ゆくらくら恋ふ | ナノ
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18. 春雨桜の終末

春。空から降るとても繊細な雨の滴を、少し冷えた部屋の中からぼんやりと眺めていた。鼠色の空を見上げようと少し顔を上げれば、目に飛び込むのは沢山の桃色の花びら。

――私は千手の屋敷で今、桜を眺めている。








「コマチ、もう気にするな」

柱間の言葉でふと我に返り、改めて畳の上に居なおす。目の前で座っている柱間とミトさまの姿を一目した後、私は静かに視線を伏せた。

「あなたが気にする必要はないわ」

隣の柱間と全く同じ、真剣な面持ちで私を見つめるミトさま。彼女の懇願するような声音に思わず唇を噛みしめる。聞きたくなかった。何も聞きたくなかった。本心を言えば今すぐにでもこの部屋を飛び出したいほどに心苦しくて、思わず喉をつまらせてしまう。返事をしようにも、力んでも力んでと思うように声が出てくれない。

「もう後ろめたく思わなくていい。コマチの心のままになれ」
「……いえ」
「コマチ…」
「私は…責任を負わなくちゃ、いけませんから」
「責任なんぞどうでも良い。素直になって、扉間と…、」
「婚約破棄で一族のみんなに迷惑をかけたのに、そんなこと…できません」


そう――私は婚約を蹴った。己の情けなさにはほとほと愛想が尽きる。こんなに柔で救いようのない人間だとは思わなかった。


うずまき一族の男性と政略結婚をして両一族の架け橋になると誓ったあの日から、私はずうっと自分自身を押し殺してきたはずだ。千手一族のため、そしていつか柱間たちが掴みとってくれるであろう平和のために犠牲になると決意した。扉間に恋焦がれた思い出は所詮過去のものだと胸にしまい込み、ただ前を向いて生きていく。そう心に固く決めた。

しかし私は堪えきれなくなってしまったのだ。――酒に絆されて私と身体を繋ごうとしてくれた扉間が。あの晩夢に見た、私を宝物のように慈しむ幼い日の扉間が。数か月かけて必死の思いで守り固めていたものは、たったこれだけのことにいとも容易く、そしてあっけなく一瞬のうちに崩されてしまったのである。


そして彼へ溢れる愛おしさは止まぬことなく私を蝕んだ。――彼と一緒に居たい。傍に居たい。おしゃべりしていたい。彼以外の人のもとに嫁ぐだなんて嫌だ。どうしようもない子供のような我儘だと分かってはいたが、私は疾うに自制なんて出来ないほどにおかしくなっていたのである。幼い日の夢を見て散々に泣き腫らした後、上役の爺様の元へ出向き、地に頭を擦り付け、決死の思いで土下座を繰り返した。当然爺様は許してくれなかった。私に叫びにも似た罵声を幾度となく浴びせ、叱り諭そうとする。しかしどんなに爺様が大声で叱ったって怒りで顔を歪めたって、私は泣きながら死にもの狂いで土下座をして婚約の破棄を哀願するしか出来なかった。あの時の私は、扉間の傍に居られるのならこの身がどうなってしまっても構わないとすら思っていた。どうしようもなくて馬鹿馬鹿しい恋心のせいで、私は滑稽なほどに狂い乱れてしまったのだ。

地獄としか思えないような悲惨な状況の中――騒ぎを聞きつけた他の上役達も加わり、大勢の男に囲まれてこっぴどく叱責されている私を救ったのは柱間だった。上品のかけらもないような酷い顔で泣き叫んでいた私をかばい、別室に避難させ、とても優しく温かな声で慰めの言葉をくれた。それから彼がどのようにしてあの上役たちを納得させたのかは知らないが、私が心労に倒れて呆然自失状態で寝込んでいるその間に、柱間はうずまき一族に結婚の断りを入れる書状を送ったそうだ。

「向こうは、納得いかなかったはずです。大層揉めたでしょう」
「それはお前の気にすることではない。知らなくていい」

私が何度聞いたって柱間はこうしてはぐらかす。まあ私に教えたがらないということは、状況は過酷だったと言う訳だろう。当たり前だ。あと一か月で嫁を迎え入れるそのタイミングで、全てが水の泡になったのだ。憤慨して当然のことである。酷く揉めたからには書状ひとつで事が済むはずがないだろうし、使いも何人か送ったに違いない。それでも今こうして千手一族が戦争に慌てることなく平穏に過ごせるのは、きっとミトさまの尽力があったからだ。ミトさまも事の詳細を私に隠したがるので直接聞いたわけではないが、自分の故郷である渦潮の国に何度も何度も直筆の手紙を書き、今回の件についての許しを乞うたのだと風のうわさで耳にした。ミトさまのお腹は今や、服の上からでもわかるほどに大きくなった。身重の人間にそんな苦労をさせてしまっただなんて、私はなんと罪深い大馬鹿者だろうか――。

心配そうにひたむきな目線をくれるミトさまへ顔を向ける。彼女だって政略結婚を経た人間なのに、それが出来なかった私を咎めることなどせず、ただこうして心配の眼差しを差し向けてくれている。自責の念に駆られ、手がガタガタと震えだした。私はそれを隠すように自分の太ももに押し付け、頼りなさげに視線を彷徨わせる。

「本当に、ごめんなさい…」
「コマチ…」
「ごめんなさい…っ」

私の名前を呼ぶミトさまに応えることも出来ず、うわ言のように何度も何度も謝罪の言葉を呟いた。こんなちっぽけな言葉で水に流すことができるだなんて、もちろん思っていない。思っていないけれど言わずにはいられなかった。自己嫌悪のあまり、今この瞬間でさえおかしくしまいそうだったのだ。鼻の奥のツンとした感覚に慌てて深呼吸を繰り返す。今二人に涙を見せてしまったら、なおさら同情を誘うことになってしまう。情深い二人に対してそれはあまりに卑怯だ。何とか目に滲む涙を引っ込めて、私はまた一つ「ごめんなさい」と呟いた。

「謝らんでくれコマチ。俺とミトはお前を責めたりはせん」
「…柱間とミトさまがそうでも、皆は違います」
「一族の皆には俺から今一度言おうぞ。コマチの婚約破棄についてはもう口にするなと」
「そんな、そんなこと…やめてください」
「しかし、」
「やめてくださいっ」

私は柱間の台詞を遮るように大きな声を出して、左右に首を振った。

「同盟解消は二人のおかげで免れたとしても、それでもうずまき一族からの信用を失ったことは変わりません。全部私のせいです」
「違うわ…!あなたはもう気にしなくていいの」
「婚約破棄を願った時から覚悟はしてました。一族のみんなに後ろ指さされることだって疎まれることだって当然ですから。今更です、そんなの」

私が土下座をして政略結婚を拒んだことは瞬く間に広がり、今や一族の皆が知っている。物陰で非難を口にする者も居れば、直接私に嫌味を吐き捨てる者も居る。だが仕方のないことだ。全部覚悟の上だった。勝手に決められた結婚とは言え、拒否して両一族の関係を悪化させてしまっては皆に多大な迷惑をかける。皆の非難の的、一族の恥になり生きていかねばならないことは分かっていた。それでも。

――それでも私は扉間の傍を離れたくなかったのだ。彼以外の人と結ばれたくなかったのだ。


「ならばせめて扉間と二人で幸せに、」
「こんな状況で扉間と結ばれるだなんて、一族のみんなが許すわけないじゃないですか。扉間の名誉にも関わります」
「…それではお前がこんな辛い思いをする意味がないぞ…」
「そんなの、分かってるよ…っ」

感極まるあまり、肩身の狭さから使っていた敬語がはずれてしまう。私は太ももの上に置いた拳を強く握り、ただひたすら苦悶に耐える他ない。私は扉間のことを愛している。心の底から溢れる愛おしさのあまり、今でさえ苦しくてたまらない。しかし他族との仲を悪化させてまで無理やりに婚約を投げ捨てた今、のこのこと別の男性と、扉間と結ばれたりしたらどうなるか。――考えたくもなかった。

きっと、政略結婚の話が舞い込んだあの時点で、私と扉間が結ばれる手段はすべて潰えていたのだ。可能性は零である。私と扉間が結ばれることはない。これ以上一族の皆に嫌われるのは嫌。もう嫌だ。

「扉間と結ばれるはずがないことも分かってて逃げ出したんです」
「それならばどうして…!」
「ただ…っ。ただどうしても扉間から離れたくなくて…!」

ガタガタと震える顎を押さえつけるように、咄嗟に歯を食いしばった。激しく波打っている心臓の元に手を這わせ、その肌を服の上から鷲掴みにする。堪えがたい痛み。僅かの間流れる沈黙の中、私は荒立っている自分の呼吸の向こうで、しとしとと静かに降る春雨の音を聞いた。

「扉間のことは、忘れます。きっといつか忘れられるように、頑張ります」

あまりの遣る瀬無さに視線を伏せているので二人の様子は分からないが、何の反論も聞こえないあたり呆然としているのかもしれない。それとも嫌だ嫌だと全てを否定する私に対して、苛立ち悶えているのか。

「孫の顔を見たがる両親もいませんし、良いんです」
「コマチ…」
「これから先はつまらない煩悩に囚われることもなく…せめて、罪滅ぼしのためにも、一生独り身で一族に尽くして生きていけたら良いなって、」
「…」
「そう、思ってます」

嘲笑にも似た笑みで口を歪ませながら、そう吐き出しきる。やっと自分の胸の内を、他人にさらけ出すことができた。嫌にすっきりとした心持でほうと息を吐き、肩の力を抜いていけば、目の前のミトさまは突然こちらに詰め寄り、その温かな腕で私の頭を包み込んでくれた。震える彼女の背中。やがて頭上から降ってくる繊細な嗚咽に、微かに目を見開く。こんな風にわが身を思ってくれる人がいてくれるというのは、とてもとても幸せなことだ。









それから二人の部屋を後にした私は、始めは自室に戻ったもののどうにも落ち着かず、無造作に草履を履いて傘も差さず裏庭に飛び出した。せめて千手の元で桜が見たかったというなんとなしの願いが叶うだなんて、あの頃の私は夢にも思わなかっただろう。せっかく満開を迎えたというのに、ここ最近は天気が宜しくない。一族の花見に参加するつもりは元よりないが、これでは桜も可哀想だ。雨水でしとどに濡れて舞い落ちる桜の花びらをなんとなしに捕らえ、じぃとひたすらに見つめる。ひんやりと冷たくなって萎れてしまった桃色のそれの感触は、なんとも物珍しいものだ。小ぶりの細い雨に濡れることも厭わず、頭の中を空にしてぼんやりとしているのが今の私には心地よかった。

「…わざわざ気配消したりなんかして、どうしたの?」

やんわりと頬を緩ませながらそう呟けば、途端に私に降り落ちる雨の滴が遮られる。いくら気配を消そうとも、ここまで近くに寄って来ればさすがの私も気づく。そして静かに振り向くとそこにいるは私の予想通り、大きな体、黒い服、赤い瞳――。私に紺色の番傘を傾ける彼の銀髪が、雨に濡れてきらりと光っている。

「お前が傘も差さず飛び出していったのを見かけて、不審に思ってな」
「…そっか」

そういう扉間だって一本の傘しか持たずに飛び出してきたではないか。雨に濡れてしまった彼の様子を目にして、きゅんと左胸にいつもの感覚を覚える。ときめき、だろう。自分が雨に濡れることも構わず、私を心配して来てくれたんだ。やはりこの幼馴染は優しい。彼の共に過ごせた長い月日が私にはもったいないほどに、とても素敵な男性だ。熱くなる頬に慌てて顔を逸らし、今一度桜を見上げる。

「桜、雨のせいで早めに散っちゃたりしなきゃいいけど…」
「…ああ」
「桃華がね、誘ってくれたの。二人っきりでひっそり花見でもしないかって。…楽しみにしてたんだけどなあ」


隣で同じように桜を見上げる扉間の顔を、そっと盗み見る。ああやはり勇ましく端正な横顔だ。幼いころから、隙を見つけてはこうして隣にいる彼の顔を眺め続けていた。大好きな人の姿を、少しでも多くこの目に焼き付けておきたかったからだ。意識などせずとも、自然と目は彼を追いかけてしまう。

――しかしそんな癖とも、もう決別しなくてはならない。私は扉間と結ばれることがありえないと知りつつも、扉間の傍に居たいと願い、沢山のものを失ってここに留まった。矛盾した思いに、いつかはけじめをつけなくてはならないのだ。扉間はきっと私のことを好いてくれているが、結ばれる可能性が微塵でさえ残っていないことにも気づいているだろう。ここで彼が無理強いをしても、私が無理強いをしても、尚更一族から疎まれるだけだ。賢くて合理的に物事を考えられる扉間なら、私を手に入れよう等と幼稚な行動はしないでくれるはず。それでいい。私だってこれ以上一族の皆に軽蔑されたくはないのだから。

そしていつかきっと、扉間が嫁を迎えることもあるだろう。仮に扉間自身が望まなかったとしても、爺様たちが無理やりにでも進めるに違いない。私はそう遠くない未来、扉間が別の女性と結ばれるのをこの目で見届けることになるはずだ。だからこの恋心に収集をつける。今はまだ彼の姿を見れば胸は高鳴り、言葉を交わすだけ心躍ってしまうけれど、平穏な心持で彼に接することが段々にでもできるようにしてみせる。例え結ばれ得ずとも、例え彼が違う女性を嫁に取ろうとも、私は彼の「仲間」として、そして「幼馴染」として傍に居ることは許される。それで十分なのだ。――これで私は、なによりも幸せなのだ。

自分が濡れることも気に留めず、私に傘を傾けてくれる扉間の手を、自分のそれで包み込む。微かに驚いたような眼差しでこちらを見た扉間に、にへらと気の抜けた笑顔を差し向けた。

「扉間が濡れちゃうよ」

密やかな声でそう呟いて、傘を持つ彼の手の角度を変える。真っ直ぐと雨雲を差す、それほど大きくはない番傘。これで少なくとも、二人が均等に雨を避けて均等に肩を濡らすことができるだろう。

「男の気遣いを黙って受け止めるのも礼儀だと思うが」
「いいの。対等じゃないのはなんか嫌だから」

名残惜しくも手を離しつつそう口にすれば、扉間は呆れたような苦笑いで僅かに口元を綻ばせてくれる。――その顔、久しぶりに見た気がする。ここ最近はずうっと重々しい出来事ばかりだったから、自然と目にするのは彼のしかめっ面ばかりだった。だから今、口角を上げて私を見つめてくれる扉間の姿が心から喜ばしい。長い間心にへばりついていた氷が緩やかに、そして穏やかに溶けていく。これくらいの関係が、一番心地いいに違いない。そして私の何もかもをあんなに狂わせた恋心だって、きっといつかは消えてくれるんだ。

逞しく成長していた扉間と再会し、胸を高鳴らせた日も。
酒に酔っぱらってうっかり扉間に甘えてしまった日も。
熱くとろけてしまいそうな口付けを交わした日も。
照れるその背中と共に布団に包まれた日も、なにもかも。
そして――。

彼に恋い焦がれ憂いのまま途絶えた思い出も、所詮過去のものだと遥か彼方に忘れ去り、そして気丈に振る舞って彼と生きていく。それでいい。何故か涙ぐみそうになり胸が詰まってしまうその理由は知るもんか。――ああ私はなんて幸せなのだろう。


「強くなろうと思うの。今までよりもずっとずっと強くなるの」


相合傘の柄の向こうで佇む扉間の姿を、しかと目に焼き付ける。若干声は潤んでしまったが、雨音に隠れて彼が気づかなければいい。

「だから、あの、もしも今暇だったら…扉間に修行に付き合ってほしい、かも…」
「暇なわけではないが…お前に稽古をつけてやるくらいの時間は作れる」
「…本当?」
「俺が冗談を言うと思うか」
「ううん…ぜんっぜん思わない」

雨雲で薄暗い辺りに似つかわしくないような気丈な声を、何とか喉から絞り出す。明るくあろうと努める私を知ってか知らずか、彼は黙りこくって真っ直ぐにこちらを凝視していた。なんだなんだと僅かに肩を竦めれば、こちらに手を伸ばす扉間。思わず反射的に目を瞑る。



――が、おでこのあたりにほんの僅かな感触を覚えただけ。

そっと瞼を持ち上げると、扉間は桜の花びらを一つ摘まみ、何食わぬ顔でそこに立っている。ああ扉間、扉間。感極まり思わず微笑みも零せば、扉間は目を細めつつ慈しみに満ちた視線を私にくれた。