狼火

“エレベーター点検中。現在使えません”

そう書かれた貼り紙を前にして、不死川は忌々しげに舌打ちを零した。重い腕を上げて腕時計を見れば、時刻はもうすぐ21時になる事を示している。不死川の部屋は503号室。エレベーターが使えないなら階段で行くしかない。残業を終え、疲れた身体を引き摺って帰ってきたと言うのに、この仕打ちはどういう事なのだろうか。

まだ幼い兄弟達が眠る横で持ち帰った仕事をするのは忍びないと、わざわざ借りた一人暮らし用の部屋。職場に近く、家賃もそこそこ安いこの賃貸マンションは、なんと今年で自分と同い歳だ。実家に近く愛着もあるものの、毎月のようにやれ雨戸いが壊れただの、共用廊下の電気が点かないだのと点検が入るのが難点だった。どうやら今日はエレベーターがイカれたらしい。重い溜め息を吐き出し、その横の階段へと足を進める。

教師という職業柄、階段を上り下りするのは慣れている。慣れているけれども、仕事終わりにまでそれを要求されるのは勘弁して欲しかった。錆びた階段は歩く度にギッ、ギッ、と不穏な音を立て、次はこの階段が点検で閉鎖されるのではと不死川を苛立たせる。
階段を一つ上る度に大きく開かれた胸元に汗が吹き出す。暦の上ではもう秋だと言うのに、日が落ちた今も辺りには昼間の暑さが漂っていた。
あークソあちィ。言いながらバサバサとシャツを引っ張り、肌と布の間に僅かな風を入れる。

自身が住まう5階の廊下に着いた時、不死川は「お?」と目を見開いた。自室である503号室に明かりが灯っているのが見えたからだ。
そう言えば、玄弥が「教えて欲しい計算式がある」と言っていた気がする。「ンなもん教科書に全部書いてあンだろーがァ!」と突っぱねたい気持ちもあったが、射撃部の賞状を破いた後も兄ちゃん兄ちゃんと寄ってくる弟を可愛く思う気持ちもあった。
仕事で疲れてはいるが仕方がない。可愛い弟のためなら、少しくらい勉強を教えてやろうではないか。そう思って鉄製のドアを開けば、美味しそうな味噌汁の匂いが鼻を擽る。実家にいた時、忙しい母の代わりに料理をするのは、もっぱら長兄である自分の役割であった。

「玄弥ァ?飯ィ...、」

そう言いながら靴を脱ぎ、玄関を上がった時だ。

「ここはね、このxを代入して...」

「あぁーなるほど!じゃあこれは...」

「そうそう、そこにyを...」

「おぉ!出来ました!みょうじさんの説明、めちゃくちゃわかりやすいっス!」

聞こえてきた二人分の声に、不死川はリビングのドアノブを掴んだまま静止する。それは紛れもなく弟の玄弥と、自身の恋人であるなまえの声であった。なまえには合鍵を渡してあったが、まさか今日このタイミングでエンカウントするとは。どうすべきか迷いつつ、もう少し二人の会話を聞いてみたい気持ちが勝る。

「みょうじさんって、兄ちゃんの彼女さんなんですよね」

「うん、一応そういうことになるのかな」

へらりと笑うなまえに不死川の苛立ちが募る。そういう時は普通に「うん、そうだよ」でいいだろうがと舌打ちしそうになるが、寸での所で我慢した。

「兄ちゃんて、二人きりの時どんな感じっスか」

玄弥の言葉に、なまえが「えっ」と言葉に詰まる。テメェ何聞いてんだクソがァ!今すぐ二人の間に割って入りたかったが、唇を噛み締めてグッと堪えた。

「ふ、普通だと思うけどなぁ。一緒にご飯食べたり、買い物に行ったり。口は悪いけどなんだかんだ優しいというか、面倒見がいいというか...」

「...そっスか」

あからさまにガッカリしたように玄弥が言い、二人の間に沈黙が落ちた。「こんな事いうとアレなんですけど...」と弟がさらに口を開く。

「俺、なんていうか出来が悪くて。兄ちゃんのことめちゃくちゃ好きなのに怒らせてばっかりなんスよ。授業だってちゃんと聞いてるはずなのに、兄ちゃんの顔見てると「わー、兄ちゃんだー」ってなっちゃって。だから、俺以外の人と一緒の時、兄ちゃんどんななのかなって気になって...」

弟の拙い言葉に、不死川は一人目を見開く。ドアノブを掴む指に力が籠った。

それは自分自身も感じている事だった。可愛い弟のはずなのに、どういう訳か自分は玄弥に厳しく当たってしまう。大勢の前で賞状を破いたり、「もっと数学を勉強しろ」と罵ったり。本当に可哀想な事をした。

「玄弥くん...」

なまえの声の後、玄弥がすんっ、と鼻を啜る音が聞こえてくる。弟が泣く声を聞くのは、随分と久しぶりの事だった。やはり盗み聞きなどすべきではなかったのかもしれない。しかし、今更どうすることも出来ない。
「ただいま...」そう言いながら、リビングのドアを開けた時だ。

「大丈夫だよ玄弥くん!さっきはああ言ったけど、不死川さんめちゃくちゃ玄弥くんのこと想ってるよ!?この間もスーパーでスイカ見て「玄弥に食わせてやりてぇなァ」って言ってたし!」

「えっ...」

突然の恋人の言葉に、不死川は我が耳を疑う。その西瓜は自分で買ったにも関わらず「学校で煉獄に貰った」と嘘を言って実家に差し入れた物だった。まさか、こんな所でバラされるとは。
羞恥でぶるぶると震える不死川を他所に、なまえの言葉は止まらない。

「その前もね、「玄弥は盆栽が好きでなァ」って本屋さんで盆栽の本立ち読みしたり、西部劇観ながら「射撃ってどのくらい難しいモンなんだろうなァ」って呟いたり!もうほんと玄弥くんのこと好きだよ!きっと恋人の私より玄弥くんのこと好きだよ!!この間だって」

「だァあああああ!もうやめろクソがァあ!!」

なにもかもを暴露され、不死川は顔から火が出そうになる。恥ずかしくて死ぬと思ったのは生まれて初めての事だ。ハァハァと肩で息をする男に、玄弥となまえは声を揃えて言った。

「あ、おかえり」

どこか間の抜けたその声に、不死川は頭を抱えるのだった。




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