頭を低れて故郷を思ふ


中国に留学したい。
突然そう切り出した私に、夕飯を共にしていた両親は露骨に難色を示した。つけっぱなしのテレビでは父の好きなお笑い芸人が渾身のネタを披露している。ツッコミの人がボケの人の頭をパン!と叩いた所でスタジオは大爆笑に包まれたが、我が家は誰一人笑わなかった。
渋い顔でリモコンを手に取った父が電源ボタンを押す。音もなく真っ暗になった画面に、蛍光灯の光がぼんやりと反射していた。無言。まるでお通夜のような重苦しい雰囲気の中、私だけがもぐもぐと唐揚げを咀嚼している。

人と違う事がしてみたかった。アメリカやオーストラリアなど英語圏に留学した人の話は時々聞くけれど、中国に留学した人の話は聞いた事がない。
冷え切った関係、国交断絶間近と囁かれつつも、中国に参入する企業は年々増加している。どんなに関係が悪化しても、今なお発展を続ける中国経済を日本が無視する事は出来ないのだ。
もし中国語が話せるようになれば、就活でも大きな武器になるだろう。留学費用も他国に比べれば格段に安く、大学からの補助金も出る。飛行機でも3〜4時間しか掛からないので、何かあればすぐに帰国出来るのもメリットだった。


出発の日。空港まで車で送ってくれた父は、相変わらず渋い顔のままだった。「ほら、お父さん」と母に脇を小突かれ、やっと「気をつけてな」と口を開く。

「変な奴について行くんじゃないぞ」
「大丈夫だよ。幼稚園生じゃないんだから」

そう軽口を言えば、父の口元もほんの少しだけ緩む。どんなに寂しくても、絶対に涙は見せないと決めていた。
だって、自分が行きたくて行くのだ。手塩にかけた一人娘を異国に送り出す両親を思うと、これ以上心配を掛けたくなかった。

「じゃあ、行って来ます!」

笑顔で国際線のゲートをくぐりながら手を振れば、両親も小さく手を振る。角を曲がると、当たり前だがもう独りだった。大きな荷物は既に預けてある。飛行機に乗り込み座席に腰を下ろした瞬間、ポロリと一粒だけ涙が零れた。
両親は展望デッキから私の乗る飛行機を見送ると言っていた。ここからも見えやしないかと、小さな窓を覗き込む。

と同時に、背筋にぶるりと悪寒が走った。とてつもなく嫌な予感がし、思わず膝上のブランケットを掴む。
やっぱり、行くのやめたい。
今更そんなふうに思っても、飛行機は既に離陸の準備を始めている。次にあの分厚い扉が開くのは、やむを得ず飛行機がどこかに不時着する時か、無事上海の空港に到着した時だ。

どうか、無事に日本に戻ってこられますように。
まだ飛んでもいない飛行機の中、ブランケットを握り締めて強く強く願った。

どうか、どうか。





無事着陸した飛行機を降りて向かったのは、大学指定の学生寮だった。

私がルームシェアをすることになったのは、リファと言う名の寡黙な女の子だ。おっとりとした雰囲気に長い睫毛で縁取られた大きな瞳、赤い唇がお人形のように可愛らしい。艶のある長い髪に蝶を模した髪飾りがよく似合っていた。

「これ、日本からのお土産です。良かったら食べて」

そう言って持ってきたお菓子を差し出すと、瞳をキラキラと輝かせる。美味しいお菓子が沢山ある中、リファが選んだのは駄菓子のラムネだった。

リファは同じ大学の特待コースに通っている、いわゆる秀才だった。私に中国語を教える代わりに、自分にも日本語を教えて欲しいと言う。他になにも差し出せない私は、彼女の申し出を二つ返事でオーケーした。

ある日の休日。二人で朝食の準備をしていると、紅茶にミルクを注ぎながらリファが口を開いた。

「私はこの後教会に行くんだけど、なまえも一緒に来る?」
「教会?」

欧米ならまだしも、中国人である彼女が休日の朝から教会へ行くのは意外だった。思わず聞き返せば、リファは私が聞き取りやすいよう、ゆっくりとした口調で説明してくれる。

「二週間に一度、貧しい人達に炊き出しをやっているの。私の姉さんも来るから、せっかくだしルームメイトを紹介したいなって。どう?」
「勿論行く!私もリファのお姉さんに会ってみたい!」

そう答えつつも、心の中には小さな不安があった。留学前、中国のニュースには一通り目を通しておこうと図書館に行ったのだが、置いてあった新聞に興味深い記事を見つけていたのだ。
政府による宗教の弾圧である。

一言で言えば、中国はとても愛国心の強い国だ。グレートファイアウォール、通称・金盾と呼ばれる検閲システムにより、政府にとって有害な情報は厳しく規制される。日本であれば当たり前に使える動画サイトやSNSも、この国のサーバーでは使えないのだ。
そして、本来自由であるはずの思想...−宗教も、昨今は規制の対象になっている。四川省のとある教会ではミサの最中に警察隊が押し入り、主催者夫婦と教徒数名を逮捕。「国外の宗教は邪教」としてシンボルの像が撤去された。

もし教会に出入りしているのがバレたら自分も逮捕されてしまうのではないか。そんな不安が顔に出てしまったのだろう、私を安心させるようにリファが口を開く。

「心配しないで。私たちは困っている人にほんの少し手を貸すだけ。本当にただのボランティアなの。悪いことはなんにもしていないわ」
「−うん、そうだね。そうだよね」

よくよく話を聞けば、リファやリファのお姉さんもその宗教の教徒ではないという。宗教や思想は関係なく、純粋な人助けとして活動に参加しているとの事だった。

朝食後、実際にリファと教会に行ってみたが、心配していたような事は起きなかった。異国という高揚感もあるのだろう。貧しい人達にあたたかいお粥を振る舞うのは、日本でのボランティアよりずっと新鮮で素晴らしい事のように思えた。リファのお姉さん二人も良い人で、私の拙い中国語に始終笑顔で付き合ってくれた。

「また再来週にね〜!」

手を振るお姉さん達に向かって、私達も大きく手を振り返す。慣れない土地で知り合いが増えた事が嬉しくて、次回も必ず参加しようと思った。
今日の事を手紙に書いたら、きっと両親も喜んでくれるだろう。そう思うと、あの日の嫌な予感が嘘のようだった。





ボランティアに慣れてくると、気持ちにも余裕が持てるようになった。お粥を求めてやって来る人々にも顔見知りができ、短い会話を交わすようになったのだ。

「こんにちは!なまえさん」
「こんにちは。すぐに準備するからもう少し待っててね」

その日、一番最初に挨拶をしてくれたのは、タィヤンという名の男の子だった。六人兄弟の長男で、下の子達を学校に行かせるために自分も働いていると言う。いつ会っても礼儀正しい、しっかり者の優しい子だった。
タィヤンは大抵、果樹園手伝いのレイとみなしごのイェズーと一緒だった。押し合い圧し合いしながら炊き出しの列に並び、私やリファからお粥を受け取っていく。

「おい!おれの粥なんか少なくねぇか!?」
「みんな同じ量だっつーの!タダで貰えるもんにイチャモンつけんなよ!」
「そうだぞイェズー。さぁ、冷めないうちに頂こう」

口々そうに言って、三人は湯気の上がるお粥をかき込む。具も少ないたった一杯のお粥だが、子供たちが笑顔で頬張っているのを見ると胸が痛んだ。
実際に留学してみなければ、きっとこんな光景を見る事もなかっただろう。忘れないようしっかりと目に焼き付ける。

「俺も貰っていいだろうか」

そう声を掛けられ、私はハッとして顔を元の位置に戻した。いつからそこにいたのだろう、鍋の前に立っていたのは、私より少し年上と思われる青年だった。
日雇いの肉体労働でもしているのだろうか。薄汚れたジャンパーを着ていても、がっしりとした体型なのが見て取れる。ふさふさとした金色の髪は中国神話に出てくる神獣・麒麟のようだ。

「あ、はい!ごめんなさい、ぼーっとしてて」

慌ててお椀を手に取れば、青年は大きな目を細めて「慌てなくていいぞ!」と笑う。沈んだ気持ちを吹き飛ばすような大きな声だった。

「最近よく見かけるが、この辺の人ではないな。日本人か?」
「え?そうですけど...、どうして分かったんですか?」
「日本人はすぐに謝るからすぐ分かる!文化の違いかもしれんが、出来る事なら直した方がいいぞ!」

トラブルに巻き込まれる、と青年は腕組みをして言う。それは日本を発つ時、大学の教授からも言われていた事だった。

中国では、幼い頃から両親に「人前で恥をかかないようにしなさい」と教えられるという。客人が来たら食べきれない程の料理を振る舞い、旅行に行ったら山のようにお土産を買って帰る。料理や土産をケチるのは恥。それが中国人にとっての美徳であり、面子を保つということなのだ。
そのため、人前で恥をかく“謝罪”は、彼らにとってとてもハードルが高い。謝る事は自分の非を認め、面子を潰すことに他ならないからだ。たとえ向こうからぶつかってきたとしても「そんな所に立っているのが悪い!」と言われる国である。

「そうなんですね。すみませ...あっ」

今指摘されたばかりだと言うのに、もう「すみません」という言葉が口をつく。日本ではちょっとした事でも謝ってばかりいたから、殆ど癖になっているのかもしれない。

「頑張って直しますね」

苦笑いしてお椀にお粥をよそった、まさにその時だった。
何かが倒れるような音が聞こえ、リファのお姉さんの叫び声がした。「やめてください」「お願いですから」と悲痛な声で何度も訴えている。どうしたのだろう、揉め事の予感に胸が黒くざわついた。
急いで駆け付けてみれば、そこにはリファのお姉さんを取り囲むように十数名の警官が立っている。早口の中国語は難しく、私の耳では到底聞き取れない。地面には炊き出しで使うお椀と大鍋が倒れ、飛び散った粥が泥と化していた。

「酷い...」

思わず足元のお椀を拾い上げれば、警官隊の一人が足早に近付いてくる。「何をしている!」と突然腕を捻り上げられ、思わず手に持っていたお椀を取り落とした。「痛い...!」混乱と痛みの中、私はやっと現状を把握する。ついに政府による宗教の弾圧がこの教会にもやってきたのだ。

「そんな!私たち、なにも悪いことしてませんっ...!」

どうにか説得しようと藻掻くが、焦れば焦るほど中国語が出てこない。しどろもどろになりながらそう叫ぶと「黙れ!」となんと頭を殴られた。
くらり、遠のいた意識の端で、リファが声にならない悲鳴を上げる。地面に膝を着きそうになった、まさにその時だった。

「謝れ」

太い腕に抱き抱えられた私は、寸での所で倒れずに済んだ。薄汚れたジャンパーには見覚えがある。私が粥を渡しそびれた、あの青年のものだ。

「もう一度言う、彼女に謝れ」

あれほど溌剌としていた声が、今は地を這うように冷たい。ゆるゆると視線を上げれば、そこには怒りに燃える青年の顔があった。まるで牙を剥いた獣のように、私を殴った警官を睨みつける。
駆け寄ってきたリファが「なまえ!」と私の身体を支える。青年の腕が離れた。

そこからは早かった。雄叫びを上げて飛び掛ってくる警官を、青年は目にも止まらぬ速さで避けた。体制を崩した相手に素早く拳を打ち込むと、さらに駆け寄ってきた別の警官に蹴りを入れる。突然の乱闘に、辺りからはわぁわぁと野次が飛んだ。

「大丈夫ですか?」

呆気にとられている私に声を掛けてきたのは、いつも礼儀正しいタィヤンだった。心配そうに手拭いを取り出したかと思うと、私の頭にそっと押し当てる。殴られた時は痛かったが、今は少し瘤になっているくらいだ。「ありがとう、タィヤン」礼を言った時には、もう全てが終わっていた。

警官達を全て打ち倒したにも関わらず、青年は息一つ乱していなかった。こちらまで小走りで駆け寄ってくると「大丈夫か」と私の顔を覗き込む。太い眉が心配そうに下がっていた。

「はい、大丈夫です。あの、」

青年の名前を聞こうと口を開いた時、遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。誰かが通報したのだろう。理由はどうであれ、私たちは警察に楯突いてしまったのだ。もし捕まればどんな罰が下されるか分からない。

「とにかく、一旦此処を離れましょう」

リファのお姉さんの一言で、私たちはバラバラに教会を後にした。リファに腕を引かれながらも、どうしても彼の動きを目で追ってしまう。
彼の大きな瞳もまた、こちらを見ていた。





その後、私はリファの知り合いがいるという病院で怪我の処置を受けた。もう殆ど痛みはなかったが、大事をとって一晩だけ入院になるという。「大袈裟だよ」と一度は断ったものの、責任を感じているリファのために大人しく従う事にした。

ぼんやりとベッドに横たわっていると、コン、と何かが窓にぶつかる音が聞こえた。コンコン、今度こそはっきりと耳に届いたそれは、誰かが窓を叩く音だ。サッとカーテンを引いてみれば、薄い硝子の向こうにあの青年が立っている。

「あなたは...!」

思わず声を上げれば、彼はシー!と口元に指を当てる。「静かに。本当は来ては行けないんだ」と悪戯っぽく笑った。面会時間はとうに過ぎている。そっと窓を開けてやれば、青年は「今日は災難だったな」と乗り出すように窓枠に腕を預けた。

「もっと早く止めに入るべきだった。君が怪我をしたのは俺のせいだ。すまない」
「そんな、むしろ感謝していたくらいなのに...!」

もし彼が居なければ、あそこに居た全員があらぬ罪で逮捕されていたかもしれないのだ。「ありがとうございました」と頭を下げれば、「そう言えば自己紹介がまだだったな」と青年は笑みを浮かべる。

「俺はリアンユ。あの教会の近くを仕切っている者だ」
「? 仕切っているって?」

そう問えば、リアンユは「うーん...」と首を傾げる。その仕草が妙に子どもっぽくて、なんだか可愛く思ってしまう。

「簡単に言えば、自警団みたいなものだろうか。君も身を持って知ったと思うが、この国の法は既にその機能を失いつつある」

彼の長い指が私の頭に触れる。「痛むか?」という問いに、私はふるふると首を横に振った。自分の怪我の事よりも、リアンユの言葉に思いを馳せる。

本来正義であるはずの警官が一般人を殴る。日本であれば考えられない事だ。しかし、一般人が警官を殴るというのも、また考えられない事だった。彼は自警団という言葉を使ったが、あの乱闘ぶりを見るとストリートギャングの方が近いように感じる。私にはあまり馴染みのない世界だった。

「怖がらせただろうか」

しょんぼりと眉を下げるリアンユに、私は再び首を横に振る。暴力は確かに良くないが、リアンユが故意に犯罪に手を染めているとは思えなかった。きっと大勢の仲間から信頼されているリーダー的な存在なのだろう。聞けば、あの礼儀正しいタィヤン達も彼の仲間なのだと言う。

「私、まだ中国語は勉強中なんです。リアンユってどんな字を書くんですか?」

そう問えば、リアンユの顔がぱっと明るくなる。「手を出してくれ!」と言うので素直に右手を差し出すと、彼は私の手のひらに指で文字を書いた。複雑な字だ。日本の漢字を当てはめるなら煉獄≠セろうか。

−煉獄。天国と地獄の間にある、浄化の炎で身を焼き清める場所。

「覚えたか?」
「ちょっと難しいかな...。でも必ず覚えます」

そう答えれば、彼は嬉しそうに私の手を握る。昼間警官を殴った手は驚くほど優しく、まるで陽だまりのようにあたたかかった。
大きな瞳に私が写っている。それを見た瞬間、どくんと心臓が高鳴るのを感じた。

「...また会ってくれるだろうか。勿論、君さえ良ければという話だが」
「...えぇ、勿論」

口ではそう答えながらも、心臓は痛いほどに脈打つ。
日本が遠くなったような、そんな気がした。


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