都内の裏路地にひっそりと看板を掲げるその喫茶店は、今どき珍しい全席喫煙可という愛煙家には喜ばしい店だった。飴色のドアを引けばカランコロンと古びたベルが来客を告げ、珈琲と煙の心地良い香りが身体を包む。最早指定席となった最奥のボックス席に腰を下ろせば、まだメニューも開いていないうちから沖矢の前にコーヒーのカップが置かれた。顔を上げれば、まるでサンタクロースのような髭を生やした店主がニコリともせず去っていく。

黙ったままカップを持ち上げれば、添えられていた銀色のスプーンがソーサーの上でかちゃん、と小さな音を立てる。湯気の立つ黒い液体を飲み込んで、沖矢はほぅ、と小さく息を吐き出した。アメリカで飲んでいたコーヒーは浅煎りが多く、徹夜続きにがぶ飲みするにはもってこいだが、コーヒー好きの自身としては物足りなく感じる事も多かった。やはりこの国のコーヒーは美味いな。心の中で一人呟きながら持参した新聞を開く。一面を飾るのは「WSG(World Sports Games)開催まであと三日!」という記事だ。


時折コーヒーを傾けながら灰色の誌面に目を落としていると、隣の席に誰かが腰を下ろす気配があった。ちらり、紙束の端から伺えば、そこには目の覚めるような若草色のワンピースに身を包んだ女性がスカートの皺を伸ばしている。煙草臭いこの店には似つかわしくない客だった。
年齢は沖矢より幾つか下だろうか。春の妖精のような彼女を更に煙臭くするのは忍びないと思いつつも、肺を汚したい欲には勝てず沖矢はジャケットから煙草を取り出した。机上の灰皿を引き寄せ、マッチに火を点ける。

「お待たせ致しました」

沖矢にはニコリともしなかった店主が、隣に座った女性には愛想良く硝子製のカップを差し出した。どうやら店に若い女性が訪れたのが嬉しいらしい。それなら店を禁煙にすればいいのにと思いつつ、沖矢はマッチの燃えカスを灰皿に捨てる。
「ありがとうございます」そう言って彼女が受け取ったのは、ムースフォームの乗ったラテだ。まるで空に浮かぶ雲を捕まえてきたかのような真っ白なミルクの上にはオレンジ色をしたキャラメルソースで格子が描かれ、ふんわりとした甘い香りがこちらまで漂ってくる。若い女性の好きそうな飲み物だな、と沖矢は再び新聞に目を落とした。


「−あっ」

沖矢があらかた新聞に目を通した頃、静寂を破ったのは隣に座る春の妖精だった。ばさりという音を立てて自身の足元に落ちてきたそれを、沖矢は何本目かの煙草を口に咥えたままそっと拾い上げた。そしておや、と目を見開く。拾い上げたそれが自身も愛してやまないシャーロック・ホームズ・シリーズだったからだ。気付いた時には「お好きなんですか?」と口に出していた。

まさか声を掛けられるとは思っていなかったのだろう。礼を言おうと開いていた唇が「えっ」と驚いたように窄まった。「ホームズ」沖矢の言葉に、やっとその話題が自身の落とした文庫本であることを理解したらしい。女性は本を受け取りながら照れたように髪を耳に掛けた。

「はい。と言っても、最近読み始めたばかりなんですけど」

「あなたもですか?」という彼女の言葉に、沖矢も「ええ」と頷く。火事により愛読書は全て灰となってしまったが、その物語は今もなお沖矢の心をワクワクと奮い立たせていた。

「この『四つの署名』はシリーズ二作目ですよね。という事は、一作目の『緋色の研究』も?」
「はい。難しいかなと最初は敬遠していたんですが、読み出したらハマってしまって。同時進行で短編集も読んでいる所なんです」
「ほほう、どの作品が良かったかお聞きしても?」

沖矢の質問に、女性はぱっと顔を輝かせる。元々読書好きなのだろう。本の感想を言い合える相手が見つかって嬉しかったのかもしれない。

そこからは二人とも止まらなかった。ホームズとワトスンのアイロニックなやり取りや細かに作り込まれた密室トリック、さらには作者の裏話までたっぷり一時間ほど語り合ったあと、二人は乾いた喉を潤すようにそれぞれのカップを手に取った。

「失礼。まだ名乗ってもいませんでしたね。沖矢昴と言います」
「みょうじなまえです」
「普段は帝都大の大学院に通っています」
「そうなんですか!私、すぐお隣の米花大です!」
「そうでしたか。では何処かですれ違っているかもしれませんね」

遅い自己紹介を交わしながらカップに口をつける。沖矢のコーヒーは随分と冷めてしまっていたが、彼女の頼んだムースフォームラテはまだほんのりと湯気を立てていた。ツノが経つほどきめ細やかなミルク層が保温機能を果たしていたのだろう。沖矢はなるほど、と心の中で感心する。最初は馬鹿にしていたが、静かな喫茶店で長時間の読書を楽しむにはいい選択だ。


「...あの」

二人で店を出る直前、先に代金を支払ったなまえが沖矢の方を向く。その頬が僅かに赤く染まっているのを沖矢は見逃さなかった。

「沖矢さんさえよろしければ、またここでお話出来ませんか?身近にホームズを読んでいる人があまり居なくて...」
「それは嬉しい申し出です。貴女のような人とのコーヒーブレイクならいつでも大歓迎ですよ」
「良かった!じゃあ来週の金曜日、今日と同じ時間でもいいですか?」

沖矢が頷けば、なまえは嬉しそうに「ではまた来週!」とドアを押す。古びたベルがカランコロンと鳴るのを聴きながら沖矢が財布を取り出すと、レジの向こう側からサンタクロースのような店主が渋い顔でこちらを見ている事に気付いた。

「......おい兄さん、他のお客さんに手を出すのは困るよ」

どうやら沖矢のことを女性客にちょっかいを掛ける軟派野郎だと思ったらしい。目ざとい事だ、と沖矢は薄く笑いながら指先で眼鏡を押し上げる。

「手を出すなんてとんでもない。彼女とは今日初めて会ったばかりですし、声を掛けたのも過去に同じ本を読んでいたからと言うだけです」
「......」

しかし、どんなに沖矢が釈明した所で店主のジト目は変わらなかった。仕方がないな、と沖矢は奥の手を使う。

「そうまで言われては仕方がありません。美味しいコーヒーが飲めなくなるのは残念ですが、今日で此処に来るのは辞める事にしましょう。せっかく本の感想を言い合える相手が出来たというのに、来週私が現れなかったら彼女は悲しむでしょうね。もしかしたら彼女ももう来なくなるかもしれないなぁ」
「そ、それは、」

沖矢の事は気に入らないが、貴重な若い女性客がいなくなるのは嫌らしい。ぐぬぬぬ...と眉間に皺を寄せていた店主も、暫くすると悔しそうに釣りとレシートを差し出した。

「...またのお越しを」
「えぇ、そうさせて貰いましょう」

元から細い目を更に細めながら、沖矢はゆっくりと飴色のドアを開く。プランターに植えられた色とりどりのチューリップが春の柔らかな風に小さく揺れた。
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