忍少年と隠忍自重 033


「…う…」

真っ暗な視界が色を取り戻し始めた。
滲んで曇っていた世界は、形を作り出し、ゆらゆら揺れる灰色が地面だと分かる。
まるで陶器で頭を殴られたような頭痛とダルさ。

そして、首には火傷を負ったような、ジクジクとした痛みに顔を歪める。
恐らくスタンガンか何かで意識を飛ばしたのだろう。
後ろ首に手を当てようとして、忍は初めて両手が塞がっている事に気がついた。
背もたれになっているのは、骨組みがむき出しの円柱―――倒れたはずの体はいつの間にかL字型で、地面に座らせられている。
後ろに向かってその柱を抱くように、両手を回されて、両手首をロープのような紐で束縛されていた。
両手を縛る縄が手首の皮に食い込んで痛い。
乱雑で強引な結び方を、唯一動く指先の感触で確かめてから顔を顰めた。

(下手くそ…)

最悪な目覚め方に、思う事も乱暴になってしまう。
時間が少し経つと、それに比例して覚醒し始める意識。

忍はゆっくりと前へ折れた首を持ち上げた。

ヒビの入った眼鏡のレンズ越しから、奥の方で男達が騒いでいる姿を確認した。
何やら円形のテーブルに椅子が扇状に並べられ、そこに男達が座っている。

手に持っているのは複数のトランプカードか…。

時々喜んだり、苛立ったり、和気藹々に騒ぐ声が聞こえてくる。

そして男達のまた更に奥―――それは忍達が入って来た工場の入り口があった。
今は錆びたと言え、立派な鋼鉄は鍵が無ければ開けられそうにないように見える。
男達を横を遮らなければ、到底この工場から逃げる事は出来ない。

ふと、忍の体を覆うほどの影が迫った。

力無く見上げれば、二人の後輩がすぐそばで立っていた。

生きているのかさえ分からないほど血相を変え、ぶるぶると体を震わせている。

複雑そうに眉を寄せて、怒っているのか泣いているのか―――追いつめられた表情をしていた。
彼らの顔には、青い打撲があったり、口角が切れたりしていた。
逃がすまいとする執着が、その目から伝わってくる。
これではまるで―――

(ああ…そーかぁ…ウチは監視されとるんか…)

記憶が正しければ、自分は捕虜の立場にある。

未だその目的も分からないまま―――しかし、これまでの事を追想していくと、大体は予想がついた。

―――己は『餌』として捕えられたのだ…

それを自覚した途端、急激に意識は回復した。
その分、マヒしていた五感も敏感になり、体中が寒いと訴えてくる。
いつの間にか紺のコートは脱がされていて、珠子中学の制服になっていた。
恐らく自分をこの場所に束縛する時に、分厚いコートが邪魔になったので、脱がされたのだろう。
体を動かそうとして、首の後ろに走った痛みに、うめき声を押し殺す。

その時、隣にいた気配がはっと息を飲んだ。

「しの…ぶ…くん…」

蚊が泣くような、か細い声が聞こえた。
それは今にも消えてしまいそうで、忍はその声の痕跡をたどたどしく追い掛けて、首をゆっくりと横に向ける。

「空、さん…」

まさに目と鼻の先に―――彼女はいた。
体さえ、もう密着するほどの近さだ。

忍と同じ珠子中学の制服―――ただし、そのセーラー服は白が灰色になるほど汚れ、しわになっている。
短いスカートも、同じような状態で、ひだはほとんど崩れていた。
何よりも鼻につく独特な臭いは、彼女が監禁されていた日数と、性的行為を強制させられていた事を、的確に忍に教えた。

乾いて切れた唇が戦慄に慄き、寒いのか―――全身を震わせていた。

艶やかだった髪は光沢を失い、白かった肌も泥に汚れている。
靴もはかず、白いルーズソックスも無い。完全な裸足だった。
化粧は取れて、アイラインなどのインクさえ顔の汚れに見える。
くすんだ黒い目に光は無く、目尻は赤くはれ上がり、彼女がどれほど涙を流したのかを物語っていた。
一体どのくらい食事を取っていなかったのだろうか―――予想以上に頬がやつれて、凹んだように影が浮き立っていた。
今や、あの学校内での、『pandora』での、魅惑溢れた彼女の面影はない。
家を無くし、希望を無くした放浪者のような衰えようだった。
忍のすぐ隣で、忍と同じように地面に座り込んでいる。
柱で固定はされていなかったが、後ろに両腕を回し、縄で縛られて自由を奪われていた。

―――しかし、例えそんな事をしなくても、彼女にはもう逃げる気力も無いに違いない。
そしてその隣には―――

最初はそれが後輩だとは―――『健太』と呼ばれた少年だとは気付かなかった。
それぐらい顔に青あざや赤い腫れを作り、もはや顔の作りを変えてしまうまでに変形していたのだ。
気絶しているのか、空の肩に寄りかかって金色の頭が下へ向いていた。
もちろんその両手は後ろで拘束されている。

一体自分が意識を飛ばしている間に何があったのか―――それは、彼の顔を見れば、言われずとも分かる。

「ごめん…なさい…」

空は瞬きも忘れて、忍から目も離せないまま―――彼女の枯れた喉から、そんな謝罪の言葉が漏れた。
皺がはっきりと見えるほど乾いた唇を震わせて、それでも、しっかりと彼女はまた謝罪をする。

「ごめんなさい…ごめんなさい…」

くしゃりと顔を歪めて、鼻を啜って。
青白い顔を更に青くさせて、空は頭を下げる。
涙が、既に所々濡れている地面に落ちて、消えていく。

こうなった経緯の本当の原因さえ、空はもう理解していない。
もしもそれを理解していれば、忍は罵倒されるはずだ。

お前のせいでこんな目にあったのだと、目を血走らせ、指を差され、罵詈雑言を吐き捨てられる。

それが正当の反応であるはずなのに。
それなのに、彼女は謝るのだ。

忍はそれが理解できず、しばらく言葉が出なかった。


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