the cake is a Lie | ナノ
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19. 背中

しばしの間ミサの温もりに甘えた後──。
私は名残惜しさをなんとか押し殺し、「もう大丈夫だよ」と彼女を抱きしめる手を解いた。
シャツを正し、髪を整え、それから二人で協力して部屋に盗聴器やカメラが無いことを確認し、私はミサを連れて早々と部屋を去っていく。
ロマンチックで上品な雰囲気のスイートルームも、今の私にとってはただただ忌まわしい。
この中で行われたあの火口の卑劣な行為のおぞましさに蓋をするように、私は重厚な扉を力いっぱいに閉めた。

ホテルを出た後は急いでタクシーを拾い、撮影現場近くのコインパーキングで自分たちの車に乗り換え、帰路に着く。
私を気遣ってか率先して運転席に向かってくれたミサに有り難く運転を任せ、全身を苛む極度の疲労感に助手席でぐったりしながら、無言のまま拠点ビルへと帰ったのだった。






「おかえり、今日はずいぶん遅くまで撮影していたんだな。疲れただろう」

捜査室に入って早々に私達へと労りの言葉をかけてくれたのは夜神局長だった。
いつもならその気遣いを有り難く思いながらも丁寧に挨拶し返して、今日一日の報告を始めるところ。
だが、今日だけは軽く会釈だけして足早に彼の前を通り過ぎる。
そんな私の様に何か異変を察したのだろう、局長の心配げな視線を背中にひしひしと感じるが、私はそれに構うこともできず、こつこつとヒールを鳴らして歩みを進める。
その先にいるのは、こちらへと振り返る月くんと、私達に背を向けたまま角砂糖を積みあげて遊んでいる竜崎だった。

「只今帰りました。…早速ですが、火口が自白する音声を録音することに成功しましたので、これを聞いてください」

唐突で簡潔な私の台詞と共に、捜査室にぴりっと緊張が走った────。
夜も遅く、どこか悠長な雰囲気の漂っていたこの捜査室の空気を私は一瞬にして壊してしまったわけだが、そんなことに構っていられない。
後ろで夜神局長と松田さんが驚嘆に上げる声を聞きながらも、私は急いでカバンからボイスレコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。

──俺はキラの裁きが止んでいた時期にこの能力を授かって、かつてのキラの使命を引き継いだ。俺が今のキラだ。


あらかじめ再生位置を調整しておいたおかげで、最も分かりやすい自白の台詞をいち早く皆に聞かせることができた。
しんとした捜査室に響き渡る火口本人の卑劣な声。そしてキラを自白する台詞。
何も言わずにいつも通りミサと仕事へ行ったかと思えば、突然こんな重大な録音を携えて帰ってきたわけだ。
皆が驚きに言葉を失うのも当然だろう。
私は重要な台詞の再生を終えて停止ボタンを押し、改めて目の前の二人へと向かい合った。
月くんは大きく目を見開いて動揺しながらも私とミサを見比べているようだが、一方で竜崎は依然としてこちらに背を向けたまま。
しかし、角砂糖を積み上げて遊んでいた手がピタリと止まっているので、この録音に衝撃を受けていることは間違いない。
私はさらに二人へと歩み寄り、おもむろに月くんへとボイスレコーダーを手渡す。

「香澄さん…どうやって火口にこれを言わせたんですか」

そう言って私を見つめる月くんの目に、驚愕と困惑、そして心配を向けるような色が揺れていた。
優しい月くんのことだから、おそらくミサだけでなく私のことも心配してくれているのだろう。
こうしてミサでなく私が報告を切り出し、ボイスレコーダーを取り出したということ──それが何を意味するのか、月くんも竜崎も気づいているはず。
どうせ後で録音した音声は全て聞かれるのだから、今ここで嘘をついたり隠し事をするのは全くの無意味だ。
私は拳に力を込め、しかし罪悪感で月くんから視線をやや逸らして丁寧に言葉を紡ぎ出していく。

「火口とホテルで密会の約束を取り付けて、ミサが第二のキラだと確信していること、それと休止を挟んでキラである人間が変わった事実に気づいていることを告げました。彼に好意を持ち、且つキラ信者であることも仄めかしてあります。私を放って置けない危険分子と判断するように誘導して、計画通りに正体を吐かせました」
「ミサでなく、香澄さんが火口と接触したんですか」
「はい。ミサよりも私がリスクを追うべきだと、勝手ながら判断しました。すべて私の独断です。勝手な行動、申し訳ありません」

口から出る言葉は自ずと敬語になってしまう。
普段は月くんとは砕けた口調で会話しているが、上司である夜神局長や竜崎にも向けた報告であること、そして胸を蝕む罪悪感からこの口調で話さざるを得なかったのだ。
謝罪の言葉と共に申し訳無さで目を伏せ、彼らの返事を待つ。
しかし月くんは私の台詞を聞いてそれっきり眉根を寄せたまま口をつぐんでしまった。
さらなる罪悪感にかられて、ズキンと鳩尾のあたりが痛み始めるのを感じる。

確実にヨツバキラを捕まえるため、一人の判断による勝手な行動はしないようにとあらかじめ竜崎が注意していたのに、私はそれに背いた。
結果的にうまくいったからいいものの、失敗する可能性だって十分にあり得た。
厳しく叱責されることも覚悟の上。
ましてや私は、竜崎にだけなら作戦を報告できる状況にありながらも、どんな反応を返されるのかが怖いという私情で報告を怠ったのだ。
叱られて当然のことをしたのだと、自覚はしている。


それでもやはり、いざこの場に立ってしまうと足がすくんでしまう。
竜崎に何の言葉をかけられるのか、なんと思われてしまうのか。
どんな風に叱られ、どんな形で失望されてしまうのか。
私はそれが、ただただ怖くて──。

覚悟さえも容易く打ち砕く強い恐怖に怯え、俯いたまま遣る瀬無く沈黙し続けていれば、突然「香澄さん」と名を呼ばれる。
長い沈黙を破りようやく語り始めようとしてる彼──竜崎のその淡々とした声に、私は弾かれるように顔を上げてその白い背中を見つめた。

「自白を得たことはお手柄ですが、証拠は掴めましたか?」

叱られるのではと緊張していたところに、抑揚ない声音で疑問をぶつけられる。
開幕叱責の言葉でなかったことにひとまず肩の力は抜けるが、どう竜崎に分かりやすく説明すべきかという悩みが生まれ、懸命に思考をめぐらせた。

「有名大手サラ金会社の社長、金欲銀造を帰宅後すぐに殺すと…。明日の朝のニュースで確かめられるはずだからそれで確認しろとのことです。…すいません、即時的な証拠は掴めず、それに犠牲者をさらに一人増やす結果になってしまいました」
「火口と別れてどれくらいの時間が経ちましたか」
「…2時間近く経っています。おそらくもう金欲銀蔵は…」

本当は殺しに必要な能力や道具をその場で押さえられればよかったのだが、私の立ち回りがうまくいかず不可能だった。
ヨツバの死の会議の内容は、隠しカメラによって全てこちらでデータを取っている。
金欲銀蔵の名は会議にあがったことが無いので、これで彼が死ねば今回の殺しは火口の意思の下行われた可能性が高いのだが、それでは証拠としては弱い。
それに、私がもっと上手に火口を誘導することができれば、金欲銀蔵の命を無駄にせずに済んだのかもしれない。
火口と対面しているときはどう会話を誘導していくことかに必死だったが、今思えば私の失敗によって金欲銀蔵は殺されてしまうわけだ。
己のあまりの無力さを今この瞬間痛感し、改めて後悔に胸が締め付けられる。

「私と別れた後、火口が何らかの手段でヨツバ重役たちと連絡を取って金欲銀蔵を殺すようにと話題を回す可能性を考えると…証拠としては不十分かと」
「火口がキラの能力を持っているとするならば、誰にも言わずにすぐに金欲銀蔵を殺すはずです。携帯などの通信機器で殺しの話題を出すのは、傍受の可能性を考えれば避けるはず。それに明日の朝のニュースまでという短時間で皆を集めて会議を開くのは難しいですし、慌てて強引に金欲銀蔵についての話題を出せば火口自身が怪しまれます。誰にも言わずにすぐ殺すのがヨツバキラにとって一番リスクが小さい」
「それに会議が開かれたかどうかは、奈南川に聞けばすぐに確認がとれるはずだ。ここまで来たなら火口がキラだと教えてやれば、L側につくしかないと考えて嘘もつかないだろう」
「そうですね。金欲銀蔵の犠牲については残念ですが、とにかく、彼が殺されたことを確認できれば…火口はキラの能力を持っている、そう判断していいでしょう。ワタリにできるだけ早く確認を取らせます」

そうして竜崎は早速別室のワタリと通信を繋ぎ、金欲銀蔵の生死を調査するよう命じた。
私は毅然としたその背中を眺めながら、自分の必死の行動が無駄にはならなそうだと理解して安堵を胸に満たしていた。
私では想像が及ばなかった火口の立ち回りや確認方法をすぐに推測し判断できるとは──やはり竜崎と月くんは、私とは桁違いに賢明だ。
そう二人に感嘆しながらも、緊張を体から抜くようにため息をつく。
そっと胸を撫で下ろし、横にいるミサと微笑みあった。

「キラの正体は絞れそうだが…でもまだ殺し方が分からないな…」
「そうなんですよね…火口を捕まえるより先にどう殺してるかが欲しい…」

白い背中の向こうで未だ角砂糖を高く積み上げながらも、竜崎は次にウエディに通信を繋いだ。
火口がヨツバキラだと判断できれば、いち早く彼の自宅や車にカメラを仕掛けたいのだろう、早速彼女に火口の自宅の状況を聞いている。
しかし、ウエディからの報告では火口の自宅は他の者と比べてガードが堅いらしく、さらには電波を遮断した地下室まで最近備えたらしい。
何らかの殺しの作業はその地下室で行われている可能性が高いが、電波を飛ばせないためリアルタイムで監視することは不可能らしく、あのウエディさえも録音機器を仕掛けて後日回収するのが限界だと言った。

竜崎はくずれた角砂糖を雑にコーヒーカップの中に投げ入れながらも、ウエディの報告を鑑み、火口の所有する車すべてに盗聴器、発信機、カメラを仕掛けるように命じた。
その無茶な命令にウエディはうんざりとしながらも引き受ける意を示し、そして通信がぷつりと切れる。

「…では、私がもう一度火口と会う約束をして、車の中で殺しの方法を聞き出そうと思います」
「駄目だ香澄さん。これ以上香澄さんが火口と接触するのは危険過ぎます」

車に盗聴器を仕掛けるのだから、当然私が再度動く必要があるのだろう。
そう思って率先して声を上げたのだが、月くんが眉根を寄せて私を制した。

「火口が香澄さんを殺さずに生かしておく理由は、第二のキラであるミサさんと円滑に接触する機会を得るためです。次に彼が香澄さんと会うときには、火口はミサさんも連れてくるように命じるでしょう。そうなればミサさんは火口の前で第二のキラとして振る舞い、人を殺せる能力があることを証明しなくてはならないでしょうし、香澄さんは用済みとしてすぐに殺そうとするはず。香澄さんの名は偽名ですが、偽名だと分かれば火口はミサさんに第二のキラの能力で香澄さんを殺すように命じるだけです」

竜崎の淡々とした厳しい説明を受けて、私は呆然と口を噤むしかなかった。

今回の火口との接触だって嘘に嘘を重ねて偶然うまくいった綱渡りな作戦だったのだ。
次に会うときにはさらに嘘とリスクを重ねることになるのは当然のこと。
これ以上火口を騙そうとすることはあまりにも危険で、得策ではない。

こんな簡単な推測も出来ずに、もう一度火口と会おうと名乗り出てしまった自分のなんと愚かなことか。
私があまりの失態に恥じらうしかなく、竜崎の背中から目をそらすように瞼を伏せていると、月くんはデスクに手をついて竜崎へと詰め寄った。

「だが竜崎、こちらがいくら避けようにも火口は必ずまた香澄さんと接触する機会を持とうとするはずだ。誘いを断り続けたとしても、火口が強硬手段に出ることも十分ありえるし、顔だけで殺せる能力を得て香澄さんを殺そうとする可能性すらある。一刻も早く火口をどうにかしなければ、香澄さんとミサが危険だ」
「ライト…」
「…殺し方などとも言ってられない、火口を押さえよう」

月くんに心配されて少し嬉しそうにしているミサを横目に、私はやはり何も言えない。
独断で火口と接触し、自供させたところまでは良かったが、結局私はミサを安全圏に置くことができなかったらしい。
火口がミサに私を殺せと命じた時、今は第二のキラではない彼女は当然私を殺せない。
ミサが第二のキラでないと知られてしまったら、火口は口封じにミサを殺すかもしれない。
私と違ってミサは彼に本名を知られている。火口がその気になれば、ミサは簡単に殺されてしまうのだ。

私は自分自身の命が奪われることも怖かったが、しかし、自身の作戦によってミサをさらなる危機に追いやってしまった事実がどうしようもなく怖かった。
ミサの身を守るためだと自分に言い聞かせて、火口に危ない嘘をつき続け、必死に堪えながら身体を弄られたというのに──これでは意味がない。

「少し考えさせてください、火口が私達の前で殺しをしなくてはならない状況を作れるように、作戦を練ります。」
「…」
「香澄さん。あなたは身を挺して火口の自供を手に入れてくれた、それで十分お手柄です。とても助かりました。だから、しばらくはミサさんと一緒にこのビルの中で身を守っていてください」

依然として私に背を向けたままの竜崎の台詞。
受け取りようによっては辛辣な内容にもとれるが、しかしその声音は穏やかだった。
もちろん、これ以上私が勝手な行動をするのを制したい気持ちもあるだろうけれど────それでも、私の命を犠牲に無茶な命令を下すことなく、この安全な場所にいろと言ってくれた。
ここで部下の命を犠牲にすることは得策ではないと判断した、それ以上でもそれ以下でもないと分かっている。分かっているのに──。

(なんだか、嬉しい…)

月くんに心配される度に嬉しそうにしているミサの気持ちが、今ならよく分かる。
この一年弱、私と再会してから度々危険な任務を課していた竜崎が、今回だけは私の身を安全を優先してくれた。
それがこんなにも喜ばしく幸せなことだったなんて──。

得も言われぬ喜びがこみ上げると共に、すっと肩の荷が下りるような心地がした。
ひどくほっとしてしまって思わず安堵のため息をつけば、胸のうちに溜まった呼気と共に体中の力が抜けていく。

────すると、緊張が体から消えていくと共に襲いかかってくる身体の不調。
火口とまみえてから今まで、ずっと極度の緊張状態が続いていた。
自分の身体のことにかまってなんかいられなかった極限状態からようやく余裕ができて、今更になって飲酒によるダメージがじわじわとこみ上げてきたようだ。

これからどう火口に行動させるか──そんな重要事項について真剣な面持ちで話し合い始めた月くんと竜崎を見る。
皆もすっかり彼らの会話に注目しているようだし、私がここで少しくらい俯いていたって構わないだろう。
そう判断して、ずきずきと痛みを感じ始めた額に手を当てて俯く。
早く治まってくれるのを祈るばかりだが、そんな願いも虚しく段々と酷くなっていく痛みに耐える────と、松田さんが突然キャスターを引いて私の方へ椅子を持ってきた。

「香澄さん、大丈夫?具合悪そうだけど…」
「あ…すいません…火口とワインを飲むことになっちゃって…お酒飲んだの久しぶりだったんで、今更になって頭痛が…」

竜崎に何かといって軽んじられている彼だが、なんだかんだ目聡く度胸もあり、一般人の視点から見れば十分に優秀な人間である。
私のちょっとした仕草を見逃さず、すぐに体調不良を察してくれた松田さんには感謝しか無かった。
立っていられないほど酷く具合が悪いわけではないが、座れるものならやはり座りたい。
私は松田さんに感謝の言葉を述べた後、有り難くもゆっくりと椅子へ腰掛けた。
松田さんとのやり取りで私の異変に気づいてくれたミサが「お水と薬持ってくるね!」と模木さんを連れて退室していく。
その様子を横目に見ながら、背もたれに身体を預けて身体を休ませる。




しかし次の瞬間────。
未だ私のすぐ側に控えていた松田さんが「アレ?」と突然素っ頓狂な声を出した。


「香澄さん…今日はストッキング履いていないんだね」

いつもどおりの穏やかな声音で放たれたその台詞に、心臓を鷲掴みにされたような衝撃──。
そして今までずっと私に背を向け続けていた竜崎が、月くんと共に目を見開いた表情でこちらへ振り向いたのだ。




────迂闊だった。

火口に破かれて駄目になってしまったストッキング──ミサが戻ってくる直前に慌てて脱いで鞄の奥に乱暴にしまい込み、それっきりすっかり素の脚のままでいることを忘れてしまっていた。
極度の緊張と、一秒でも早く月くんと竜崎に火口の件を報告しなければという焦りに支配されていたとは言えこんな失態、なんて自分は迂闊なのだろう。

松田さんの呑気な顔を見るに、彼は私がストッキングを履いていないその意味に気づいていない。
ただ何となく頭に浮かんだ疑問を口にしただけだろうが、しかし察しの良いあの二人なら──竜崎なら間違いなく感づいてしまう。

二人っきりの密室の中、女性であることを最大限に利用して火口にハニートラップを仕掛けた。
ハニートラップを仕掛ける相手に中途半端な格好をして会いに行くわけがないので、ストッキングを駄目にしてしまったのは火口と会って以降。


つまり、火口によってストッキングを破かれたのだと、私は火口に下半身まで触れられたのだと、竜崎に知られてしまう────。


ヨツバキラ特定のためとは言え、火口と性的な接触を持っただなんて当然誰にも知られたくない。
ボイスレコーダーには火口が盛り始めてから会話も当然録音されている。
竜崎はきっと後で録音をすべて確認するから、当然火口が私に劣情を抱いたことも知られてしまうだろう。
しかし、行為の最中に私と火口は一切の会話を交わさなかった。
ボイスレコーダーには衣服の擦れる音と呼吸音くらいしか記録されていないはず。
ミサが部屋に戻ってくるまでの短時間の行為だったし、「べったり身を寄せてしつこくキスをしてきてから嫌々応じていた」と言い訳すれば、火口に乳房をさらけ出し下半身に触れられたことまではおそらく気づかれない。

火口と私がどれほど深く性的に接触したかなんて、捜査には必要ない情報だろう。
それならばあんなおぞましい事実はひた隠しにしてしまいたい。
私が火口に手篭めにされたことを知っているのはミサだけ。
そしてミサだって、こんなデリケートなことを男性たちにわざわざ報告することはしないはずだ。
そう踏んで火口に手篭めにされたことは何が何でも秘密にするつもりだったというのに、ストッキングの存在を失念していたことで全てふいになってしまった。



私へ向けられる竜崎の目は、珍しくも酷く驚いたように大きく見開かれていた。
ギョロッとした漆黒の瞳は私のことを刺すように捉え続けている。
火口に手篭めにされたことを一番知られたくない人から向けられる、その視線。
私はただただ狼狽するしかなく、指先を動かすことすらできなかった。

松田さんは未だ私がどういう目にあったか理解できず、竜崎たちの様子に疑問符を浮かべていたが、二人同様に勘付いてしまった夜神局長に気まずい口ぶりで「松田!」と咎められたことでようやく察したようだ。
一瞬で気まずげに顔を真っ青にするその様子──彼の呑気で天然な質を普段は好ましく思っているが、今ばかりは恨めしい。

月くんの目が、局長の目が、松田さんの目が──私を捉えて気まずげに揺れている。
居心地の悪い沈黙の中、ミサと模木さんが鎮痛剤とコップを手に戻ってきたが、捜査室に漂う嫌な雰囲気を感じたのかドアをくぐったところで二人して足を止めてしまった。


皆から向けられた哀れみの視線。
それらは容赦なく私の心を貫いていく。

違う、哀れんでほしいわけじゃない、同情なんていらない、やめて──!


「……最後まではしてません。組み敷かれて下半身を触れられはしましたが、途中でミサちゃんが戻ってきてくれたおかげで中断することができました。だからご心配には及びません。大丈夫です」

こんな状況になってしまったからには、もう正直に説明するしかなかった。
ここで変にごまかしてしまえば、火口と最後まで性行為を行ったのだと誤解されたままになりかねない。
それならばもう恥を捨てて、はっきり明瞭に火口に何をされたか説明するほうがまだマシなのだ。

私は側にいる松田さんへと顔を上げ、皆の心配を押しのけるようににへらと微笑みを顔に湛える。
当然笑ってなんていられない苦しい心中だったが、今の私にとっては皆から憐れみをかけられることこそが何よりも苦痛だ。
別に触られただけで何かが減ったわけではない。
確かに最中は恐怖に震えたが、そのおかげで私は無事自白を手に入れて帰還することが出来た。
その喜びを考えれば、あの行為のことなんて別にどうも思っていないし、気にしてもいない。
これは強がりではなく、紛れもない本音だ。


だがしかし──。
竜崎に知られてしまったことだけは、どうしようもなく辛く、苦しい。
たとえ片思いであっても、他の男性に手篭めにされたことなんて愛しい人に知られたくはなかった。
こんな惨めな姿を見られたくはなかった──。

竜崎からの刺さるような鋭い視線を頬にひしひしと感じている。
しかし、彼がどんな顔でどんなことを考えて私を見ているのか──それを知るのがただひたすらに怖くて、私は竜崎の視線に気づかないふりをしたまま松田さんと局長を見つめ続けた。
松田さんは「そっか、香澄さんが大丈夫そうで、よかった…」と苦笑いで歯切れ悪く答えた後、口を噤んでしまう。
努めて明るく振る舞おうとした試みも虚しく、再び訪れてしまった気まずい沈黙。

私はこれ以上はもう無理だと限界を悟ってしまい、なけなしの笑顔を凍りつかせたまま力なく顔を伏せた。

「…すいません、ちょっと横になりたいので、今日はもう自室に帰ります。何かあったらすぐに応えますので連絡をください」

横になりたいほど具合が悪いわけではなかったが、もはやこうするしか手段はなかった。
私は苦笑したまま額を押さえて、頭痛が辛いことを皆に見せつける。
こんなタイミングであからさまに横になりたくなるだなんて、都合が良すぎることは分かっている。
ただこの場から逃れようとしているだけだと、皆には当たり前に悟られてしまうだろう。

だが、もうそれでも良かった。
そうするしかないのだ。
私が火口に手篭めにされた境遇を考えれば、この場から逃れることを誰も止めやしないはず。
今はただとにかく、皆に憐れまれる気まずい雰囲気から逃げたくて、竜崎にこの惨めな姿を見られたくなくて──。



私はおもむろに足に力を込めて椅子から立ち上がった。
軽い立ちくらみでふらっと少しよろけていると、模木さんが駆け寄り「部屋まで肩を貸しましょうか」と声をかけてくれたが、私は首を横にふる。
こうして皆気遣ってくれるというのに、それに素直に甘えることも出来ずに卑屈になってしまう。
そんな己を恥じて、強く歯を食いしばる。

「ミサちゃん、行こうか」
「え、あっ…、うん…」

具合が悪くとも胸が痛くとも、私は己の役目として早くミサと手錠を繋ぎ直さなければならない。
ミサに淡々と声をかければ、彼女は困惑しつつも素直に頷いてくれた。
私は他の誰とも顔を合わせないようにうつむきながら、ミサを引き連れて捜査室の階段を登っていった。

その時、視界の端に映る白と黒の人影──未だ椅子の上で膝を抱えながらも、その視線はもはや私には注がれていない。
先刻まではあれほど私のみじめな姿を見ないで欲しいと思っていたというのに、いざ視線を逸らされてしまえば、見放されてしまったような幻滅されたような気がして、なお一層胸が締め付けられる。
ただじっと沈黙を守りながらどこか宙を見つめる竜崎が、今何を考えているのか、私に対してどんな思いを抱えているのか。
焦燥感と恐怖でこれ以上彼の姿を視界に入れることすら心苦しく、私は胸が抉られるような思いで足早に捜査室を出ていったのだった。









部屋に戻った私はミサとシャワーを浴びた後すぐに眠ってしまい、目覚めた時にはすっかり外は明るかった。
体調を気遣ってくれるミサに有り難く感じながらも、朝食と準備を終えて自室を出る。
昨日の今日で月くんや竜崎、松田さんたちと顔を合わせるのは酷く気が重い。
だが、あのまま自室に閉じこもっているわけにもいかなかった。
なんとか気まずさを押し殺し、捜査室へと何食わぬ顔で入って挨拶をする。
松田さんや局長が一瞬だけ驚いたよう私を見つめたが、その後は皆いつも通りに明るく挨拶を返してくれた。
もちろん、何事もなかったかのように振る舞うことで私を気遣ってくれているのだろう。
それを重々に理解し有り難く思いながらも、いつもの定位置、モニター前の椅子に座っている手錠で繋がれた二人の元へと向かった。
月くんが松田さんたちと同様に明るく挨拶を返してくれた後に、私は竜崎の「おはようございます」の声を聞いた。
モニターだけをまっすぐ見つめ、片手でマフィンを口に運びながらもう片方の手でキーボードを打っている。
お構いなしにぼろぼろとマフィンの欠片をこぼすそのいつも通りの竜崎の様子。
私はひどく安心して、内心でこっそり安堵にため息をついた。


その後、竜崎の口によって金欲銀蔵が亡くなったことを伝えられた。
私の至らなさで彼の命を奪う結果になってしまったことは心苦しく思うが、火口がキラと断定できた今、自責の念に駆られている暇はない。
私は罪悪感を胸の奥に無理やりしまい込み、昨日退室した後に練られた計画について、月くんたちに説明を受けた。

火口に自宅外で人を殺さざるを得ない状況を作り、どんな殺し方をするのか証拠を得る計画だ。

松田さんを、キラの正体を知りながらも何とか生き延びた元マネージャーとしてさくらテレビに出演させ、火口が彼を殺そうとするよう仕向けるらしい。
当然、松井太郎の名では松田さんは殺せないはず。
そうなれば火口は私やミサに連絡を取り、松井太郎の本名を聞こうとするだろう。
もちろん答えるわけにはいかないので、私達は携帯を留守し連絡が取れない状態にする。
火口は焦って何としても松井太郎の本名を手に入れるため、次にヨシダプロ事務所に接触するに違いない。
事務所社長から「社員旅行中で事務所には誰もいないが、松井太郎の本名を知りたいのなら履歴書が残っているはずだから勝手に入って見てくれて構わない」と伝えてもらい、火口を事務所におびき寄せる。
そこで松井太郎の履歴書を見た次に取る行動が、火口の殺しの手口というわけだ。

松田さんの名は隠されているので基本的には大丈夫なはずだが、しかし万が一火口が第二のキラ同様に顔だけで人殺せる能力を隠し持っていたとすれば、松田さんはあっけなく殺されてしまう。
そんな危険な役だが、勇敢にも引き受けてくれた彼のその勇気。
昨日の恨めしさは心の奥にしまい込み、彼の勇敢さへ素直に労りの言葉を掛けてみれば、松田さんは照れたように笑った。

そして最後に、この作戦において私とミサが行動をとるのは大変危険だという判断で、私達は作戦中はこのビルで待機し続けるようにと命令を受けた。
この人手不足の中何もできないというのはもどかしいが、これ以上勝手な行動をして状況を悪化させることだけは私としても避けたい。
念の為しばらくの間は芸能の仕事も休み、この拠点ビル内で身を守ることに専念することとなったのだった。





それから数日間。
さくらテレビや事務所への根回し、そしてその他諸々の準備を数日間入念に行い、私たちはついに計画の10月28日を迎えた────。