疑ふらくは是れ地上の霜かと


「−どうしたの?」

しんと静まり返った廊下に響いたのは、私が今一番聞きたくない人の声だった。
暗闇の中指先でなぞっただけでも見事な浮き彫りが施されているのが分かる木製の扉。そのドアノブから、私はゆっくりと手を離す。大きく一度深呼吸してから振り返れば、そこには真っ白な旗袍 (チイパオ)に身を包んだ一人の女が立っていた。

飾り窓から差し込む月明かりも相まって、普段から白い肌がいつも以上に白く見える。まるで真夜中にひっそりと地上に降り立った霜の妖精のようだ。微笑んだまま、彼女は口を開く。

「...眠れないの?」

幼子に問うような彼女の言葉を無視し、私は腰のホルスターから銃を抜き出した。ベレッタ・ナノ。イタリアの大手銃器メーカーが開発した、携帯電話ほどの大きさの小型ピストルだ。装弾数は全部で六発。たとえ小さくても、人を殺すには十分な威力を持つ。
しかし、その銃口を心臓に向けても、彼女は微笑んだままだった。それどころか、これから起こる事全てを受け入れるようにゆっくりとした動作で腕を開く。

「撃って」

彼女の言葉にぴくん、と銃を持つ手が震える。「撃って。それで貴女が助かるなら」と彼女は言葉を続けた。

それで私が助かるなら?≠ヌういう事だろう。彼女は全てを知っているのだろうか。知っていて、その身を私に差し出すのだろうか。

銃を持っているのはこちらのはずなのに、何故か私の方がこの状況に焦りを感じている。心臓は早鐘を打ち、背中を冷たい汗が滑り落ちた。
引き金を引けばあっという間に彼女を殺せるのに、何故私はそうしないのだろう。焦れば焦るほど、照準が一所に定まらない。ぎゅっと噛み締めた唇に、ぷつりと赤い血が浮いた。





ばしん!乾いた掌が頬を張り、バランスを崩した私は無様な格好で床に倒れ込んだ。叩かれた際に切れたのだろう。たらりと人中を伝う鉄臭い液体を服の袖で慌てて受け止める。
床に敷かれた真っ赤なペルシャ絨毯はこの部屋のために特別に誂えたものだ。私なんかの命とは引き換えにならないほどの高級品で、その一面を禍々しいまでの花柄が埋め尽くしている。汚したら冗談でなく首が飛ぶだろう。考えただけで背筋が寒くなる。

「立て」

遥か頭上から降ってくる言葉に、私はどうにか上体を起こす。ぶるぶると震える膝で何とか立ち上がれば、にわかに視界を白い煙が覆った。鼻が詰まっていても分かるほどの刺激臭は、私を殴った男の吸う煙管の産物だ。激しく咳込めば寝台に寝そべった女達がくすくすと笑う。
愛玩されるだけの彼女達からすれば、私はさぞ滑稽なことだろう。実の父に殴られ、血を流し、煙を吹きかけられる娘など。

「お前がこんなに出来の悪い奴だとは思わなかった」

くるくると火のついた煙管を指で弄びながら、父が至極残念そうに言う。私に何かを話す時、父は大抵残念そうだった。きっと私の存在自体が彼にとって残念だからだろう。彼が次に言う言葉も、私にはもう検討がついている。

「やはり娼婦の産んだ子なんぞ引き取るんじゃなかった。恥だ。一族の恥」

ほらやっぱり、と私は血塗れの顔を袖で拭う。そこそこ気に入っていた服だが、一度汚れてしまうともうどうでも良かった。「申し訳ありません」毎度繰り返す謝罪の言葉を、私は今日も口にする。この部屋で私が口に出来る数少ない言葉の一つだった。


八人いる兄弟のうち、私は一番最後に生まれた子供だった。中国黒社会を統べる男と、その商品であった母との間に出来た最初で最後の女児。それが私だった。
異母たちの執拗な嫌がらせに疲れた母は、私を産むとあっという間にこの世を去った。自殺だったという。

それぞれ母親の違う兄弟とともに育った私は、いつしか父の経営するアヘン窟の女主人となっていた。一口吸えば夢心地、二口吸えばどんな痛みも消える。一度でもその幸福を知ってしまえば、どんな客でも常連同然だった。

そんなある日、私の日常は突如として崩れ去った。父から任されていたその店を、新しい勢力に潰されたのである。

その日は、月の売り上げを父に報告する大切な日だった。売り上げが前の月より少なければ殴られ、多ければ無視される。その日はすでに殴られることが決まっており、私は重い足取りで古いセダンへと乗り込んだ。

「お父様の所へ」

私の沈んだ声音で悟ったのだろう、いつもはお喋りな運転手も、この日ばかりは静かだった。色とりどりのネオンを見つめながら、今日は何発殴られるのかな、と途方も無いことを考える。一応客商売だからか、父は肩や腹は殴っても顔を殴る事は滅多になかった。それがいい事なのかは、私にはよく分からないけれど。

「店が燃えている」と携帯電話に連絡が入ったのは、父の屋敷まであと数分という時だった。慌てて車をUターンさせた私と運転手が見たのは、星一つ無い空に火の粉を散らす父の大切な店だった。
肝心の店が無いのでは、客商売もなにも無い。顔を殴られるには充分すぎる理由が出来てしまった。

「消してこい」

捨てるように放られた紙片がひらひらと机の上を滑る。写真に写っていたのは、凛々しい眉をした若い男だった。最近台頭してきた組織の幹部。その髪色が店を焼いた炎と重なる。
神話に登場する炎の神・祝融(シュクユウ)が実在したら、きっとこの男に似ているのだろう。隣に写っている女性は愛人か何かだろうか。

「出来なければ、消えるのはお前だ」
「...はい、お父様」

父の言葉に深く頭を下げる。足元の花柄が今にも身体にまとわりついて来そうで、私は早々に父の屋敷を出た。


リアンユと呼ばれているその男に近付くのは、意外と簡単な事だった。若くして組織の幹部を任されている彼の周りには、私と同じ年頃の構成員が沢山いた。その中でもとびきり気が弱そうな男を見つけて声を掛けると、男はあっさり私の虜になった。

「君みたいな可愛い子から声を掛けてくれるなんて!やっぱり運命ってあるんだね...。ご両親は何が好き?式はいつ挙げる?絶対に俺が幸せにしてあげるからね!」

デレデレと鼻の下を伸ばす金髪男の手を取り、私は涙ながらに訴える。

「実は私...両親もいないしお金も無くて...。今住んでいる所も「家賃が払えないなら出ていけ」って大家さんに言われてるんです...」
「えぇ!?そうなの!?そ、それは困ったね...」
「どうしよう...このままじゃ路上生活になっちゃう...うっ...」

両手で顔を覆い、大袈裟な程に肩を震わせる。もしやバレるかと内心ハラハラしたが、男が演技に気付いた様子はなかった。

「俺の所に来たらいいよ!俺も世話になってる身だけど、凄く面倒見のいい人だからきっと君の事も許してくれる!例え駄目だって言われても、俺が絶対に説得するから!!」
「ありがとう、レイさん。私、貴方に出会えて本当に良かった...」

そんなやり取りをして、私はすんなりとリアンユの屋敷へと入り込む事が出来た。後は隙を見て奴を殺し、さっさと逃げるだけだ。任務が成功すれば、父も少しは私を見直してくれるだろう。
そう思っていたのに。





音もなく腕を下ろした彼女が、ゆっくりと私の手から拳銃を抜き取る。おもむろに窓を開けたかと思うと、ぽいと庭に投げ捨ててしまった。

「さぁ、もう寝る時間よ」

まるで絵本でも読み聞かせるように言う彼女に、私の両目からポロポロと涙が溢れる。透明な液体が零れ落ち、廊下に点々と光る染みを作った。

リアンユの屋敷での暮らしは、穴ぐら生活を続けていた私にとってこれ以上なく快適なものだった。朝昼晩とあたたかな料理を皆で囲み、屋敷はいつも美しい空気と笑い声で満ち溢れている。誰も私に指図しないし、殴ったりしない。顔に煙を吹きかけられることもなかった。

そっと抱き寄せられ、私は彼女の柔らかな胸に顔を埋める。母に抱き締めて貰ったことは無かったが、思わず抱きしめ返したくなるのをグッと我慢した。

「貴女の事はレイからよく聞いてる。とっても優しい素敵な女の子だって。...でも、あの人を殺させる訳にはいかないから、タィヤンに頼んで色々調べて貰ったの」

彼は鼻が効くからね、と彼女が言う。レイの親友であるタィヤンは並々ならぬ嗅覚の持ち主だと、そう言えば聞いたことがあった。

「貴女から先日踏み込んだアヘン窟と同じ匂いがするってタィヤンから聞いて、あぁ、あの組織が復讐に来たんだってすぐに分かった。...でも、もうどうでもいいの」
「どうでもいいって...?」

彼女の言葉に、私はしゃくりあげながら顔をあげる。美しい瞳が何処か切なげにこちらを見下ろしていた。

「此処でやり直せばいい。自分の罪を認めて、今日から此処で仲間として生きていくの」
「そんな事出来るわけない...!お父様が許すはずがないもん...!私、殺される...!」

子供のように泣きじゃくる私に、彼女は「大丈夫よ」と静かな声で言い聞かせる。

「貴女に手出しはさせない。皆で協力して、絶対に貴女を守ってみせる」
「でも...!」
「絶対に大丈夫。何故なら此処は...−煉獄だから」
「......レンゴク?」

聞きなれない言葉を繰り返せば、彼女はシー、と人差し指をその美しい唇に当てる。「さぁ、お部屋に戻りましょう」そう言って、私の背中を押して歩き出した。

「あんまり遅くなると、心配したレンが泣いちゃうわ」


月明かりが差し込む廊下を二人で歩いていくと、部屋の前でそわそわと爪を噛むレイを見つけた。私の事を心配していたのだろう。こちらを見るなりパッと瞳を輝かせる。

「心配したよぉおお!でも、二人が一緒に来たってことは話は纏まったって事ですよね?」

レイの言葉に、後ろに控えていた彼女が笑顔で頷く。それを見た瞬間、レイは力いっぱい私を抱き締めた。

「よかったぁぁああ!もう大丈夫だからね!たとえもといた組織の奴らが来てもボッコボコにして追い返してやるから!...もう独りで悲しい思いをしなくていいんだからね」
「うん...」

到底安心は出来なかったが、それでも私は小さく頷いて見せる。レイの腕の中はまた涙が出そうなほどあたたかくて、それ以上お喋りをする気になれなかった。

「それじゃあ、私もそろそろお暇するわ。おやすみなさい」

そう言って、彼女は私とレイの額にそれぞれ小さく口付けを落とす。くるりとその身を翻し、あっという間に元来た廊下を歩いて行ってしまった。

「さぁ、俺らももう寝よう?だだだ大丈夫だよ!君が嫌なら変な事しない!約束するからぁ!」

レイに手を引かれながら、私は彼女の静かな言葉を思い出していた。
レンゴクがどういう意味なのか、いつか彼女に聞いてみたいと思った。



「内緒話は済んだか」

寝台に寝そべったリアンユの言葉に、なまえは髪を梳かしながら「なんの事でしょう?」と首を傾げる。その仕草に、男はそれまで読んでいた本をそっとその場に伏せた。片腕で頭を支えながら、含みのある笑みを浮かべて妻の背を見つめる。

夫婦の寝室の前で、なまえと新人が何か話しているのは分かっていた。内容もあらかた検討がついているが、愛する妻がとぼけるならそのままにしておこうとリアンユは思う。

「眠れない子が居たから、おやすみのキスをしてあげただけです」

そう言いながら寝台に上がってくるなまえに、リアンユは手を差し伸べる。白い手を甘えるように引き寄せると、その胸元に自身の顔を埋めた。

「よもや、ここにも眠れない子がいるのだが?」
「...何を言うかと思えば、もう、」

呆れ顔をしたなまえがちゅ、と音を立てて額に口付ければ「其処じゃないな」と男が顔を上げる。大きな手が頬を撫で、ゆっくりと唇が重ねられた。
燃えるように熱い口付けは、なまえの身体を内側から炙っていく。

今宵もまた焼かれる。大好きな両親を捨て、この国で暮らし続けている罪を、愛する人の腕の中で。


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