。人間みたいに難しいことは考えない。
脱力していたシンドバッドは身を起こして私を見据えた。
「ならなぜ俺とトキは似ているんだ?」
「夢魔は人の望むべきものへと姿を変える。あなたにとって一番望んでいる姿が、私の形になる」
シンドバッドが一番望んでいたのは、冒険をしていたころの自分なのだろう。それを聞いたシンドバッドが深く考えこむ。
そして、小さな声で語り出す。ふたりぼっちの世界なのだから、なにもはばからずに吐き出してしまえばいいのに。身からにじむ望みは誰も抑えないというのに。
シンドバッドはささやくように語り出した。
「俺は、今の生活に不満があるわけじゃない。王になったのだって自分が望んだからだ。ただ…思い出すんだ。なにも背負うものがなく世界を走り回っていた頃を。またたきすら惜しいほどだったあの日々を」
静かな世界にシンドバッドの声が響く。
「そうか、望んだ姿か。なら若い頃の俺だというのにも納得がいく」
自嘲するように紡いでいく。
「俺はこの時…世界を光り輝いているものだと信じて疑っていなかったからな。いつからか世界の悪意に気づいた。そしてそれに立ち向かうために他人の気持ちを利用し、自らの目的に沿わせようともしたさ」
シンドバッドの言葉は重い。様々な感情が、彼の経験が、言葉に鎖をつないでいく。それが彼の心を深みに誘って、彼を息も出来ない底へと引き連れていってしまう。
シンドバッドの手を掴む人間はいないのだろうか。今日会ったジャーファルは?…いやシンドバッドはジャーファルに頼まない。それが出来るなら彼は今私と話なんてしていない。しかもいざという時にジャーファルはシンドバッドと一緒に溺れるタイプだ。多分。
溺れている人間がいたらどうする?簡単なことだ。自分が泳げるなら飛び込んで助けてしまえばいい。私は一も二もなくシンドバッドと向かい合った。
「シンドバッド、お前はよくやっているよ。出なければ、あんなに部下に慕われようもない。国民もあんなに楽しく笑えないさ。1日しかいなかった私にも伝わってくるぐらいだ」
1日ついてくれたジャーファルも、わざわざ茶を調合してくれたヤムライハも、明日行動を共にしてくれるというマスルールも。もちろん他の八人将だって。
みんなシンドバッドのことが大切で。それはシンドバッドが八人将を思う気持ちと同じくらいに。
城にいても市井(しせい)の活気が伝わってくるあの国は、誰が作ったんだ?それはシンドバッドだ。
「冒険を望む心が何故ダメなものだと決めつける?立場か責任か?シンドバッド、あなたならよく知っているはずだ」
心臓に手のひらを重ねる。
「志のない人間に人がついていかないように、夢のない人間にも人は魅力を感じないさ。
冒険を望む心を押し付けることは、あなたを損ねている。少しくらいは望め。今日1日、あなたはどうだった?」
シンドバッドが顔を歪めた。私はそれを見ないようにした。きっと見られていたら素直になれないだろう。
「お、れは…今日1日楽しかった。黄河の一族と生活を共にして、馬や羊の世話をして、子供と遊んで、語らいながら食事をして…。楽しかったよ」
「そうか、楽しかったんだな」
私は笑った。シンドバッドも泣きそうになりながらも笑っていた。
「あぁ、最高だった。一族にはドルジとトーヤという男女がいたのだが…じれったいんだ。お互いがお互いを気にかけているのに、あと一歩が踏み出せないんだなぁ。だから私とババ様でドルジを突っついて…まぁ上手くいかなかったが」
シンドバッドは語る。何気ない1日をまるで尊いことのように。宝物のように。
「一緒に食事をとれば、それはもう家族だと…ババ様が言ってくれてな。久しぶりに手放しのあたたかさに触れた。王様でもない、迷宮攻略者でもない、ただの“シン”に黄河のみんなは優しくしてくれたんだ」
シンドバッドから宝石がこぼれ落ちた。宝石は床ではじけて直ぐに飛び散ってしまう。鮮やかな輝きだけを私の目に焼き付けて。
その飛び散った宝石を私は集めた。そして彼の素直な心の現れを、彼に手渡した。
「誰かを守るために手を汚すことはいけないことではない。それが出来るのは強い人間である証だよ。
あなたは自分を呪われた身だなんて言っていたね。どこが?こんなに綺麗な心の宝石をあなたは持っているのに」
彼は戸惑いながらもどこまでも気高い紫の珠を受け取った。
「あなたは汚れてなんかいない。呪われてもいない。ただ自分の夢を押し殺しているだけだよ」
周りが晴れていく。世界が夢の時間に終わりを告げようとしている。口早に問う。
「シンドバッド、望んで。あなたはどうしたい?」
王様としての務めに戻る?それとも一週間の冒険?
シンドバッドは少し迷ってから、望みを口にした。それは世界を揺るがすくらいに大きな声だった。
夢魔と王様