遊廓風パラレルシリーズ。

印と普。






















其処に通りがかったのはほんの気まぐれ、月影も清かな或る夜の話。
おっかあが死んじまう、子供の声に叩き起され急患のもとへと駆けつけた、その帰りのことである。用も済ませて帰り道、気晴らしの散歩でもと常なら通らぬ角を往く。彼の肌色かおかたちは昼日中に通りを歩くのにはよろしくないが、こんな夜更けなら人目も無かろう。誰を気にすることなく往来を歩くというのも、思えば久方ぶりだった。
母なる地を離れて遠く異国の土を踏む。投げかけられる奇異の眼差しばかりはどうにもなりはしないけれど、この土地にもだいぶん慣れた。商人として屋敷やら商館やらを構える御歴々とは比べるべくもないが、それでも己は恵まれた方だと彼は思っている。取り敢えず喰うに困るでない、技術もある、そしてまあ紙一重のところとはいえ一応の身の保障も無いではない。
其処まで思考をめぐらして、『かれら』ともそうは変わらないのかと気付く。足の向くままに歩を進めるうち、いつの間にやら見慣れた壁がそびえていた。この向こうの世界を、彼はあまり好きにはなれない。仕事とあらば彼とて嫌も応も無く門をくぐるわけだが、じきに肌を蛭でも這うようなぬるりとした気味悪さに襲われるのだ。黒い堀と高い壁にぐるり囲われた、その中には絶望と享楽とが渦を巻く。それは気付かぬうちに、確実に、身を心をゆるりゆるりと蝕んで喰らい尽くしていく。『花』街等と耳触りのよい言葉で飾れども、あの場所はいけない。
彼はまだ良い、門の外へと出ることができる。限られた、とはいえ自由のあることは、やはり『かれら』よりも恵まれているのだろうと、思う。
乾いた音を立てて柳の枝がゆれた。仰いだ月を滑る雲がはやい、呆っとしているうちに風が出てきたようだ。
月影さえも呑み込むような真暗な堀、その水面にちゃぷりと波が立つ。
其処から、ぬ、っと青白い何かが覗いた。
それは帰路につこうと踵を返しかけた彼の足を止めるに十分だった。さざ波が動かした水の中から、それは少しずつ姿を見せる。月の明かりに照らされたものは、ひとの形をしていた。
「死体…!?」
医術で生計を立てるが故に、彼は人の死ぬのも数限りなく目にしてきた。なのに仰向けにぽかりと浮かび上がってきたそれはまるで蝋で拵えた人形の様で、じっと眺めるようなものではないのをわかっていても、目を離すことができなかった。
胸のふくらみも、女のあの独特なやわらかな曲線もない骨張った身体。汚泥に染まってはっきりとは見えないが、身につけた粗末な着物の様子から、おそらくどこかの妓だろう。覚えのない顔に、河岸見世辺りの陰間かしらと見当をつける。
(可哀相に)
花街の妓が塀の外に出るのは年季が明けるか死んだ時。後者であるなら本来は投げ込み寺へ行く筈だのに、運び人が気味悪がったのだろうか、この妓にはそれすらかなわなかったらしい。
無理もなかろう。彼と同じく、これは鬼子だ。……それもおそらくは『白子』の。
白い膚は遠い西洋の血をひくものには珍しくは無い。黒い泥に斑に染められながらも月明かりにきらめく短い髪は銀の色。見世物にするつもりで人の手であとから作られたものもいるけれど、ああいう類に見られるような不自然で滑稽な醜悪さは感じられない。水面からのぞく腕やら胸には骨の筋が浮いていて、なるほどこれなら泥へ溶けるに時間もかかるまいと思わせる。
浅いように見える堀の底にはたっぷりと泥が澱んでいる。犬猫が死んだときにここへ投げ込まれることもある位だから、深くに沈めてしまえばわからないと考えたのだろうか。
と、その胸がぐぐと動いて、血の気のない唇の隙間からこぷり、汚水があふれた。
彼はそれを見逃さなかった。まだ、いのちの灯は消えてはいない。
思うが早いか、身体が動いた。ためらうことなく澱んだ水に足を浸ける。泥やら藻の様な何かがずるずると絡んで進み辛いのを必死にかきわけて、再び沈みゆく妓を捕まえた。
「おい、しっかりせんね。まだ死んだらいけん」
声をかけてもぐったりとしたままでいらえは無い。あまり大きな声で騒げば見張りがやってくるだろう、見つかればこの妓はきっと塀の中へと連れ戻される。兎に角ここから引き揚げて、しかるべき処置をしなければ。
細いとはいえ意識のない、それも成人の男を抱えて泥の中を歩くのは、なかなかに骨が折れる作業だった。彼もけして力のない方ではなかったが、重たい泥はまるで呑んだものは一つたりとて返しはせぬと言うように、二人の身体にねとりとまつわりついて岸へと上がる妨げとなった。
水だけでも此処で吐かせて、あとの諸々の始末は連れ帰ってからにする。時たま世話になっている屋敷の離れにおいてもらうことも考えないではなかったが、普通の女ならまだしもこれを上げるはまずかろう。幸い彼個人の棲み家は川のほとりだ。
担いだ背中に触れる胸が弱いながらも確かに動いているのを感じながら彼は目指す家へと急いだ。



川のほとりのみすぼらしい掘立小屋。彼にとってはこの地での住まいであり、その暮らしを賄うための診療所でもある。この国においては彼の医術は魔術や外法の類とみなされかねない。故にお上に開業のお伺いなんぞは立ててはいない。正規の医者にかかれない訳有りの輩や、薬代も払えない貧乏人などを主に診ている彼だが、中には得体のしれない施術に不安がる患者もいる。正確に話したところでますます混乱していくばかりでいい加減に面倒になってきたので、海を渡ってすぐの隣の国から伝来している草木を用いた施術の流れをくんだもの、と近頃は説明している。ああいう手合いは取り敢えず納得できればそれで満足するのだ。細かいところなどどうせ聞いたところで理解できまい。
その診療所の奥に敷かれた煎餅布団で、白子の男は昏々と眠り続けている。体温が戻りつつあるようで、泥を拭ったばかりのころの、青白い、蝋のような肌を思えば頬のあたりに微かな赤みの差してきたようにも見える。其れでも日に何度かは口元に掌を翳した。ただ眠る、其れだけで死線を越えられるような力を持つと信じられるだけの生気を感じることができなかったから。
今日も呼気の動くのにほっとして、男の顔の上から手を退けた。それに合わせるかのように、銀の睫毛がふるりと動く。持ち上がりかける瞼の隙間からかすか覗いた瞳はやはり紅玉。心構えのあったといえど、冷たい火の色から目を逸らすことができない。
「…ぃ…きて、る…」
「気の付きよったとね」
未だ夢うつつのあわいに居るのか、緋色の視線は天井辺りをゆらり彷徨う。
「此処は…」
「私ん家たい。場所ち言うてもあんた、囲いの外ば知っとーと?」
外、その言葉を聞いた途端、男は目を見開いて跳ね起きた。否、跳ね起きようとした。
「っ、ほぉれ無茶しなさんな」
背中を支えてゆっくりと体を起こしてやる。意識が戻ったとはいえ、それだけだ。逸る気持ちがあったとしても落ち切っている体力はそれについては来ない。未だ浅い呼吸、色の悪い爪、ふらつく視線。触れた身体は震えていた。
「悪か薬ば使いよるけん、こげん酷か目ば見るとよ」
「誰がすき好んであんなもん…俺じゃねぇ。それよりも此処、は…壁の外なのか」
うなづいてみせると、男は安堵するように大きく息を吐いた。強張っていたものがほんの少しだけ緩んだように感じた。
「あんた、名前は」
「それは、どっちの?」
白子の男はぬるりと笑んだ。囲いの中で己を売る者たちは、本当の名前と異なる『商品としての名』を名乗る。花の名、土地の名、空の名、色の名。種々様々、雅やかなその名前で己をも騙す様に。
「……あんた、もういっぺんは死んどるけん。嘘でもなんでも、生きたい名前で好きに生きたらよか」
「好きに、ねェ…ふ、はは」
カタカタカタ、火にかけたままだった釜の蓋の踊る音がする。火の加減をしようと腰を上げかけた彼の着物の袖を白い指が引いた。
「ギル。ギルベルト、だ」
俯いたままぽつり呟いた。馴染まぬ響きを反芻して、彼は俯いたままの白子の男、ギルベルトの頭をくしゃりと撫でた。銀色の短い毛は、存外柔らかい。
「ギルベルト君。私んことは『印度』ち呼んでくれんね。皆そう呼ぶけん」
「『印度』?まるで囲いの中の妓みてーだな」
「ほんとの名前は此処らじゃ音の馴染まんけんね、郷ん方が通りばよかよ。『印さん』ち呼ばるるが多かね」
彼、印度の真名が此の国では音として長いというのも理由の一つではある。他にもいくつか理由はあるのだが、ギルベルトが知る必要はないし、知らない方が良いこともある。
ヤミの医者とはいえ、貧しい者にも薬を出している彼の稼ぎ等たかが知れている。手に入りにくい高価な薬を、お上に睨まれずに手に入れられるのはどうしてか、とか。
釜の蓋が鳴るのに混じってくるる、と小さな音がした。かまどの方から煮えた米の甘いような良い香りが漂ってくるのに先程よりも少しばかり大きな音がギルベルトの腹から響いた。
「粥の炊けよるけん、ギルベルト君も食うちょきない。動けるようになるまでは、とりあえずうちで養生せんね」
腹が減るのは元気になっている証拠、とにっこり笑って印度は膳の用意にかかる。食い意地を恥じたのか、ギルベルトの耳がほんのり赤く染まっていた。
かくして印度とギルベルトの奇妙な共同生活は始まることとなったのである。



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