10. 大願 マダラが食料として調達してきたキジを処理し、一人で黙々と羽をむしる。季節は夏を終え、実りの秋となり、マダラは冬を越すための食料集めに励んでいるようだ。兎にも角にも、生き物である以上食料を欠かすわけにはいかない。人里から隠れ、こんな山奥の洞窟でひっそり暮らすことの厳しさを最近ひしひしと感じるようになった。ぐうたらしているわけにもいかない。私はマダラの狩りの手伝いに連れだされたり、洞窟内で処理や調理をしていたりと忙しい日々を送っていた。 鶏を捌いた経験が無いわけではないが、光源が十分ではないこんな洞窟の中では思いの外体力を使う。思うように羽が抜けず、今一度キジの身体を熱湯の中に沈めた。キジが熱湯で茹で上がる生々しい臭いに突然胃酸が込みあげるが、何とか堪える。一度この臭いからちょっと離れようとキジを湯から上げた後すぐに立ち上がれば、目の前が暗くなった。立ち眩みだ。最近は特に酷い。今まで座ってじっと作業をしていたところに突然立ち上がったからか、中々胃のむかつきは良くならず、少し離れたところで石壁に身を傾ける。 「こんなところで吐くなよ」 「…大丈夫。そこまで気持ち悪いわけじゃないから」 いつの間にか外から帰ってきていたマダラの声が聞こえて、私は顔をあげる。暗がりから徐々に浮かび上がるマダラの姿に、心なしか安堵を覚えて私は胸を撫で下ろす。 マダラに潔癖の気があることは承知だ。具合が悪いとは言えさすがにいい大人なので、ある程度わきまえることは出来る。私は彼に無駄な心配をかけまいと、力なくだが笑みを浮かべた。しかしマダラは依然として、こちらを見つめたままである。 「ここのところ毎日顔色が悪いな」 やはり、感づかれていた。あまり知られたくなかったので隠すつもりだったが、やはりこうしてふとした瞬間に弱った姿を見られてしまう。医者にかかることも出来ないこんな状況で、体調をくずしてしまったことは厄介だ。マダラの足手まといになる。私は深く呼吸を繰り返しながら身体を静めようとするが、それでもまだ目眩とむかつきは治まらず、ついにはその場にしゃがみこんだ。どうしようもなく「ごめんなさい」と一言零すと、マダラはこちらに歩み寄りすぐ隣から私を見下ろす。 「一応確認はしておくが、孕んだわけではないのだな」 「それは、絶対ない。大丈夫」 胃を刺激しないよう、ゆっくりとそう答える。これでマダラは安堵してくれるかと思っていたが、まだ彼は怪訝そうな表情を浮かべている。 私たち夫婦は一族にいた頃より子供を授かることはなかった。頭領とその妻であった頃どんなに子供を持ちたいと願っても出来なかったのに、まさか今このタイミングで授かるだなんてそんな奇跡は存在しない。むしろその方が良い。こんな人目を避ける状態で授かったとしても、生まれてくる子供が可哀想だ。 「大傷を負って目を覚ましてからお前はずっとやつれたままだ。太陽の光を浴びて身体を動かせば多少は良くなるかと思ったが、予想以上に貧弱な身体だな」 私の手は自然と自分の輪郭をなぞった。己の身がやつれていることなんてとっくに知っているが、それでも人に指摘されてしまえば不安は隠せない。 嫌味混じりとは言えマダラが心配するくらいなのだから、よほど不健康そうに見えるのだろう。長く意識を失って、目覚めた後も脇腹の傷の痛みに長く苦しんでいたので、健康であるというのがどういう具合なのか忘れてしまった。初めて外に連れだしてもらった時は気分が高揚し自分では清々しく思っていたが、マダラから見ればやはり良くない状態だったらしい。私を気遣ってくれたマダラに感謝しつつ、私と同じ高さに合わせてくれた彼の目に微笑みかけた。 「あんな大怪我だったんだもの。ここじゃ病院にかかれるわけでもないし薬があるわけでもないし、具合が良くならなくてもしょうがないわ。生きてるだけでも十分」 「…」 「今日はちょっと、寒くなってきたからそれで体調崩しただけ。大丈夫」 まだ完全に吐き気が治まったわけではなかったが大分落ち着いてきたし、何よりこれ以上マダラに心配を掛けたくなかった。私はゆっくりと立ち上がり、ふらふらと処理場まで歩いて行く。 「キリの良いところまで終わらせたら、休んでもいい…?」 「…ああ」 マダラの方へ振り返る気力もなく、私は「ありがとう」と小さく呟いて再びキジを解体する作業についた。しばらくの間マダラは作業を眺めているようだったが、そのうち沈黙を守ったまま彼の気配は遠ざかる。洞窟内から彼のチャクラが感じられなくなったことを感知した途端私の緊張の糸は断たれ、力なく猫背にため息を吐いた。 ****** キジの処理を終えた後私は早々に自室へと帰り、寝床に横になった。人一人横になれる大きさの平らな岩に、適当に藁やら布やらを敷いて寝台に仕立てられたこの場所。今までも散々思ったが、布団のようなまともに寝れる環境が一段と恋しくなり、切なさにうずくまる。 ――いつの間にか私はそのまま眠りに落ちたようだ。 目を覚まし、ぼぅとする頭で辺りを見渡す。今は朝か、夜か。何時間。どれくらい眠っていたのだろう。相変わらず体内時計がまともに働かず、正しい時間を知れないことが堪らなくもどかしい。マダラは千手柱間に敗れてから、ずっとこんな息苦しい生活をしているのだろうか。マダラの今までの独りで受け止めてきた苦悩を思えば、私の身体は縮こまるように悲しみを覚えた。 「起きたのか」 私が目覚めてからそれほど時間も経たないころ。聞こえてきた声に顔を上げ、横髪を耳にかける。起きるのを待ち構えていたようなタイミングでやってきたマダラは、私の顔を一目した後、すぐさまその場からいなくなってしまった。何か用があるのかと思ったのに。拍子抜けしてしまって虚しい気持ちになるが、しかし寝台から動く元気もない。私は再び目を閉じ、意識を遠ざける。 何気なく、ウトウトと無意識の中を漂っていたところで目を開ける。マダラが私の顔を見下ろすように寝台の傍に立っていたので、驚きでハッと飛び起きる。 「なに…?」 どこかへ行ってしまったはずなのに、何だろう。私は身体に掛けていた厚手の布を胸の前に手繰り寄せて身構える。淡々とした瞳のマダラは何も言おうとしない。しかし視線を下ろしてみれば、彼は大きな木皿とお椀を持っていた。 いつもの食事よりも、量が多い。そもそも贅沢できるような環境ではないので、普段は必要最低限の食料しか口にしない。冬を控えて食料を今のうちに貯めこむ必要があるというのだから、最近は尚更だ。しかし皿の上に無造作に乗せられた大量の焼いた肉、そしておそらく茹でてあるだろう野草と芋。 「吐き気は」 「あ…今は、良くなったみたい」 「ならば食え。時間をかけてでも、食えるところまで胃に詰めろ」 と、無愛想な声と共にこちらに差し出されたのはお椀だった。両手で確かに受け取ると、ほんのりと温かい。白湯だろうか。お椀の中で水面が小刻みに震える。お椀を落としてしまわないように力をこめようとするが、思うようにできない。私は目頭を熱くしながらも懸命に涙を堪え、何とかマダラを見据えた。感極まるあまりうまく言葉を発することが出来ない。そんな私に呆れるようにマダラは鼻から息を吐き出した後、木皿を私の身体の傍に置いて少し遠くの壁に寄りかかった。 「私のために…?」 震える声で何とか紡ぎたした声。マダラは腕を組み、目を閉じた。黙りこんでしまったその様子に、私はそれ以上何もできず困惑する。沈黙は淀み続ける。私は垂れてきた鼻をすすりながら、ひとまずゆっくりと白湯に口をつけた。口の中がぽかぽかと温かくなり、そして飲み下せば身体の真ん中までその温もりは広がり行く。冷たい身体に染み入るようなその優しさに、私の涙腺は尚も刺激されてしまう。あの無慈悲で塗り固めたような冷徹なマダラが――私を踏みつけ、そして手籠めにしたマダラが、今私を労ってしてくれたこと。どれほどこの温もりを追い求めていたのだろうか。白湯を飲めば飲むほどに、目から涙が零れた。口元まで伝う涙が煩わしくて荒々しく手の甲で拭うが、それでも涙はやまない。 大人気なく泣きじゃくりながら白湯をすすっていると、静寂を守っていたマダラから息を吸う音が聞こえた。冷たい石壁によく響いて鼓膜を震わせる。 「コマチ…正直に言おう」 突然の物言いに、お椀から口を離す。 「俺は、自分の記憶に不明瞭で不自然な箇所が多々あると自覚している」 そんな――馬鹿な。胸を貫かれるような衝撃で呼吸さえも忘れる。 目を見開いて全身で彼の言葉を受け止める。 「曖昧な記憶は、不愉快でしかない。しかしいくら思い出そうとも、鮮明に蘇ることはない」 「…」 「コマチ。お前は一族の頭領であった俺が知らない人間でありながら、うちは一族のチャクラを持ち、うちは一族の家紋背負い瀕死で倒れていた。今にも死にそうだったお前こそが、この俺の曖昧な記憶の鍵を握っているのではないかと…そう思えた」 鋭いその目元から放たれる視線。向き合わなくてはならないと分かっているのに、身体が拒否するようだった。心臓がバクバクと大きな音を立てて胸で打たれている。みぞおちが強く打たれたかのような感覚に私は戸惑い、お椀を持たない片方の手の指を唇に当てやった。 「何らかの能力でうちは一族の人間に擬態した忍である可能性もあったが、興味を抑えきれなかった。一族に無関係の敵ならば、一瞬で始末して無かったことにも出来る。そうして俺はお前を助けた」 マダラが私を攫ったのは、都合の良い奴隷が欲しいからだと思っていた。いつでも性欲をぶつけることが出来て、身の回りの世話を押し付けられるような、そんな存在が欲しいのだろうと思っていた。しかし腑に落ちなかったのである。性欲の捌け口の割には、私の身体を酷く傷めつけるような過酷なまぐわいは行わない。私に任せるのは一般的な作業ばかりで、汚い仕事や面倒ごとを全て押し付けるわけでもない。そもそも、奴隷が欲しいだけならあんな瀕死の女を連れてくる必要はないのだ。今にも死に絶えそうな人間の生命を繋ぎ止めることが、どれだけ困難なことか。奴隷ならばそこら辺で適当に女をさらってくれば事足りてしまうというのに。 今この瞬間合点がいった。マダラは真実を求めるために私を攫ったのだ。まさかマダラが自分の記憶錯誤を自覚しているとは思わなかった。マダラはずっと自分の本当の記憶を取り戻したかったということ。そのために瀕死の私を救うことが必要だった。「うちは一族である証拠を携えながらも記憶にない謎の女」こそが、失われた真実への一歩だと悟ったのだ。 「私、わたし…どうすれば」 まだマダラが私の記憶を失った理由は全く分からない。私の記憶を持たない彼からすれば、「私はあなたの妻だ」なんてそう易易と受け入れられることでは無いだろう。しかし私のことを信じようとしてくれる気持ちが、今のマダラの中には間違いなくある。そう思うと、喜びで彼に伝えたいことは溢れてくるのに、唇が震えて言葉に詰まってしまう。嗚咽が飛び出してしまいそうなことに気づき、私はお椀を傍らに置いて口を手で覆う。 ――しかし動揺のあまり肘がお椀に当たったことに気づかず、一瞬のうちにお椀は寝台から転げ落ちた。まだ少し残っていた白湯が、儚くも地面に溢れて広がる。あっとようやく気づいてお椀に手を伸ばせば、視界の端から伸びてきた手が一瞬の内にお椀を掴んだ。瞼を震わせながら顔を上げる。 「苦労してここまでお前を生かしてやった。今更死なれては努力が無駄になって困る、それだけだ」 目を覚ました私が不審なことを起こせばすぐにマダラは私を殺しただろう。あの時マダラに死にたいと請い、そのまま意見を変えることがなかったなら、やはりマダラはあのまま私の首を締めていたに違いない。 記憶に不明瞭な部分があるとは言え、知らんぷりをして私を切り捨てこのまま洞窟で独り暮らしていくことはマダラにとっては可能だ。それでも私は生きることを望み、そして今マダラは私が生きることを望んでくれる。わずかではあるが少しずつ少しずつ、着実に育まれていくマダラとの信頼関係を今まさに、この身体の全てで実感することができる。こんなに嬉しくて、私は頭がどうにかなってしまいそうだ。 マダラによって拾い上げられたお椀を、涙でぼやける目で見つめる。マダラが自分で作ったのだろうか、若干いびつな形ではあるがそれでも十分しっかりとした、その木のお椀。私は数度息を吸ったり吐いたりした後、ぐっと脇を締めて唇を綴じ合わせ、そして恐る恐るお椀から視線を上げていく。血管の浮き出る手首、ところどころに汚れが残る袖、逞しい肩。女の私と違う、太い首。 そしてその先に見えた、マダラの顔。しかめられてはいるが、しかし憎悪は込められていないぶっきら棒な表情。もったいないほどに私を慈しみ大事にしてくれた、かつての日のマダラの姿を鮮明に重ねる。間違いない、同じ人だ。 (mainにもどる) |