その女は、まるで扉が開くタイミングを事前に知っていたかのように冥冥を出迎えた。
「お待ちしておりました」クリスタル製のシャンデリアの下、深々と頭を下げた着物姿の女を、冥冥は編み込まれた前髪の隙間から黙ったまま見下ろす。
銀座歓楽街の一等地に建つ老舗会員制クラブ“パール”。そのママを務めているにしては若いなと感心するほど、目の前の女は若く、同時に美しかった。

「こちらへどうぞ」

店の奥へと足を進める女について行けば、“VIP”の札が掛かった一室に通される。こんな高級クラブに出入りできる客など、それこそ皆社長だの官僚だのと地位も金も持て余している者ばかりだと思うのだが、どの業界にも上には上がいるという事らしい。
血のように赤いベルベッド地のソファーに腰を下ろせば、若い黒服がすかさずメニューブックを差し出す。「どれでもお好きなものをお選びください」と微笑む女の好意に甘え、冥冥はオーパスワンを頼む事にした。
仕事の打ち合わせで飲むには丁度いい、柔らかな風味のカリフォルニア産ワインだ。一般に流通しているもので一本五万、このような場所で飲めば値段は約三倍にまで膨れ上がる。

「君も一緒にどうだい?確かなまえさん、だったかな」

そう冥冥が声を掛ければ、女はにっこりと口角を上げ、その大きな瞳を細める。

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」

その蕩けるような表情に、この幼いママの為にわざわざ店を訪れる客も多いのだろうな、と冥冥は思う。
黒服がワインの栓を開けている間に、なまえはしずしずと呪術師に名刺を差し出した。

「自己紹介が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。改めまして――なまえと申します。パールでママをさせていただいております」
「随分と若いね。メールに老舗クラブのママだと書いてあったから、もっと年増に出迎えられるものだとばかり思っていたけれど」
「他のお客様からもよく言われます。でも、この業界は若さも武器ですから」

それはそうだと相槌を打ちながら、冥冥はなまえの細い指先から光沢のある白い紙を受け取る。
夜の街に生きる女にとって、若さと美しさは何より大きな武器となるのだろう。そしてその武器は、時として昼の世界では想像もできないような大きな金を動かす。
冥冥の大好きな“金”を。





パールの従業員が次々と体調不良を訴えだしたのは、半年ほど前の事らしい。一番最初に症状を訴えたのは、ママであるなまえの次に若い、まだ新人のホステスだったという。

「接客と接客の合間に「なんだか胸が苦しい」と言うようになりまして。「まだ病気なんかする年じゃないでしょ」って最初はみんなで笑っていたのですが、ある日突然ばたりと倒れてしまったんです。急いで救急車を呼びましたが、結局そのまま亡くなってしまいました……」
「接客中に倒れたのかい?」
「はい。ご贔屓のお客様にお酒を作っている最中での事でした。死因は不明、駆けつけたご家族も「身体だけは丈夫な子だったのに」と泣きながら仰っていました。
――次に体調不良を訴えたのは、パールでもベテランの部類に入る女の子でした。「足が痛い」と言って左脚を引き摺って歩くようになりまして……。「酔っぱらって何処かにぶつけたんじゃないの?」と聞いたのですが「そんな記憶はない」と」
「ふぅん」
「その後いよいよ歩けなくなってしまって、その子はお店を辞める事になりました。その二人を皮切りに、女の子達が次々と体調を崩し始めて……。シフトも組めず、ついにはお店自体を臨時休業することに……」
「事前メールには“従業員”と書いてあったけれど、実際に体調を崩したのはホステスだけというわけか」
「はい。黒服は一人も体調を崩していません。……でも、やっぱり男の子達も怖いみたいで。「この店は呪われてる」と言って、何人も辞めてしまいました」
「今聞いた症状は胸と太腿の痛みだけど、他の従業員は?」
「肩や腰、あとお尻が痛むという子もいました。みんなバラバラなんです」
「……なるほどね」

そう一言零すと、冥冥は音もなくソファーから立ち上がった。ぐるり、動物園の豹のようにおもむろに室内を歩き回ったかと思うと、右足でコツコツと床のタイルを叩く。
「あの......?」と首を傾げるなまえに応えるように、冥冥は長い前髪を持ち上げて言った。

「――店に入る前から呪いの気配には気付いていたよ。この店には確かに呪霊がいる。そして、このVIPルームに入って確信した」
「? 何をでしょうか?」
「この店、地下に隠し部屋があるだろう」

冥冥の言葉に、隅に控えていた黒服の顔にサッと緊張が走る。思わずというふうに口を開いた男を、なまえが「いいのよ」と静かに制止した。淑やかに両手を揃え、落ち着いた様子で口を開く。

「さすが冥冥さまですね。仰る通り、この店には地下室がございます。老舗クラブと言う場所柄、そこいらの飲食店より高級なお酒を取り扱う事も多いので……」
「ワインやウイスキーの貯蔵庫、兼金庫という所かな」
「はい。でもどうして地下室があると……?」
「音の響き、それから部屋の温度かな」
「……」
「一般的に、ワインセラーなどの酒の貯蔵庫は気温を十度前後に設定されることが多い。人間には肌寒いくらいの気温だ。そしてこのVIPルームは先程通ってきたフロアと比べかなり暖かい。最初は私のためかと思ったけれど、空調を強めてあるのは地下から上がってくる冷気を誤魔化すためだ。半年前、地下の貯蔵庫に何か入れたね?」
「……はい。とても希少なお酒を一つ。丁度半年前、地下に運び入れました」
「十中八九、その酒が今回の体調不良の原因だろうね」
「……」
「君だって本当は分かっていたんじゃないかな」

冥冥の問いかけに、なまえは今度こそその甘やかな表情を崩した。図星を突かれたというように眉根を寄せ、小さく唇を噛み締める。

「……そのお酒は、私のお得意様がとても苦労して手に入れてくださったもので……。何もかも特別なお酒なので、それに呪いが掛けられているなんて信じたくありませんでした」
「気持ちは分からんでもないけどね」

冥冥はさして興味無さげにそう言うと、赤い液体を湛えたワイングラスを掴む。こくり、一口だけ飲み込むと、瑞々しい黒果実の味わいと共に、オレンジピールのダークな香りが鼻を抜けていった。

「それでも、店と従業員を助けたいなら手放すしかないんじゃないかな。愛憎渦巻く男女の社交場なんて、呪いにとっては絶好の繁殖場所だ」
「愛憎渦巻くだなんて、うちはそんなお店じゃ……」
「ない、と果たして言いきれるかな?」

冷たく言い放った呪術師に、なまえはひくりと喉を鳴らす。

「胸、太腿、肩、腰、臀部。……一見バラバラに思えるけれど、どこも欲にまみれた糞オヤジ共が触りたがりそうな場所だ」
「……!」
「若くて美しい女と話したい、触れたい、……――あわよくば抱きたい。そんなジジイ共の腐った情念が、積もり積もってその酒を呪いに変えたんだよ。そして君は、その事をわかっていながら放置した。客のセクハラを見て見ぬふりをしてね」
「……お客様のお触りを上手く躱すのも、一流ホステスの勤めかと」
「だろうね。でも、誰だって好きでもないジジイにベタベタ触られればストレスは溜まるはずだ。たとえそれが仕事……金になるとしてもね。君だってよぉく知っているだろう?」

その言葉に、なまえはより強く唇を噛み締める。
若くしてこの城の主となるために、目の前の女がどれほどの犠牲を払ったか。冥冥には全く想像がつかないし興味も無い。
それでも、長年の経験と女の勘から、そこには莫大な金が動き、また彼女自身も相当な代償を支払ったという事だけが分かる。冥冥が呪いを祓って金を稼ぐのと同じように、なまえは自身の“女”を使って金を稼いできた。それだけの事だ。

先程の言葉が決定打だったらしい。なまえが観念したとばかりに壁に飾られた絵に触れれば、唸るようなモーター音と共に入り口とは反対側の壁に小さな階段が出現する。ひんやりとした冷気と共に、粘つくような重い空気がVIPルームへと上がってきた。

「……従業員の体調より高いお酒を優先するなんて、ママ失格ですね」

ぽつり。零したなまえに、冥冥どこからともなく取り出した大鎌を手にくすりと笑う。

「どうだろうね?私にとっては、金に換えられる物の方がずっとずっと大事だけれど」

呪術師の言葉に、涙目だったなまえに再び笑みが戻った。

「お噂通り、冥冥さまは本当にお金がお好きなのですね。……お手数をお掛けしますが、どうかよろしくお願いいたします」
「勿論。手付け金も貰っているし、それなりの仕事はさせてもらうよ。成功報酬に関しては、またご相談させて頂くけどね」

冥冥の言葉に、なまえは「承知しました」と小さく頷く。その日初めて、客商売ではない女の笑顔を見た気がした。



臆する事なく階段を降りていった冥冥が地下で目にしたものは、所狭しと並べられたボトルとアタッシュケースの数々だった。
ドン・ペリニヨン、シャトーマルゴー、ヘネシーにロマネコンティ。この一室だけで酒の展覧会が開けそうな錚々たるラインナップだ。そしてそれらの置かれた棚に絡みつくように、呪霊のものと思われるグロテスクな血管が張り巡らされている。
長く滞在すればそれだけで呪いに当てられそうだ。さっさと終わらせてしまおうと、冥冥はさらに奥へと足を進めた。

目的のものはすぐに見つかった。というのも、呪術師の気配を察してか、呪霊の方から動きを見せたからである。
部屋中に張り巡らされた血管がどくどくと脈打ち、一点に集中していく。ぱかり、閉まっていたケースが独りでに開き、その内に秘めていた物を晒した。

レミーマルタン ルイ十三世 ブラックパール マグナム

世界中の王室や貴族から寵愛を受けた最高級コニャックを、クリスタル製造の最高峰であるバカラ社のボトルに詰めた至高のブランデー。
358本作られたうち、日本に入荷したのは30本。販売価格は四百万、あるホストクラブでは三千万円の値が付いたという。

「そのボトルを離してくれないか。それは君みたいなものが気安く触れていい物じゃないんでね」

みちみちと嫌な音を立てながら、肉色の低級呪霊はクリスタルのボトルを抱き込むように蠢く。「まぁ、言葉の通じる相手じゃないか」と、冥冥はおもむろに右手を振り上げた。

途端、何もなかった空間から真っ黒な烏が出現する。……こんな狭い空間で愛鎌を振り回したら、他のボトルにまで被害が及んでしまう。守銭奴である冥冥にとって、弁償などという自身の意にそぐわない金は一円だって払いたくなかった。

バードストライク

冥冥が再び右手を動かした瞬間、呪霊には三つの風穴が開いていた。





地下に降りて五分と経たないうちに戻ってきた冥冥を見て、なまえと黒服は思わず顔を見合わせた。「もう終わったのですか?」と訝しむ黒服に、冥冥は「あぁ。終わった」と短く答える。

「酒に取り憑いていた呪いは祓った。足が痛いと言っていた従業員でもに電話して聞いてみるといい。きっと痛みも消えているはずだ」

呪術師の言葉に、黒服が慌ててポケットから携帯電話を取り出す。電話が繋がったのだろう、口元を隠しながら二、三言話すと、驚いたように雇い主へと視線を投げた。「確かに、痛みが消えたそうです」黒服の言葉に、今度はなまえも目を見開く。

「すごい……!こんなに一瞬で解決してしまうなんて……!」

ありがとうございます!と感極まったように頭を下げるなまえに、冥冥はにべもなく「それで、今回の報酬のだけど」と切り出す。

「振込みはやめて、現物支給でもいいかな?」
「? それは構いませんが、地下に冥冥さまのお眼鏡にかなうものがあったでしょうか?」
「これだよ」

そう言って冥冥が持ち上げたのは、人間の頭ほどある黒い箱だった。
LOUIS XV”
先程呪霊を祓ったばかりの、ルイ十三世 ブラックパール マグナムである。

「そ、それは……」

店を救ってくれた事に感謝の気持ちはあるとはいえ、さすがになまえは口篭った。何せ一本四百万の酒だ。手放すにしても、それ相応のやり方をと思っていた矢先だった。
しかし、そんな女を憐れむように、冥冥はなまえの耳に口を寄せる。

「この酒を君に送ったというお得意さん、気をつけたほうがいい。地下でずうっと呪詛を吐いていたよ。――「ママ」「早くおっぱいちょうだい」「僕のオシメ替えて」……ってね」
「ッ……!」
「そんな奴からの贈り物、私なら一刻も早く手放してしまいたいけどな」
「……分かりました」
「賢明な判断だ。では、私はこれで失礼するよ」

青褪めたままのなまえと黒服を置いて、冥冥は早々にVIPルームを後にした。客も従業員もいない空っぽのフロアを抜け、あちこちにいる酔っ払いを避けながらどぎついネオン街を歩いていく。

「今度からはこういうやり方もいいな」

高級感のある化粧箱を撫でながら、冥冥はうっそりと呟く。
報酬を銀行振込にすると、いざ出し入れする時に手数料が取られる。また、現金を稼げば稼ぐほど、やれ所得税だのなんだのと税金を持っていかれるのが、冥冥はずっと気に食わなかった。
その点、このようにはじめから物になっていれば安心だ。手数料も税金も取られる事は無く、その気になればパッと金に換えることが出来る。

「さぁ、帰ろう。今夜はコレを眺めながら一杯飲もうかな」

冥冥の言葉に、電柱の下でゴミを漁っていた烏が返事をするように鳴く。ばさり、羽を広げて飛び立った次の瞬間には、呪術師の姿は跡形もなく消えていた。

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