花筏 | ナノ
11. 紅潮

いよいよ冬めいた冴える空気に包まれ、私は一人微かにまつ毛を震わせた。遠い向こうからガラガラと荷車の音が響き始め、緊張で身体がこわばる。ずっと待ち構えていたその音は、冬の森の突き刺すような静寂で一段と澄んで聞こえるような気がした。寒空を仰ぎ見れば、今にも雨が降り出しそうな薄墨色である。早く、済ませなければ。

強く脈打つ心臓の音をごまかすかのように、何度も何度も深い呼吸を繰り返す。頭痛はあるが、それほど酷いものでもない。道を辿ってこちらへと着実にやってくる、荷車を引いた行商人の男。私は口を堅く結んだ後覚悟を決め、そしてこちらをチラチラと気にするその男へと駆け寄った。

「あの、すみません」

私が一言そう声を掛ければ、男の視線は何のためらいもなく確実に私へと向けられた。狙い通りだ。私は目にチャクラを込め、男の素直な視線に見つめ返す。私の赤い瞳を目の当たりにして、この男は何を思うだろう。ああいや、何かを考える間もなく、彼は無力にも幻術をかけられてしまうわけだけど。

「干し肉と薬草の粉末を売りたいのだけれど…これ、どれくらいになるかしら」
「ああ…はい。これですか…」

何事も無かったように私がお客の振る舞いをすれば、男は虚ろ目ながらにも平静にこちらへ応えてくれた。私の図った通り、滞りなく行商人としての仕事を始めてくれた男に、私は心の中で安堵する。

写輪眼で幻術をかけると言っても、何も酷いことをしようというわけではない。彼が人気のない道で見かけた私の姿をその頭の中から消し去り、代わりに今、私と全く容姿が違う適当な女性と売買のやりとりをしているように思わせている。たったそれだけだ。その気になれば行商人の男一人くらい一瞬で気を失わせて荷車の荷物を強奪することもできるが、それをしてしまっては後々とんでもなく面倒なのだ。「あの森を通ると頭が呆けて荷物を全部掻っ攫われる」なんてことが広まってしまったら、当然商人たちはこの森を通ることを避けるだろう。それでは人里まで買い物に行けない訳ありのこちらが困ってしまう。

だから他人になりすました幻術をかけて、こうして行商人と取引を行う。何か不都合があったとき、目と目を合わせるだけですぐに幻術をかけなおして融通が効く分、写輪眼の力は変化の術よりも安全で確実だ。

「それで、今度は売るんじゃなくて買いたいんだけど、まずは…この布と、蝋燭と…」

マダラと二人で出来る限り自給自足の生活を送っているが、やはり限界はある。私たちはたまにではあるがこうして森の少し離れた場所まで行き、適当に行商人を捕まえて物資を得ていた。決して饒舌ではないマダラとの二人きりの生活のせいか、行商人に話しかける声がところどころ掠れる。あの陰鬱の洞窟の中では声帯ですら衰えていく。たまに外に出てマダラ以外の人と関わると、身体に思いの外大きな負担がかかってしまう。どうにも体調の優れない身体で写輪眼を使ったのだから尚の事。私は頭痛を覚えながらも手を額に当てて耐えつつ、何とか男との取引を滞りなく進める。当然、周りから人がやってこないかどうか、感覚を研ぎ澄ますことも忘れてはならない。

荷台の中をぐるりと見渡して役に立ちそうな物を指差す。手際よく商品をまとめてくれる彼に、先程得たばかりの紙幣を差し出した。紙幣を受け取り確認を済ませた商人が「包みましょうか」と私の右手に握られていた風呂敷を見つめながら言う。愛想の良い商人の商売上手な笑顔に僅かな罪悪感を感じて、肩を竦めながらも風呂敷を手渡す。

「以上でよろしいですかな?」
「ええ、ありがとう。この先足場が悪くなるから、お気をつけて」

せめてもの労りの言葉をかけながら、荷物のまとめられた風呂敷を受け取る。小さく頭を下げて荷台を引こうとする彼に、こちらも軽く会釈をした。ガラガラと再び音を立てながら商人は道を進んでいく。やがてその音が微かにしか聞こえなくなった頃、私はチャクラを練り続けるのを止めた。何とか買い物を済ませることができた喜びと安堵に、大きく息を吐き出しながら近くの木にもたれかかる。

そして重たい包みを足元に置いた時。図ったようなタイミングで、見知った気配が隠されることもなく近寄ってくる。

「うまく済ませたか」

聞き慣れた声に尚更安心を感じつつも、私は振り返ることなくただ小さく頷いた。

「何だか思ってた以上にホッとしちゃった。こんなに緊張したの久しぶり」

乾いた唇と強張る頬で何とか笑顔を作って強がったはいいが、眼球に確かに感じる疲労が和らぐことはなかった。私は両手を鼻筋に添えて目頭をググっと押さえつける。眼球を酷使しましたと言わんばかりの軟弱な私の仕草は、マダラにどう映るのだろうか。また馬鹿にされたとしても最早気にしていられない。

「長いこと使ってないと、やっぱり負担が大きいのね。何だか頭も痛いし」
「外に出ずに大人しく寝てればいいものを。無理をするからそうなる」
「普段具合が悪くて寝てばかりだからこそ、調子が良い日は外に出たかったの。身体がどんどん鈍っていくのだって辛い」

相変わらずこの身に続く体調不良をひしひしと感じてしまい、焦燥感で口を真一文字に結ぶ。季節は冬へと移り変わり、体調不良を自覚してから随分月日は流れたはず。だと言うのに回復に至ることがないというのはどうにも可笑しい。私の身体はまともな状態ではないということだ。医療忍術使いの私と言えど、まともな設備も物資もないあのひもじい生活の中では出来ることも限られている。物理的な傷を治癒することは得意だが、病気など身体の中で生じている不具合をチャクラでどうこうするのは難しい。器具も材料もほとんどなく、確かに効果を感じられるようなまともな薬を作ることも不可能だ。

出来ることと言えば滋養をつけて大人しく寝ているくらいだが、身体の自然治癒力もまともに働かず具合が良くなる兆しは見えない。着実に自分の衰弱を感じる恐怖は耐え難く、私は少しでも身体が軽い日にはマダラの手伝いを願い出て、外に出ることにしていた。寒さは弱った身体にしみるが、それでも新鮮な空気と太陽の光に包まれればいくらか元気が湧いてくるような気がするのだ。

「それにまだちゃんと目が使い物になるって確かめたくて…」

何度か大げさに瞬きを繰り返した後、ようやくマダラの方へと顔を向ける。私のやや後ろでそびえる逞しい姿の彼は、如何にも何か言いたげに眉根を寄せていた。凍てつくような冬の風に揺らぐマダラの前髪、その向こうでほんの一瞬だけ白く濁る眼球が見えてしまう。何度目の当たりにしたって辛い。同情するのでさえ失礼かと思えるような気の毒なマダラのその様に私の胸は締め付けられ、逸らすようにその場で俯く。少しの間沈黙が流れたがマダラが言葉を発する様子はなく、私は戸惑いながらも息を吸い込んだ。

「私の写輪眼が本物だって、これで信用してもらえる…?」

冬の静寂に飲み込まれてしまいそうなほどに、小さく掠れた一言だった。うじうじとした態度を嫌う彼の前でこんな口ぶりではいけないと分かってはいる。しかし戸惑いに気分は重く、これ以上の気力を振り絞ることなんて不可能だった。

マダラの口から私を生かす意味を聞いたあの日から、今でさえ私の胸の内でじれったさが燻り続けている。彼に私のことを受け入れる姿勢があるのなら、一秒でも早く、一つでも多く私のことを認めてもらいたい。そんな感情に苛まれて毎日を悶々と過ごしているところに、マダラが物資を得るため行商人と取引をすると聞き、私は居てもたってもいられなくなった。この目を使って、これが本物であることを確かに彼の前で証明できる。そう思えばもうこの機会を逃してしまわないように必死で、私はマダラにわがままを言ってその役を任せてもらったというわけだ。

マダラは私の様子と台詞にこの意図を察したのだろう、じっと呆れたような目つきで私を見つめる。

「己がうちは一族であることを俺に見せつけるために、わざわざ危険な買い物役を名乗り出たと?くだらん理由だ」

その声音が苛立ちを確かに孕んでいて、私は先刻の台詞を口にしてしまったことを後悔した。大人しく黙って理由を隠し続ければいいものを、馬鹿正直に胸の内を全部晒してしまうからこうなる。愛しい人には堪らず自分の全てをさらけ出してしまう昔からの癖が抜けない。せっかちな自分が無性に情けなくなり、「ごめんなさい」と一言呟いて柔く唇を噛んだ。マダラは私のそんな様子を目の当たりにした後ふっと顔を背け、静かに細くため息をついた。

「そもそも、うちはであることを証明すること自体が今更だ」
「え?」
「こんなにも長い間一人の人間と共に過ごしてきて欺かれるほど馬鹿ではない。少なくともお前が確かにうちは一族の人間であったことなど、とうに理解している」

そして彼は一息おいて「得体の知れない人間と呑気に生活できるような間抜けだと思われては堪らん」と吐き捨てた。うちは一族の人間であることがとっくに認められているとは思いもせず、私は口をぽかんと開け、その場に棒立ちになる。認められるということが、ただただ喜ばしい。私が嬉しさを噛み締めているとマダラは私の足元の包みをひょいと軽々持ち上げ、横目で私を見遣った。

「お前は間抜けのようだがな」

そうして馬鹿にするように鼻を鳴らすマダラ。ぽかんと立ち尽くしている私の姿を馬鹿にしているのだと数秒かかってやっと理解し、私は途端に顔を熱くする。ああもう、マダラってば本当に天の邪鬼だ。せっかくの感動のシーンだと言うのに水を差され、私は真っ赤なしかめっ面で俯き佇む。恥ずかしくてたまらなくなり、右の手で口を覆いしどろもどろしていれば、突然熱い頬にひんやりと水滴が落ちてきた。

ぽつり、ぽつり。

控えめに空から降ってくる雫に気づき、マダラと二人で空を見上げる。そろそろ降りそうだとは思っていたが、洞窟に帰るまでもたなかったようだ。どうしようと無言のままマダラへ視線を向ければ、彼は私に見つめ返した後ひょいと木の上へと飛び移った。言葉は無かったがあの目配せは「付いて来い」の合図に違いない。私は冬の空気と雨粒に赤い頬を晒しながら、懸命に彼の後を追いかけていく。



********



「雨、強くなちゃったね」

マダラに向かって投げかけた言葉だったが返事は返って来ず、居心地の悪さに今一度外へと顔を向けた。地面を鞭打つような激しい雨の音を、私たちは小さな洞穴で聞いている。雨が強くならなければそのまま真っ直ぐ住処である洞窟まで帰るつもりだったが、予想以上に雨脚は強くなってしまった。こんな真冬に土砂降りの雨を浴びて帰るのは避けたい。そんな私達が雨宿りに選んだのは、浅めに岩山がえぐれているような、ごく小さな洞穴だった。洞穴というよりはむしろ、ただ上の方で大きく岩が出っ張ってるだけとでも言ったほうが適当かもしれない。しかし雨を凌ぐことはできる。数歩奥へ進めば数段岩で足場が高くなっていて、足元が濡れることもない。雨宿りには十分だ。

運の良さにホッとため息をつきながらも、私は少し濡れてしまった衣服に手で触れる。絞るほどびしょ濡れではないが、それでもこの湿っぽさは確実に私の体温を奪っていく。自ずと震えそうになる顎を何とか食いしばり、しかし寒さには耐えきれず交差した冷たい手で己の二の腕を擦り続けた。

寒さに堪えつつもマダラの隣まで歩み寄り、少し悩んだ後、私はその場に腰掛けた。立膝で座る左隣の彼の姿をチラチラ盗み見るが、彼はこちらなんて気にしてない風にただ外を見つめるまま。会話をしようにも何の話題も浮かばず次第に退屈な気分になり、私は膝を抱える手に力を込めた。身体を丸めるように座っていると、ほんの少しだけ温かい。さらに暖を求めようと膝に顔を埋めれば、何の面白みもない呼吸音が身体中に響いた。思ったよりも温かくならず、何となく遣る瀬無くて目を閉じる。

「コマチ」
「ん?」
「寝るなよ」
「分かってる」

小さな声音だったがこんな至近距離なら十分聞こえているはず。そのままぼんやりと上の空を続けていると、隣でマダラがガサゴソと物音を立て始めた。彼が一体何をやっているか気になりはするが、しかし確かめる元気も残っていない。まあいいや、とそのまま顔を埋めたまま小さく貧乏ゆすりをする。

が、次の瞬間ボッと突然あたりに響いたその音は、そんなものぐさな私を驚かすのに十分な音だった。慌てて音の方へ顔を上げれば、先刻買ったばかりの蝋燭を手に持つマダラの姿。マダラはようやく顔を上げた私を横目で一瞬認めた後、蝋燭へと顔を向け艶やかに口をすぼめた。

――小さな小さな火だった。マダラが吹き出した細く控えめな火は、容易く蝋燭へと灯る。わずかな間を置いてその唇は閉じられ、マダラはゆっくりと息を吸い込んだ。呼吸で胸を膨らませる彼の姿から、目をそらすことができない。住処である洞窟内で使う蝋燭にこのように火を灯す姿はもう何度も見ているが、それでもその度その度にこの橙色に心を捕らえられてしまうのだ。性懲りもなくマダラに心を捕らえられる自分の様に、堪らず小さく自嘲の笑みを零した。

「今更なんだけどね、マダラが小さい火しか吹き出さないの、なんか変な感じ」
「変?」
「だって大きな火を吹いて戦ってる姿の印象が強くて」

轟々たる音を響かせ敵を圧倒する、在りし日のマダラの姿が自ずと脳裏に浮かぶ。異常なほどに明るくなる辺りの様子も、周りの忍のどよめきも、そしてその中心で逆光になって陰るその逞しい背中も、何もかもが懐かしい。うちは一族の忍らしく大きな炎を自在に操るマダラの姿は、どんな時だって一番格好良かったんだ。

こみ上げる懐かしさに堪えきれず、切なくてしゅんと眉尻を下げる。そこらに転がる石ころを使ってマダラが器用に地面に立てた蝋燭。揺蕩う小さな光だと言うのに、見ているだけで身体が暖められていくような、そんな心地がした。

「お前も戦場に出ていたのか」
「毎回ではないけどね、後方で治癒術使ってることのほうが多かったし」
「…そうか」
「でも、今でも鮮明に思い出せるよ。だって戦うマダラってば、誰よりも格好良かったんだから」

何も返事をしようとしないマダラの姿を見て、私は言葉を続ける。

「今でも思い出すだけで、ドキドキする…」

と言葉を紡いでいる私の心臓はドキドキなんて可愛げもない、ドンドンと突き上げるような勢いで早鐘を打っていた。この感覚、初めてじゃない。幼い日に何度も何度も味わったような、そんなじれったさだった。勢いのままに言葉を紡いでしまったが、私ってば随分大胆なことを言ってしまったのではないか。今更そう気づき、うつむき気味の視線を持ち上げれば、マダラはただただ私を見ていた。僅かに上へと持ち上げられた瞼、少し隙間の空く唇。いつもとは少し違うマダラの表情を目の当たりにして私は尚一層の恥じらいを感じるが、しかしまだ胸の内を何かにくすぐられているようなそんな感覚が消えない。

何と彼に声をかけたらいいかも分からず、しどろもどろに身体を縮こませていると、マダラはガシガシとうっすら湿る髪の毛ごと頭を掻いた。性急に揺れるその黒髪を目で追うことしか今の私には出来なかった。

「…大分冷えるな」

何事も無かったような、落ち着きを孕む声音。でも、いや、違う。一見すれば冷静沈着な台詞だが、しかしマダラには――在りし日の私が大好きだったマダラには、こういう情緒的な場面で咄嗟に逃げるような癖があったのだ。

何事も無かったかのようにこのまま寒さの話題に乗じる、そういう選択肢もあるだろう。そうして流されてしまえば、無闇やたらに胸が締め付けられるような心地もしないし、恥で顔を真っ赤にすることもない。そうしてしまった方が絶対に楽なのだ。

だけれどこの胸でくすぶるじれったさを、私は抑えきれそうにない。ムズムズと何かが蝕むような感覚が全身に溢れていた。マダラへの愛おしさのあまりに、指先が小さく震えている。胸元が詰まるようで息が苦しいが、呼吸が乱れていることを彼に悟られたくなくて一生懸命に普段通り呼吸するふりをした。何もかもが既視感に満ち満ちていた。大切な私の思い出であり、全部マダラと共に経験したこと。薄暗い空気の中で蝋燭の光はやはり小さく、しかし目いっぱいに温かみを含んで揺れていた。どこか気分を落ち着かせるような蝋燭の灯火を荒い呼吸でしばらく眺め、私は一度目を閉じて大きく深呼吸をした後、ゆっくりゆっくり唇を開いた。

「二人でくっつけば温かい、かも…」

蝋燭の火が大きく揺れた、かもしれない。私は目を閉じたまままつ毛を震わせ、そして彼の座る左側へと身を傾けた。