12. 唯唯 緊張のあまりくらくらと目眩を覚えながらも寄りかかった先。確かに伝わるマダラの温もりに幸せを感じ、柔く唇を噛みしめる。この胸の高鳴る感覚は、間違いなく幼いころに感じたものと同じだった。遥か昔、何の穢れもなく純粋で幸福だったあの頃に時が遡ったような錯覚に陥るようだ。 いつもよりもずっと早い呼吸の音が雨音さえもかき消していく。うざったそうに腕で払われたらどうしようという私の心配をよそに、隣の彼は黙りこくったままでビクともしない。どんな表情を浮かべているのか気になりはするが、あまりの緊張に顔をあげることすらも躊躇われてしまった。私はただただ火照った顔を俯かせ、うっすら濡れたままの外蓑をやる瀬無く握りしめる。 「ほらね、温かい…」 「馬鹿を言え」 考えあぐねた末に何とか一つ言葉を発することが出来たと言うのに、その声は不安のあまりか細く震えていた。そんな情けない私の様を見透かしたような台詞がようやくマダラから聞こえて、私はハッと息を呑む。少なくともその声音に苛立ちは含まれていないようで、安堵が身体に溢れた。よかった。マダラが私を拒絶しないでくれているという事実に少し心持ちは軽くなり、カチカチに固まった身体も軽くなる。そのまま静寂の中でまどろんでしまえば楽だが、しかしそれでは私は一歩も前へ進めず後悔するだろう。この機会を逃してはいけない。私は急いで一つ覚悟を決め、そして恐る恐る左隣のマダラの方へと顔を向けた。 マダラはいつものツンと澄ました表情で、雨降る外の様子を眺めているようだ。その黒の瞳は私ではなく遠くの方へと向けられている。しかし薄暗さに負けずよくよく目を凝らしてみれば、その肌は薄っすらと――朱色。確かに火照った様子の彼の右耳がこの目に届いた次の瞬間、激しく私の胸はうずいた。 ――その照れる顔を見れたのは一体いつぶりだろうか。心通じ合わず片思いをしていたころは彼もまだ幼く無垢で、私の一言一句にやたらめったら反応して顔を赤くしていたような気がする。しかし、両思いになり二人で長くいればいるほど照れるような機会は少なくなるし、大人になってからはお互い戦と責務にいっぱいいっぱいで恋心に浮かれていられるような余裕は無かった。久しく見ていなかったマダラの恥じらう様子に、いやでも昔の面影を重ねてしまう。その姿は確かに過酷な月日を重ね老けてしまったが、若かったあの頃の名残をちゃんと残していた。 「こんな風に二人でのんびり暖を取ることなんて、夫婦であった時ですら出来なかった。二人仲良く世捨て人になって洞窟で過ごしているからこそ出来ることね」 感傷に浸りながらそう小さく言葉にすれば、マダラは何度か瞬きをした後、少し間をあけて口を開く。 「俺とお前は、どんな夫婦だったんだ」 そうだ。マダラは私とどんな日々を送っていたか、何も知らないんだ。淡く甘酸っぱい気持ちから一気に現実へと引き戻されるように目が醒める。もはや私の胸の中でしか残っていない大事な思い出。そのひとつひとつをほどくように思い返し、眉尻を下げて切なく笑みを浮かべた。 「仲は…悪くなかったと私は思う。私達はね、政略結婚でもお見合いでもなくて、お互い望んで結ばれたの。周りの大反対を押し切ってのやっとの結婚だったから、夫婦になれたことが嬉しくて嬉しくて…」 「俺は、お前と仲睦まじく暮らしていたということか?」 私は笑むのを止め、少し迷った後に台詞を続ける。 「戦続きの日々だったでしょう。時間もなかったし、戦況も良くなくて精神的にもいっぱいいっぱいだったし、思う存分に二人仲睦まじい時間を楽しむことなんて…無かった」 そこまで口にしてふと、もっと夫婦ふたりの時間を大切にすることが出来たのなら、マダラを引き止めることが出来たのではないか――突然の後悔が押し寄せた。あれだけ後悔の日々を送ったというのに、これ以上悔やむ気持ちを重ねてもどうしようもない。一体私はいつまでうじうじと悩み続けるつもりなのだろう。私は後悔を散らすように軽く頭を振り、大きく息を吐いた。私のため息が届いたのか、少し遅れて蝋燭の火が儚げに揺れた。 「…本当に、何も私のこと覚えてないの…?」 今更だ。分かりきった事実ではあるが、切なさに耐えかねて口から溢れてしまう。腰を捻り上半身ごとマダラの方へと向いて反応を待ってみれば、マダラは私から逃れるように顔を背けた。その長い前髪が邪魔で彼の顔をまともに見ることが出来ず、大人しく彼の言葉を待つ他ない。 「一つも覚えていない。うちはの頭領として戦に明け暮れた日々は覚えているが、その記憶にお前の姿は微塵も存在しない」 淡々と語る口ぶりに、マダラがただ漠然と記憶喪失になったわけではないことを悟った。戦国時代を必死に生き抜いたことは確かに覚えているようだが、私に関わる記憶だけをすっかり無くしている。それこそ、千手柱間に変な術でもかけられたのか、或いはその弟に脳を弄くられたのかと疑ってしまうほど不自然な記憶のなくし方である。あの千手兄弟がマダラに何か施したとするならば憎しみを覚えるが、しかし二人を呪ったところでマダラの記憶錯誤は治りやしない。私は一体何をすれば、彼の記憶を取り戻すことが出来るのだろうか――。 どんなに頭を捻ってみても、まともな方法は何一つ浮かばない。私の中に大事にしまわれた彼との思い出の日々は、一つもマダラの中に残っていないという悲哀。マダラと再会して今日まで何度も感じたことだが、それでも私ばかり昔の思い出に縋り付いてマダラに振り回される独りよがりはやはり辛かった。もう二度と会うことはないと思われたマダラと再会できたとなれば、二人でその思い出を噛み締めてみたかったと言うのに。懐かしさのまま二人静かに過去を語り合って見たかったと言うのに――こんな容易いことが、何故叶わない? 前髪から覗くマダラの整った鼻筋をちらりと見遣り、そして強引に衝動的に彼へと抱きつく。切なくて切なくて堪らない。私との思い出を無くした今でも昔と変わることのないマダラのその身体を、この腕で確かに感じることしか今の私には出来なかった。寄りかかるよりも大胆な私の行動にマダラは一瞬驚いたように身体をびくりと震わせたが、もはやどんな反応をされようとも構っていられず黙々と彼へにじり寄る。先刻よりも格段に感じるマダラの温もりに涙腺が緩みそうになるが何とか我慢し、この愛しい人と触れ合える幸せと悲しみを心に刻んだ。 「私たちは幼馴染だったの。小さい頃から二人でよく修行したり、ずっとずっと一緒に居たのよ」 ただただマダラの温もりを求めて、彼の身体に巻き付ける腕へ尚更の力を込めた。筋肉質で堅牢な体つきに、愛おしい思いが溢れ出して止まらない。この想いをどう消化したら良いのか自分でも分からず苦しい。こんなふうに彼を抱きしめて昔の思い出を語ったところで、マダラが記憶を取り戻すことなんてないのに。 「私はマダラのことずっと好きだったし、マダラも私の事好いてくれてた、と思う。私から一生懸命マダラに迫って、やっと両思いになったの。すごく、嬉しかったんだから…」 マダラは「コマチ」と呟いて私の肩を掴み、この身体をそっと離そうとしている。しかし、離れたくない。手放したくない――私は意地でも彼の外套に指を食い込ませ続けた。その逞しい胸元に頭を預ければ、左耳からマダラの鼓動が伝わってきた。マダラの胸が激しく波打っていることに気づき、私の顔は真っ赤に染まる。 「結婚しようって決めた時、反対する爺様たちをマダラが必死に説得してくれたのも嬉しかった。堂々と胸を張って私との将来を考えてくれるマダラが大好きで、この人と一緒なら何だって乗り越えられるって心の底から思ってた」 「…」 「でも、今思えばただ世間知らずに浮かれてただけ。結局は乗り越えられなかったわけだし。私はマダラを妻として支えきることが出来なかったし」 全身を掻き毟りたくなるような苦悩に飲み込まれぬよう、目を堅く閉じて堪えてみせた。感極まり戦慄く唇はからからに乾き、それでも確実に言葉は紡がれていく。 「マダラが死んだって聞いて、もう二度と会えないと思うと辛くて、でも…何のめぐり合わせかまたあなた出会うことができた。不思議ね。里では死んだことになっているはずの二人が、今こうして穏やかに二人の時間を過ごしているんだもの…」 そうして私の独りよがりの独白を聞き終えたマダラは、突き放そうとする手を下ろし「ああ」と短く、しかしもの柔らかに相槌を打ってくれた。依然として早いままのマダラの鼓動は、確かに彼が緊張していることを表していた。何故緊張しているの、なんて野暮なことはとても聞けず、じれったさに疼きながらも言葉を飲み込む。私に対して、ほんの僅かにでもときめいてくれているならば、私と同じ感情を抱いているのならば――。そこまで思いを巡らせて、私は胸の内で嘲笑を漏らす。 可笑しな話だ。そもそも幾度となくあの洞窟で肌を重ね合った仲だというのに、たかが抱擁くらいで何を今更恥じる必要があるのか。傍から見れば私たちはちゃんちゃら可笑しく見えるだろう。しかしなんと言い表せば良いのだろう。幼い頃、マダラに迫った新緑のあの日と何一つ変わらぬ、つたない触れ合いと同じような感覚。今この瞬間性急に縮まるマダラとの心の距離をひしと感じて、この胸のときめきを抑えることなんてできるだろうか。 「あとはマダラが私のことを思い出してくれさえれば、私、もう…」 私はそれ以上言葉を紡ぐことが出来ず、そっと唇を閉じた。緩まないようにと堪えていたはずの涙腺はいつの間にか決壊寸前で、じんわりと目のふちに涙が滲む。マダラと再会してからわんわんと感情的に泣きわめくことが多く、これ以上泣き虫の女だとは思われたくなかった。泣くもんか。私は何とか誤魔化そうととりあえず一つ鼻をすすり、彼に抱きついたまま静かに深呼吸をする。 が、突然伸びてきたマダラの手が私の顔へと優しく触れてしまった。あっと思う間もなくマダラの指先はしとどに濡れる私のまつ毛を掠め、そして力なく下ろされる。 「何故泣く…」 どこか躊躇いがちな、少し困ったような口ぶりであった。俯いたままひた隠しにしようとした涙に触れてしまうだなんて、何故マダラは私の涙をこれ以上誘うようなことをしてしまうのか。彼が涙の理由を問うところで、私の気持ちを言葉にすることなんて到底出来ない。二人共に過ごした記憶を持たない彼には、今の私の胸中は窺い知れないだろう。しかし聞かれてしまったからには無視するわけにもいかず、私は複雑すぎて自分でも分からない胸の内を探ってどうにか言葉を見つけだした。 「幸せなの…」 簡潔に一言そう答え、そして彼の胸元に顔を埋めた。幸せなのに何故悲しそうに涙を滲ませるのか、なんて当の本人ですら分からない。私の答えにマダラが納得してくれたとも思えないが、しかしそれ以上彼は何も言わず、静けさが二人の間に訪れた。外から吹き込んでくる雨色の冷風に、なぜだか心地よさすら感じてしまう。そんな火照る身体ながらにもひたすらにマダラの温もりを感じていれば、戸惑うように控えめに彼の手が私の頭へと乗せられた。こうしてマダラの大きく逞しい手で頭を撫でられるの、昔は大好きだった。今だって変わらず、好き。そう思いながらゆっくりと顔を上げれば、すぐさまマダラと視線が絡む。目をうるませながらも顔を綻ばせれば、彼はそんな私から目をそらし、どこか決まりが悪そうに鼻から細く息を吐き出した。ああもう――ただただ、どうしようもなくときめく。はにかむ様に笑みを浮かべることが出来る、この喜びよ。 雨が上がったのはしばらく時間が経ってからだった。雨音が止んだころようやく彼の身体から離れれば、蝋燭は今に火が消えてしまいそうなほど小さく小さく儚い姿になっていた。 (mainにもどる) |