カミヨミ | ナノ  耳に届いた引き戸を開ける音に顔をあげて針仕事をしていた手を止めた。呼び鈴を鳴らさず、この屋敷に無断で足を踏み入れる者は限られている。私が良く知るその人。
 警視総監となり、日々奮闘されている多忙を極めた八俣家の当主様が珍しく、日付が変わる前に帰ってきたようだ。

 きりのいい所で止めて、玄関先に向かった。他の使用人は既に帰宅していて、残っているのは私一人。広い屋敷でがらんとした中に居るのはとても寂しいものだと知っているから、せめてお出迎えだけでもという私の思い込み。八雲様はどう思っているかはわからないけれど、邪険にされたことは今の所、ない。

 ないのだが。

「おかえりなさい、八雲様。今日はお早いお帰りなのですね」
「何よアンタ、まだ起きてたの?」
出迎えた私にしかめっ面をした八雲様からいつものように外套と帽子を受け取り、後ろをついて歩く。後で刷毛で埃を落とさなくては。
「繕い物を終えたら休もうと思っていたところです」
「あっそ。アンタ若いんだからちゃんと寝なさいね? 睡眠不足はお肌の大敵よ?」
そっけないながらもただの使用人である私に労わりの言葉を掛けてくれる八雲様はとてもお優しい方だ。でも、私の仕事だから仕方がない。
「はい、気をつけます。湯浴みはいかがされますか?」
「そうね、汗かいちゃったし準備して頂戴」
「かしこまりました。お食事はいかがされます? 水菓子でしたらすぐご用意できますが」
「あら、いいじゃない。何があるの?」
「梨を頂きました」
「いいわね。お風呂上りにいただくわ」
「かしこまりました」


 薪をくべて火をかき回す。湯気抜きの窓からは機嫌の良い八雲様の声。お仕事で忙しいのだから存分に疲れを癒して欲しいものだ。気になって湯加減を問うとちょうどいいわよ、と太鼓判をもらえた。あの方に褒められるのはとても嬉しい。

 木炭を避けて火を抑えていく。あとは余熱でも心地いいはずだ。そろそろ空気も乾燥し始めているから、火の扱いには充分に気をつけなければならない。一通り、火が治まったのを確認してから厨に向かい、手を洗って、冷やしていた梨を剥いて塩水に浸す。剥き終わった屑を屑桶に入れて包丁とまな板を洗い、干しておく。陶器の器を用意して、塩水に浸した梨の水気を切って盛り付けた。うん、綺麗に出来た。とりやすいように楊枝を刺して振り返るといつの間にか八雲様が立っていた。
「や、八雲様?!」
「何よ、そんなに驚くことないでしょお」
「い、いえ、お部屋でお待ちになっているものかと」
「折角だからここでいただくわ」
手を伸ばして楊枝を摘んで咀嚼する。しゃくしゃくといい音を奏でているから貰った梨はどうやらとても瑞々しいものだったようだ。
「んー美味しい。いいもの貰ったじゃない」
「お口にあったようで何よりです。お茶用意しますね」
器を八雲様に手渡し、沸かしていた湯を急須に入れる。
「あら、ほうじ茶?」
「はい、今夜は少し肌寒いようですし、お風邪を召されては大変ですから」
「ほーんとアンタって気が利くわねぇ」
「恐れ入ります」
「そんなアンタにご褒美あげちゃう」
名を呼ばれ、八雲様が手招きをした。前掛けで手を拭いて近づくとずい、と梨を差し出される。
「はい、あーん。美味しいわよ?」
一瞬の迷いからおすおずと口を開けると梨を突っ込まれた。歯ざわりのいい梨がとても染み渡る。美味しい。折角のご好意なのだから、これは遠慮なくいただく他ない。以前、辞退しようとしたらお叱りをいただいてしまった事が経験となっている。
「なんだか、雛に餌を与えている気分ねぇ」
「まぁ、八雲様に比べたら私は小さいですからね」
「そうね、こんなに小柄なのに倒れちゃったら大変だわ」
だからもうさっさと寝なさい、と頭を撫でられる。

「……八雲様、私一応あなたの使用人なんですけど」
「カタイこと言わないの。嫁入り前なんだから少しは自重なさい」
窘められて、子ども扱いには納得はいかないが、一応返事はする。だけど、一つ訂正がある。
「八雲様、私はお嫁には行くつもりはありませんよ」
「あら、どうして? アンタもういい歳じゃない」
「私のような女を喜んでもらうような物好きな相手が居ないという事です」

 そう、これは本当。私は八雲様に拾われて、この屋敷の女中として働き始めた。返しきれないご恩がこのお方にあるのだから、それを返しきるまではお側にお仕えすると決めたのだ。だから、他の男の嫁になる事は今後ない。既に人並みの幸せについては諦めているのだから。


「いひゃいれふ」
「お黙り」
ぎゅ、と頬を抓られてしまい、八雲様を見上げる。凛々しいお顔は出迎えたときと同じしかめっ面だ。顔をゆがめても絵になるのだから、本当に八雲様は素敵な人だなと場違いに思った。
「確かにアンタを嫁に貰うようならそれなりの物好きでしょうよ。でもね」

頬を離され、そっと包むように触れられる。

「俺がその物好きなのだから、自ら貶めるようなことは言うんじゃない」
アンタの事は気に入っているのよ、とすぐいつもの口調に戻る。

「じゃあおやすみ。明日の朝ごはん楽しみにしてるわ」

何事もなかったかのように、踵を返す八雲様の後姿を、真っ赤になった顔でただただ、見つめるしか出来なかった。


++++
八俣さんちの女中さん
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -