ジャーファルは足を止め、王宮を振り返った。


「…ふう」


今頃王宮では、シンが酒を浴びるように飲んでいるんだろうな。
女性を侍らし上機嫌のシンドバッドを思い浮かべ、自然とため息がでる。
振り切るように前を向き、再び歩き出す。

道なき道を進むこと暫し、行く手を遮る大きな草をどけると、湖の畔に出た。

対岸まで百メートルほどの、小さな湖。生い茂った雑草は、人の出入りの少なさを語っている。
近くの石に腰掛け、青々とした月を映す水面を眺めた。

ジャーファルにとって、ここは安心できる場所のひとつであった。
一番安心できるのは、やはりシンドバッドの隣である。どんな時でも、自分の王が目に見える範囲にいるのは安心する。
しかし、そんなジャーファルにも、一人になりたいときはある。

明日は、ジャーファルの二十歳の誕生日である。正確な日にちはわからないので、シンドバッドと出会った日を、シンドバッドが誕生日だと定めた。

だから明日は、宴だそうだ。そして今日はその前夜祭。ただの政務官の誕生日なのに、国を上げて祝うとは。そうシンドバッドに抗議すると、彼は急に真剣な表情になった。

『お前をただの政務官だと思ったことはない。お前は、俺の大切な家族だよ』

だから祝うのだと、彼は言った。

家族。

その言葉は、くすぐったいような、恥ずかしいような、そんなような感覚と共に、じわじわと体に浸透していった。

だからって国を上げて祝う必要はないだろう。
それなら、仕事を少しでも減らしてくれたほうが嬉しいです。

軽口はいくらでも浮かんできたが、言葉にはならなかった。
そこには、いつも子供のような笑顔をして人を困らせるシンドバッド王ではなく、ジャーファルを真っ暗な世界から救ってくれたシンがいたから。
だから、結局何も言えずに、すごすごと逃げ出してきたのだった。

不意に、バサバサと鳥の羽ばたきが聞こえてきて、ジャーファルは俯きがちだったその顔を上げた。

その音の主は一羽の白鳥で、静かに湖に舞い降りた。
湖の近くにある木のせいでジャーファルの姿が見えないのか、警戒心も全くなく優雅に泳ぐ白鳥。
ジャーファルは、その姿に一瞬で目を奪われた。
波立つ水面がきらきらと煌めき、とても幻想的だ。

しばらくその光景を呆然と眺めていたが、あることに気づいてはっとする。
白鳥の体が、キラキラとした幕に包まれていったのだ。
白鳥は一度俯き、次いで月に向かって顔を上げた。

それから起こったのは、まるでおとぎ話のようなことだった。

ジャーファルにも見えるくらい大量のルフが白鳥を覆い隠し、見えたと思ったらそこには一人の女性が立っていた。それも、裸で。

月光にさらされた女性の裸体。ジャーファルがしばらく時を忘れ、見入ってしまうほどに、神々しく美しかった。

バシャリ。


「は…!」


水しぶきの音で我に返ったジャーファルは慌てて女性の元に駆け寄った。


「あの、スミマセン!」


ジャーファルの声に驚いたのか、女性は勢いよく振り返り、バランスを崩して湖に倒れ込む。いくら浅いとはいえ、なにかあったら一大事。


「大丈夫ですか!?」


バシャバシャと湖に踏み込み、女性を抱き上げる。
そのまま踵を返して、先程ジャーファルが座っていた石に女性を座らせる。


「怪我はないですか?」


控え目に首を振る女性。

ああ、怖がらせちゃったかな。

反省しながら、取り合えず、とクーフィーヤを女性に被せた。


「これ、どうぞ」

「……」


なにを言っても女性は俯き黙っている。
まあ、それも仕方ないか。
黙っていても仕方ないので、答えやすそうな質問をした。


「名前、教えてください」

「名前…?」

か細い声が小さな口から出た。
やっと声が聞けたなと、内心ほくそ笑む。


「ええ、そうです」

「名前は…」


一瞬戸惑ったあと、女性は震える声で言った。


「ソフィア」


ジャーファルは噛み締めるように、その名前を反芻する。


「ソフィア…」


そして


「素敵な名前ですね!」


心からの笑顔をみせた。



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